第71話 赤眼の夜行
二つの赤い灯りが、ゆらりと街道の闇に浮かんでいた。
その揺らぎに合わせるように、馬の蹄の音が一定のリズムで近づいてくる。夜気を切り裂くたび、森の奥で潜んでいた虫の声さえ途切れるようだった。
リアンとサラは同時に身構えた。
手綱を握るリアンの指先は無意識に強張り、隣で腰に手を添えたサラの横顔には、冷ややかな鋭さが浮かぶ。
「……山賊かもしれないわね」
低く呟いたサラの金の瞳は、遠くの灯りを射抜くように細められていた。
「もしそうなら――殺すからね」
短い一言に、容赦のない現実が潜んでいる。
リアンはわずかに喉を鳴らし、かろうじて言葉を返した。
「……わかった」
やがて、闇を割って二騎の影が現れる。
赤いランタンを掲げ、ゆっくりと進むその姿。
すれ違う瞬間、光がフードの内側をわずかに照らしたが、顔は深い影に覆われ、表情までは読み取れなかった。
その刹那――サラと騎乗者の視線が交錯する。
赤光の奥に覗いた瞳は、人のものとは思えぬほど冷たく澄んでいた。
短い一瞬でありながら、肌を刺すような冷気が走る。
だが彼らは振り返ることなく闇の中へと去り、灯りだけが遠ざかっていった。
リアンは肺の奥からようやく息を吐き、肩を落とす。
「……ただの旅人、だよな」
安堵の響きを帯びた声。
しかし隣のサラは答えず、馬車の後方を振り返ったまま、金の瞳にわずかな影を宿していた。
⸻
馬車を進め、しばらく街道を行くと――突如として、鼻を刺す鉄の匂いが漂ってきた。
森の闇を割ったのは、血に濡れた惨たらしい光景だった。
街道脇に無造作に転がる複数の死体。
血は乾ききらず、地面を黒く濡らしている。
斬り裂かれた喉、貫かれた胸、折り曲げられた四肢――どれも抵抗の痕跡を残すことなく、無慈悲に叩き伏せられた跡だった。
「……山賊か」
リアンは息を震わせ、慌てて馬車を止めて駆け寄る。
膝をつき、一人ひとりに触れる。
「まだ……生きている人は……!」
掠れた声で呼びかけながら衣服を押さえるが、返ってくるのは冷たく沈んだ静寂ばかり。
サラが遅れて歩み寄り、血の匂いの中で冷淡に言い放つ。
「こういうことになるのよ。山賊をやるってことは……いずれこうして返ってくる覚悟をしてるってこと」
その声音は情を挟まず、ただ現実だけを告げていた。
リアンは言葉を返せず、唇を噛み締めたまま視線を落とす。
胸の奥に重い塊が沈んでいく。
――せめて、魂だけでも。
震える右手を掲げ、紋章へと意識を集中する。
淡い光が指先に宿り、背後に舟の幻影がゆらりと揺らぎ始めた。
「……行こう。せめて、導かせてくれ」
だが――光は反応しなかった。
幾度も導いてきた魂の残滓が、そこには一つもない。
「……っ、そんな……!」
リアンの目が大きく見開かれる。
惨たらしく斬られた死体。呻きも、嘆きも残さずに絶命した者たち。
――どこにも、魂がない。
「おかしい……」
リアンの喉から掠れた声が零れ落ちる。
「こんな殺され方をして……どうして、未練が……何も……」
サラは静かに彼を見下ろし、金の瞳を細めた。
その視線は冷ややかでありながら、同時に深い疑念を孕んでいる。
冷たい沈黙が二人を包み、森の奥の闇がじわじわと濃さを増していった。
⸻
森の空気はますます冷え、夜の底が張り詰めていく。
リアンは地に横たわる死体から目を離せず、握りしめた拳を震わせた。
「……魂が、一つもないなんて……ありえない……」
掠れた声は夜気に溶け、すぐに静寂に呑まれていった。
サラは言葉を返さず、金の瞳を細めて周囲をゆっくりと見回していた。
血の匂いが染みついた街道に、沈黙だけが広がる。
彼女の視線は、目に見えぬ“手”の痕跡を探すように鋭く揺れていた。
やがて――リアンははっと顔を上げ、背後を振り返る。
――赤い光。
闇に沈んでいたはずの空が、不自然な色に染まっていた。
地平線の向こう、揺らめく赤は炎のように空を焦がし、まるで山そのものが燃え上がっているかのようだった。
「……あれは……」
リアンの声が震える。胸を締めつける直感が、心臓を早鐘のように叩かせた。
「村の方向だ……!」
息を呑んだ瞬間、脳裏をよぎる。
(まさか――さっきの二人が!)
