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『魂を導く紋章師』  作者: nukoto


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第72話 『炎の村、黒き影』

 ――炎と悲鳴に覆われた村の奥、そのただ中で影はゆっくりと手を伸ばした。

 掴んだのは村長だった。肩を捻じられた村長が喉を引き裂くような声で叫ぶ。


「た、助け――誰か――!」


 助けを求める声は火勢の轟きに呑まれ、空で砕けた。

 次の瞬間――肉が裂ける鈍い音が夜を切り裂く。


「や、やめ――あああああっ!」


 村長の身体は無惨に引き裂かれ、赤が炎に照らされて闇へ飛沫を描いた。


 そこから、異様な現象が広がっていった。

 あたりを覆っていた黒霧がざわめき、呻きや嘆きが幾層にも重なった低い響きを立てながら渦を巻く。

 その全てが、影の塊へと吸い込まれていく。


「……聞こえる?」

 サラが低く呟く。

「声よ。恨みと恐怖の。――吸ってる」


 夜気が震え、村は不気味な共鳴で満ちた。


 リアンは息を呑む。視界が揺らぎ、膝が笑った。

「……な、んだ……あれは……」


 全身から血の気が引いていく。胸奥の《舟》の紋章が微かに疼き、すぐ冷えた。

 魂は震えるのに、導きは応じない。拒まれている。


 隣のサラは無言のまま、炎に照らされる輪郭を見据える。

 銀の髪が炎光を弾き、赤く瞬く。金の瞳は刃のように細まり、光を切り返した。


 そのとき――塊が動いた。

 村人を切り裂いたときと同じ、静謐すら帯びた気配のまま、ゆっくりと顔をこちらへ向ける。

 燃え盛る火勢を背に、輪郭は黒々と濃い。目に見えぬ黒靄そのものが人型を成しているかのようだ。


「……こっちを見る」

 リアンが喉を鳴らす。

「来るわよ」

 サラが短く答える。踵が半歩、前へ出た。


 影は地を滑り、間合いを詰める。

 ただ近づいてくるだけで、周囲の空気が重く押し潰される。肺が縮み、足元の大地が軋んだ気がした。


 リアンの足は動かない。恐怖に縫い止められた針が、筋肉一本一本に打ち込まれたように。

 声も出ない。迫る気配に、意識ごと呑まれそうになる。


 その前に――一歩、影とリアンの間へ差し入る影があった。


「下がってなさい」


 サラだった。

 炎を受け赤く煌めく銀の髪。抜刀はまだ。だが背中には、揺るぎなき意志と圧が宿る。


「サラ……!」

「いいから。――見て。目を逸らしたら、次も来る」


 塊は止まらない。燃え盛る村を背負い、黒靄の塊は真っ直ぐ迫る――。


 歩みに合わせ、周囲の炎が不自然に揺らいだ。

 サラは一歩も退かず、その輪郭を射抜きながら思考を巡らせる。


(……見たことのない異常。魔物の“質”じゃない。魂の寄せ集め……? それに――さっきの二人組が見えない)


 脳裏を掠める、闇で交差した赤い灯り。背筋を刺した冷たい視線。

 そして、魂すら残さず絶命していた街道の死体。


(外からの縛り……紋章?)


 サラは鼻で短く息を吸い、耳を澄ませる。

「風の層が逆流してる。紋章の“縛り”の時だけ起きる歪みよ」


 結論に触れた刹那、塊が弾かれたように加速した。

 黒靄を裂いて突進、火を纏った輪郭は瞬きの間に間合いを詰める。


 鋭い爪がサラを薙ぐ。

「――ッ!」


 紙一重で躱す。髪がじり、と灼けた匂い。

 二撃、三撃――畳みかける連撃。

 軌道が揺らぎ、速度は増す。読みづらい。だがサラはぎりぎりの回避を重ね、足を滑らせ流し、軸を崩さない。


「おもしろい」


 吐息ほどの声で笑い、間を測る。

 火の赤に照らされ、銀髪が閃光のように舞う。黒霧の夜気の中、軌跡は鮮烈だ。

 瞳は焦らない。速度を測り、同時に周囲を観察する。


(本体は奥か?踏み込めば――リアンが持たない)


 爪が石畳を抉り、火花が跳ねる。

 その一瞬の間隙――サラの視線が燃え盛る家々の向こうへ走る。


 焼け落ちた梁の影。闇に沈む輪郭。

 フードを深く被った二人組が、じっとこちらを見ていた。炎に照らされながらも瞬きもせず、ただ“観察者”の姿勢で。


(……やっぱり、いたわね)


