第70話 「選択を選ぶ者」
村に戻ったリアンとサラは、すぐに町長の屋敷を訪ねた。
夕暮れの光が斜めに差し込み、古びた木の床を朱に染める。広間には長年使い込まれた椅子と机が並び、空気だけが重く沈んでいた。やがて、背筋を伸ばした白髪の男――町長が姿を見せ、皺の間に安堵と不安を同居させた顔で二人を迎えた。
「……どうでしたかな?」
声は小刻みに震え、言葉の端々に“すがる”響きが滲む。
リアンは短く、しかしはっきりと答えた。
「瘴気の源は――大木でした。そこから魔物が……百体ほど」
「百体も……!」
町長は目を見開き、杖を握る手が白く強張る。喉がひゅ、と鳴った。
そのとき、隣のサラが一歩、床板を鳴らして前へ出た。
「全部、私ひとりで倒したわ」
「えっ――」
リアンは思わず声を上げかけ、咳払いで誤魔化す。横目に見たサラの口元には、薄い微笑。金の瞳が笑っていない。冗談めいた軽さの裏に、状況を制御しようとする固い意思が光っていた。
「……そ、それは……なんと……!」
町長は息を呑み、次の瞬間には深々と頭を下げていた。
「村の者一同、命拾いをいたしました。本当に、感謝いたします」
感謝の言葉に混じる、長く背負った重みがほどける気配。頬の陰りが、わずかに薄れる。
「今日はもう日も落ちましょう。お疲れもあるでしょうし、どうか今夜は泊まっていってください」
サラは首を横に振った。
「いいえ。私たちは王都へ急ぐの」
踵を返し、扉へ向かう。広間の空気が、彼女の背中に押されるように揺れた。だが取っ手に触れる直前、肩越しに軽く振り返る。
「安心して。もし山賊が出ても――私なら瞬殺だから」
冗談めかした声音なのに、底冷えする確信が宿っている。
「……は、はは」
町長は苦笑をにじませ、深追いはしなかった。ただ、深く頷いた。
その頷きが、広間に残る夕陽をゆっくりと沈めていった。
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屋敷を出ると、夕闇が村の輪郭を呑み込みはじめていた。荷を馬車へ積みながら、リアンは無意識に考えを巡らせる。
(……先手を打っていたんだ、サラは)
この村の者たちが――山賊だったと。
けれど、あの場でそれを暴けば、疑いは刃に変わる。血が流れ、生きている者の命をまた奪うだけ。
だから彼女は軽く受け流し、無駄な血を流させないために――そう見せたのだ。
あえて“見逃した”。それが、彼女なりの答えだった。
(俺なんかより、ずっと遠くを見てる……)
彼女は“裁くこと”よりも、“終わらせること”を選んだんだ。
横顔に目をやる。銀髪が夕風にほどけ、紅の瞳が残光を掬う。飄々とした仕草の奥で、刃のように緻密な計算が回っていた。
胸の奥に小さなざらつき――悔しさと、なぜか安堵が同時に沈む。
⸻
馬車は石畳を離れ、村影を背に森道へ。
残光は梢に沈み、群青が森の肌を染めていく。車輪の軋み、馬の吐息、皮手綱の乾いた鳴き――夜がじわじわと近づいていた。
沈黙ののち、リアンが口を開く。
「……さっきの、町長への言い方。どうして、ああ言ったんだ?」
手綱を握る指先にわずかに力がこもり、革がきしむ。
サラは窓の外に視線を逸らし、暮れゆく森の模様を追いながら素っ気なく答えた。
「あんたは、私に人を殺してほしくないんでしょ?」
「……!」
リアンは言葉を失い、短い息を漏らす。俯いて小さく「……ごめん」と零した。
サラは肩をすくめ、片唇だけで笑う。
「謝ることじゃないわ。責めてないもの」
夜気が白く馬の鼻息に溶ける。冷えた風が頬を撫で、沈黙が戻る。