血の気を失った顔で、リアンは慌てて馬車へ駆け戻った。
「急がなきゃ……村に戻らないと!」
手綱を握り直そうとしたその時、鋭くサラの声が飛ぶ。
「待ちなさい、リアン!」
振り返った先――サラの表情はいつになく硬い。
金の瞳は闇の中で鋭さを帯びながらも、どこか迷うようにわずかに揺れている。
「……行かない方がいい」
短く言い放つ声音には、いつもの余裕も皮肉もなく、ひどく生々しい緊張がにじんでいた。
リアンは息を荒げ、必死に食い下がる。
「でも――村が! もしあの二人が向かったんだとしたら、放っておけない!」
「……あんたには、まだ、早い」
サラの低い声が夜の空気を震わせた。
それは冷徹さではなく、むしろ庇護の色を帯びている。
彼女の言葉の奥に潜むのは、血にまみれた光景をリアンに背負わせまいとする思いだった。
だが、リアンは首を横に振り、真っ直ぐに彼女を見返す。
「見なきゃいけないんだ」
「……俺は、導き手だから」
一瞬の沈黙。
サラは深く息を吐き、肩を落とした。
「……まったく、頑固なんだから」
諦めたように呟いたその声音には、苦みと、かすかな哀しみが混じっていた。
リアンは迷わず馬の腹を蹴りつける。
街道を駆け戻る馬車。揺れる赤光はますます強さを増し、夜空を焦がすように村の方角を染め上げていた――。
⸻
村に近づくにつれ、夜気は熱を帯びていった。
遠くからでもわかる――炎の匂い。
乾いた木が焼け焦げる匂いに混じって、鉄錆のような血の臭気が鼻を突く。
風に乗って悲鳴と怒号が途切れ途切れに届いてきた。
リアンは手綱を握る手に汗を滲ませ、胸の鼓動が早鐘のように打ちつける。
(……間に合わない……!)
村の入り口に差しかかった瞬間、――そこは、地獄だった。炎は屋根から空へ、悲鳴は喉から風へ。風さえ、焼けていた。
家々は火に包まれ、赤黒い煙が夜空を覆う。逃げ惑う人々は次々と倒れ、阿鼻叫喚の渦が街道を満たしていた。
だが、その惨状の中心に――“ひとつの影”があった。
人の形をしているはずなのに、炎を背負ってなお黒々と濃く、輪郭は煙のように揺らいでいる。
その影が動くたび、村人が血を噴き散らして崩れ落ちた。
遠くにいた者たちは息を潜め、影に気づかれぬよう闇へ逃げようとする。
だが、次の瞬間――何かに捕らわれるように叫び声をあげ、目に見えぬ力でねじ伏せられ、命を断たれた。
「……っ!」
リアンの喉から悲鳴が洩れかける。
燃え盛る炎が照らす光景は、ただの虐殺ではなかった。
生きるための抗いですらなく、冷徹に“狩り取られている”。
リアンは拳を握りしめ、馬車から身を乗り出す。
(止めなきゃ……! 俺が……!)
胸の奥で叫ぶのに、足は地に縫いつけられたように動かない。
導き手であるはずなのに、目の前で散っていく命にただ立ち尽くしていた。
――その背後で、サラはただこの光景を見つめていた。
慣れたように、しかし決して無関心ではない瞳で。
彼女はリアンの動揺を背中越しに受け止めながら、戦場という現実を黙って見届けていた。




