↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『魂を導く紋章師』  作者: nukoto


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

56/312

第55話 「少しで十分」

 朝の空気は冷たく澄み、馬の吐息が白く立ちのぼっていた。

湖から吹く風はまだ少し湿り気を帯び、夜の名残を運んでくる。


サラは無言で荷をまとめ、馬の鞍に手際よく括りつける。

結び目を確かめ、もう一度締め直す指の動きが速い。

その背は硬く、視線を合わせようとしない。

金の瞳の奥には、昨夜の星々がまだ揺れているように見えた。


リアンは手綱を握りながら、懐から布包みを取り出す。

宿の女主人から渡された、温もりを残す弁当だ。

「……朝飯代わりに」

差し出すと、サラはちらりと横目で見て、無言で受け取る。

包み紙がかさりと鳴り、わずかな沈黙のあと――

「……ありがと」

聞き取れるかどうかの小さな声。指先だけが、ほんの少し柔らかくなった。


馬車が軋みを上げ、ゆっくりと村を離れる。

木立の隙間に湖面がきらめき、昨夜の月の記憶がそこに残っていた。


「湖、もう見えないわね」

「うん。……でも、しばらく匂いは残る」

「嫌いじゃない匂いよ」

そう言って、サラは包みから干し肉を一切れ取り、無言でリアンに渡した。

「半分、食べなさい」

「命令形……」

「守り手の助言」

「はいはい」


――


馬車は森を抜け、道は緩やかに丘陵へ。

湿った風は乾いた草と土の匂いへと変わり、午前の日差しが影を道に揺らす。


サラは荷台の縁に肘をつき、頬杖を当てたまま前方を眺めていた。

普段の鋭さがわずかに和らぎ、遠い記憶を追うような横顔。


「……風が変わったね。湖からもう離れた」

リアンが静けさを破ると、

「ええ。匂いも軽くなった。……こういう空気は、少し楽になる」

サラは金の瞳を細め、風に揺れる草を見やった。


「でも喉に砂粒が混じってるみたいだ」

「慣れてないだけ」

サラはわずかに口元を緩め、水筒を投げてよこす。

「ほら、文句言う前に水分」

「ありがと」

冷たい水が喉を潤し、リアンの表情も少し和らいだ。


太陽が頭上を過ぎるころ、遠くに畑地や小さな村々が点々と見え始める。

車輪は小石を弾き、蹄の音が乾いた道に律動を刻む。


「……この音、好き」

「行き先がある音だからかな」

「行き先、ね。……じゃあ、ちゃんと導きなさいよ」

「任せて」


――


午後。揺れる荷台の上で、サラがふいに口を開いた。

「……あの紋章は、どうなったの?」


リアンは驚いたように彼女を見て、片手で手綱を握り直す。

右手の手袋を外すと、甲に淡く光る《箱舟の紋章》。

その円環の内側に、新たに刻まれた小さな意匠――グレンの紋章。


サラは目を細め、じっと見つめる。

「……不思議ね」

低い声だが、どこか柔らかい。


「託されたんだと思う。あの人の想いが、俺の中で繋がったんだ」

リアンがそう言うと、サラの瞳がわずかに揺れた。


「……私の手では守れなかった人の証が、あなたの中で生きている」

悔しさと安堵が入り混じった息。


「サラのせいじゃない。グレンさんは未来を託したんだ。だから残った」

「言い切るのね」

「導き手だから」

サラは短く息を吐き、口元をほんの少し緩める。

「……そうかもしれないわね」


――


夕暮れが近づく。風は赤く染まり、細い月が空に昇りはじめた。

丘を越えた先、煙突から細い煙を上げる町の影が見える。


「今日はあそこに泊まろう。食料も補充したいし」

「異論なし」

手綱が軽く引かれ、馬が嘶く。

馬車の軋む音はやがて町のざわめみに溶け、二人の旅は再び人の営みの中へ。


――


思ったよりも大きな町だった。

石畳の大通り、行き交う人々。

露店からは香辛料や焼き菓子の匂い。

子どもたちの笑い声、旅商人の呼び声、冒険者たちのざわめき。


「ずいぶん賑やかだな……」

「……前に来たときは、こんな町、あったかしら?」

「サラでも知らないんだ」

「十年、二十年の変化なんて、あっという間よ」

「じゃあ、俺もあっという間に頼られない導き手に……」

「それは困る」


馬車を預け、宿を探す。

通り沿いの木の看板に灯がともり、「旅人宿」の文字。

戸口からこぼれる暖かな光と人の声。


「ここなら休めそうだな」

リアンが扉へ手を伸ばした――そのとき。


広場に怒鳴り声が響いた。

酔った冒険者が数人、酒瓶を振り回し笑っている。

輪の中心では、若い男が肩を掴まれ押さえ込まれていた。

人々は遠巻き。誰も近寄らない。


サラの金の瞳が冷たく光る。

「……本当に、人って嫌い」

ためらいなく、足が動く。


「サラ、待っ――!」