やがて、サラの声が低く落ちた。
「でも――山賊は、人を殺してもいいの?」
「え……?」
「見たでしょう、記憶を。襲われて殺された人たちの、最後の瞬間を」
淡々。だが刃のような直線が、胸の奥まで届く。
リアンは喉を鳴らし、言葉が形にならない。
サラは視線を外さない。金の瞳に揺らぎはない。
「どうして? あの人たちは殺されてよくて、山賊は生かすべきって思えるの?」
問いは冷酷ではない。裁きでもない。純粋な“核心”だけが置かれた。
リアンは唇を噛み、胸の中で渦巻く言葉の断片を拾い集める。
喉の奥で言葉が崩れ、ただ風の音だけが残った。
「……俺は……」
掠れた声が、ようやくこぼれる。
「誰の命も……奪いたくない。ただ、導きたい。それだけなんだ」
馬の蹄が間を打つ。森の奥で、枯れ枝が小さく割れた。
サラは少しだけ目を細める。
「きれい事よ」
淡々。けれど、その芯は現実の温度で熱い。
「あんたが祈っても、誰かはまた奪う。生きてる限り、あいつらはまた襲う」
「……それでも――」
「それでも、なに?」
声は冷たくない。まっすぐ。
「あんたは自分が殺されてもいいの? 魂を導くために、命を捨てるつもりなの?」
答えは出ない。喉が詰まり、心だけが暴れる。
やがて、リアンは正直に吐き出した。
「……わからない。人を殺す理由を、正しく言葉に……できない」
それは弱さではなかった。誠実さの形だった。
サラはまばたきを一度だけして、短く頷く。
「いいわ。それが今のあんたの答え」
そして、わずかに表情を和らげた。
「……でもね、見ようとするその目は、嫌いじゃないわよ」
風が枝葉を渡り、暗い梢がざわめく。馬車は音を背負い、さらに山道の奥へ。
⸻
しばらくののち、サラが言葉を継いだ。
「答えは今すぐじゃなくていい。ただ、目を逸らさないこと」
リアンは手綱を握り直す。指に革の感触、掌にわずかな痛み。意識が現実へ戻る。
「導く相手の多くは、人が人を殺して、恨みに縛られた魂。救っても、またどこかで同じことが起きる。……それが、この世界」
「わかってる」
リアンは小さく頷き、息を詰めた。
サラは声色をほんの少し和らげる。
「魔物だって生きたい。ただ、人とぶつかるから敵になる。それだけ」
リアンは彼女を見て、また前を見る。
「導くだけじゃ足りない気がする。もっと……変えられる方法が、どこかに」
「なら、探しなさい。導き手としても――一人の人間としても」
言葉が胸に灯り、小さな光点になる。消えない微かな火。
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日は傾ききり、街道の影が長く重なる。群青が濃く、風は冷たく。
頼れるのは車輪の軋みと、馬の吐く息。
「暗くなってきたわね」
サラが指を鳴らす。掌にひとしずくの火――それが瞬き、羽を生やして鳥の形になる。
燃える羽が一回、夜を撫でる。闇が退き、幹の肌が揺れる。リアンは息を吐き、手綱を軽く緩めた。
「助かる」
「ね、便利でしょ」
軽口。だが、その直後――
風が一瞬、止んだ。
「……見て」
サラが顎で前方を示す。
街道のさらに奥。闇の底に、淡い赤。
最初は炎の影だと思った。だが違う。風に流れない。揺れは灯火のくゆりに似て、軌跡は一直線。
やがて、二つ。双つの赤が並び、形を持ち始めた。
――炎ではない。
――瞳だった。
夜を裂くように、赤の光がこちらを射抜いていた。
リアンの手が、無意識に手綱を握り締める。
鼓動がひとつ、静かに跳ねた。
森の息が止まる。
車輪が、低く一度だけ鳴った――。