 サラは口元をわずかに吊り上げる。冷えた笑み。

「観てるだけ? それとも――試してる?」


 踏み込み。鞘走り一拍、抜剣。

 轟、と火が刃に喰い付き、剣閃が夜を裂く。塊を縦に断つ。


 黒靄が爆ぜ、四散。炎光がさらに夜を明るくした。


 村の奥の二人組が、わずかに身を引く。観察者の仮面がひび割れた気配。

 だが――裂かれた塊は、瞬時に黒霧を絡め直し、元の姿へ。


「なるほど」

 サラの金の瞳に冷たい光が宿る。

「手間を取らせるタイプね」


 炎をさらに纏わせ、次々斬り伏せる。火花、熱、断裂。

 その都度、塊は崩れ――そして戻る。不死の再生。


「しつこいのは嫌いじゃないけど」

 サラは肩を回す。

「付き合う暇はないの」


 ――その異様の前で、リアンは動けなかった。


(助けろ。導け。立て)

 胸の奥で声が沸く。

 しかし足は地に縫い止められ、震える手が剣の柄を固く握るだけ。

 火と黒靄の渦で戦うサラの背中を、ただ見上げる。


(俺は……また、見てるだけなのか)


 熱風が頬を叩き、炎の唸りが鼓膜を揺らす。拳が震え、呼吸は浅い。


 猛攻をいなしながら、サラは冷静に結論へ辿り着く。


(奥に本体。けれど――今は届かない)


 爪が迫る。火を纏った一撃を身を翻してかわし、頬を掠める熱。

 指先が払われ、銀のツバメが舞い上がる。光の軌跡が一直線に奥の二人組を射抜く――


 届かない。

 空気に縫い止められたように失速し、瞬時に凍りつき、砕け散る。

 氷の破片が地面に散る音が、炎と悲鳴の渦で異様なほど澄んだ。


「やっぱり――ただの観客じゃない」


 サラの瞳が細く尖る。

 迫る塊を断ち割り、再生の刹那に振り返らず声を投げる。


「リアン!」


 そこには――まだ動けないリアン。

 白くなった指。震える全身。地面に縫われた足。


 サラは舌打ち。斬撃一閃、輪郭を両断。

 その隙へ、烈火の怒声を叩きつけた。


「――動けッ、導き手!!」


 雷鳴のようなその声が、リアンの胸を撃ち抜く。


「――ッ!」

 耳が震え、心臓が跳ねる。貼り付いた恐怖の膜が破れ、息が戻る。

 視界の焦点が一気に合った。


(……俺は――)


 荒く息を吸い、震える足に力を込める。血が熱を帯び、胸の奥に小さな火が灯る。

 動く。――自分の意思で。


 リアンは一歩を踏み出す。重いが、確かな一歩。

 それを見たサラが、刹那、口元を緩めた。


(そう。それでいい)


 塊は止まらない。再生し、また爪が伸びる。

 サラは火の刃でいなし、跳ねる。


「こいつ、黒靄の塊――魂そのもの!」

 振り返らず叩きつける。

「――あんたの導きで、どうにかしなさい!」


 剣がうなり、塊が四散。黒煙の破片が漂い、また集まり始める。


 リアンは荒い息のまま、自分の右手を見る。

 胸に言い聞かせるように、低く呟いた。


「舟は――ここだ」


 次の瞬間、リアンの背後に光が生まれる。

 揺らめく幻影――形なき《箱舟》が、淡く浮かんだ。


 四散した黒靄が、再び一つへと収束していく。

 その蠢き、形を戻す“間”――


「今だ!」

 サラの声が背を押す。


 リアンは右手を差し伸ばす。指先が黒に触れた刹那――


 奔流。

 塊の奥から、記憶が雪崩れ込む。


 荒んだ眼。

 刃が振り下ろされる音。

 村人の叫び、子の泣き声、焼ける木の裂鳴。

兵が血を吐いて崩れ落ちる影。

 助けを求める指が、土を掴み、爪を割る。

 そして、見えない何かに襲われた“最後の瞬間”。


 恐怖、恐怖、恐怖。

 幾層もの恐怖が重なり、刃の束になって胸に突き刺さる。


「っ……は、ぁ――!」


 リアンは歯を食いしばり、全身の震えを抱えたまま受け止める。

 熱と寒気が同時に走り、視界の端が白む。

 魂の慟哭が渦をなし、彼の奥深くへと落ちていく。


「――導け、リアン!」

 サラの声が、落ちていく先へ綱を垂らした。


「来い……!」

 リアンが絞り出す。

「ここで、終わらせる!」


 箱舟の幻影が、静かに口を開く。背に、逆光の舷がふっと浮いた。

 黒い塊が、たしかに揺らいだ。


 ――そして、塊は霧散した。

 黒は煙のように消え、炎の唸りだけが残った。


 サラは肩で息をしながら剣先を下ろし、ちらと奥の二人組に目を遣る。

 フードの陰の“観察者”は、なお動かない。だが、確かに揺れた。


「見えてる?」

 サラが低く告げる。

「次は――そっちよ」


 リアンは膝に手をつき、荒い呼吸を整える。

「……大丈夫。行ける」


 炎がはぜ、夜が赤く脈打つ。

 静けさは、次の一撃を待つ沈黙に変わっていた。

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