リアンが慌てて止めようとするが、荷物で出遅れる。


騒ぎの中心へ踏み込んだサラは、容赦なく乱暴者を蹴散らした。

踏み込み、肘、踵――動きに無駄がない。

酔漢が次々と地面に転がり、鈍い呻きと割れた瓶の音が重なる。

瓶の欠片を靴先で払うサラの足元に、静寂が落ちた。


どよめく見物人の列が割れ、助けられた若者が震えながら礼を言おうとする。

だがサラの瞳が鋭く射た。

「……男なんだから、もっとシャキッとしなさい」

「――立てるなら、いま立ちなさい」

「は、はい……!」

若者は言葉を失い、うつむく。

サラはそれ以上何も言わずに踵を返した。


リアンが駆け寄り、声を潜める。

「……あの人に、なんて言ったの?」

「男なんだから、もっとシャキッとしなさいって言ったのよ」

「聞こえたままだった」

「でしょ」

肩をすくめ、何事もなかったように宿の扉へ。


――


宿に入ると、木のカウンターの向こうで大柄な男が帳面をめくっていた。

ぶっきらぼうな目つき、太い腕、低い声。

その姿を見たサラの表情が、わずかに曇る。

眉がひそみ、視線が外れる。


リアンは空気を変えるように口を開いた。

「今日、二人で泊まりたいんですが……二部屋、空いてますか?」


男主人は帳面を指でなぞり、短く答える。

「悪いな、今日は一部屋しか空いてない。……ベッドは後で用意してやる。どうする?」

リアンはサラを見る。

サラは肩をすくめ、そっけなく。

「何よ、別にいいわよ」

「決まりだ」


鍵がカウンターに置かれる。

「先に荷物置いてけ。……夜は静かにしろよ」

サラは小さく舌打ちし、ぼそり。

「……最低」


「うちは飯は出さねえ。向かいの酒場で食え」

「……さっきの連中、いないといいな」

リアンが小声で祈ると、サラが横目で笑う。

「いたら、また片づけるだけ」


――


宿を出て、夜風に頬を撫でられる。

通りには明かりが点々と揺れ、人々の声が混ざる。


「……お腹すいたね」

不意の一言。素直で、どこか子どもっぽい。

「今の“ね”、ちょっと可愛い」

「聞こえない」

「はいはい」


扉を押すと、酒場は笑い声と杯の音で満ちていた。

肉と香辛料の匂い、木の床に染みた酒の跡。

入ってきた二人に気づいた誰かが、低くぼやく。

「……酔っ払い相手に勝って、調子に乗るなよ」


サラの視線が冷えて横切るだけで、相手は肩をすくめて俯いた。

サラはふんと鼻を鳴らし、空いた席に腰を下ろす。


リアンは卓の彼女側へ、水杯をそっと押しやった。

――せっかく日常に戻ってきたと思ったら、これだ。


「ご注文は?」

エプロン姿の若い女性が笑顔で近づく。

リアンは少し迷い、尋ねた。

「ここは……何がおすすめですか?」

「そうねぇ、今はボアが大量発生してるの。煮込みも焼きも美味しいわよ」

「じゃあ、それを二人分お願いします」


「ついでにお酒もちょうだい」

サラが割り込む。

「……サラ、お酒飲むの?」

「飲むわよ。……飲みたい気分だし」

さらりと言って、肩をすくめる。

「それに、あんたも飲みなさいよ」

「え、俺は……」

サラが少しだけ視線を逸らす。

「何よ、飲めないの?」

リアンは観念したように笑う。

「……じゃあ、一緒に」

女性は嬉しそうに頷いた。

「じゃあ飲みやすいフルーツ酒にしとくね」

「辛口も一杯、あとで」

サラが付け加え、女性は親指を立てる。


――


料理を待つ間。

リアンが小さく問う。

「……さっき、“人は嫌い”って言ってたのに。なんで助けたの?」


サラは背もたれに体を預け、少し目を細めた。

「……別に。勝手に身体が動いただけよ」

「サラは優しいね」


一瞬、金の瞳が見開かれ、すぐに逸れる。

「……そんなんじゃない」

言葉とは裏腹に、頬がわずかに紅を帯びた。

「誤解。……ただ、見てられないだけ」

「それを優しいって言うんだと思う」

「うるさい」


湯気を立てる煮込みと、こんがり焼かれた肉が運ばれてくる。

香りが二人の間の緊張をほどく。


「いただきます」

「……いただきます」


金属が触れ合う澄んだ音。

サラは杯を軽く揺らし、宙で止めた。


「……ねえ、こういう場所って落ち着く?」

唐突な問い。

リアンは一拍考えて笑う。

「慣れてはいないけど、嫌いじゃないかな。人の声が生きてる感じがする」

サラは鼻を鳴らし、視線を外した。

「私は嫌い。……けど――少しだけ、悪くない気もするわ」

「少しで十分。次に進むには」

「……調子に乗らない」

「はい」


杯が触れ、木の卓に小さな音が落ちた。

喧騒の向こうで弦の音が始まり、窓の外を細い月がゆっくりと渡っていく。


旅は続く。

けれど今夜だけは、温かい皿と、満ちたりた沈黙が、二人の席を守っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。