第54話 「星映の湖にて」
サラは拳を握りしめたまま、しばしヴァルトを睨みつけていた。
その拳は、指先が白くなるほど強く握り込まれている。
足先から肩まで、全身が張り詰めた弦のように固まっていた。
しかし――次の瞬間、短く息を吐く。
その吐息は熱を帯び、冷たい朝の空気に白く滲む。
肩がわずかに下がり、握っていた拳の力が少しだけ緩む。
「……今は殺さない」
低く、抑えつけるように吐き捨てると、視線を横へと外した。
その声には、怒りよりも――燃え残った痛みがあった。
ヴァルトの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「さすがは導き手殿。理性を失わないのは結構なことです」
その声音は表面上柔らかいが、奥には安堵の色が確かに宿っていた。
「さぁ、疲れたでしょう。屋敷でお休みください」
言葉は丁寧でも、その目はわずかに細まり、ふたりの動きを計るように観察している。
サラの瞳には、まだ炎が宿っていた。
鎮まりきらない怒りが、瞳の奥で赤く揺らめく。
リアンはその横顔を見つめ、小さく「……ありがとう」と呟いた。
感謝というより、それは自分への安堵と、彼女への祈りのような声だった。
そして、ヴァルトへと視線を移す。
まっすぐに、迷いのない眼差しで。
「――今回の件は教会に報告します。
グレンを殺したのは、あなたです」
ヴァルトの眉が、わずかに動いた。
「証拠は?」
その口調は鼻で笑うようだったが、その奥に薄い緊張が走ったのをリアンは見逃さなかった。
リアンは一歩、踏み出す。
靴底が、凍りつくような静寂を踏みしめる音を立てた。
「――俺たちが、見た」
短いが、はっきりとした声。
揺るがぬ意思がこもっていた。
一瞬、ヴァルトの笑みが薄れる。
だがすぐに肩をすくめ、冷ややかに言い放つ。
「なるほど……導き手は死を見るか。まぁ、いいでしょう。
正直、報告されたところで――教会も動きはしませんよ」
その背を向ける姿は、勝者の余裕ではなく、逃げる者の慎重さ。
私兵たちは視線を逸らしつつも、手は剣の柄から離さない。
その構えは、まるで火種の上を歩くような緊張を孕んでいた。
ヴァルトたちが屋敷へと入っていく背中を、リアンは黙って見送る。
扉が閉まる低い音が遠くで響き、庭先に夜の静けさが戻った。
ふと横を見ると、サラはまだ拳を握ったまま立っていた。
指先が白くなり、わずかに震えている。
「……ありがとう」
先ほどと同じ言葉を、もう一度。
サラは答えず、ゆっくりと踵を返す。
背を向け、宿へと歩き出す。その背中からは、まだ熱が揺らめくように漂っていた。
「……ごめん」
思わず背に向けて謝罪を投げる。
その瞬間、サラの足が止まる。
振り返り、肩越しに冷ややかに、けれど少し柔らかく――
「……ありがとうのほうがいい」
小さく、しかしはっきりと。
そのまま再び歩き出し、夜気に背を預ける。
やがて宿の扉が閉まり、音が夜に溶けていった。
リアンは息を吐く。胸の奥に絡みついていた重さが、ほんの少しだけ和らいだ。
「……休もう」
自分に言い聞かせるように呟き、宿へ足を向ける。
◇
部屋に戻ると、ベッドに腰を下ろした瞬間、全身の力が抜けた。
張り詰めていた気持ちが緩み、瞼が重くなる。
気づけば、意識は闇に沈んでいた。
陽が沈み、街の灯りが遠くに滲む。
――どれくらい眠っていただろう。
目を開けると、窓の外はすっかり夜だった。
冷たい風がカーテンを揺らし、湖のほうからかすかな水音が届く。
(……サラ)
昼間のやり取りが脳裏に浮かび、胸がざわめく。
リアンは立ち上がり、廊下へ出た。
サラの部屋の前で軽くノックする。返事はない。
そっと扉を開けると、中は暗く、静まり返っていた。
(……どこへ行った?)
小さな焦りが胸に灯り、階下へ降りる。
食堂で片付けをしていた女主人に声をかけた。
「すみません、サラを見ませんでしたか?」
「さぁ……見てないねぇ」
女主人が肩をすくめる。
その何気ない仕草が、不安をわずかに膨らませた。
外に出ると、夜気が頬を撫でた。
足は自然と屋敷のほうへ向かっていた。
門前まで来ると、灯りの下に歩哨が二人。
昼間と変わらぬ警戒の様子で、特に異常は見えない。
(じゃあ……どこに?)
胸に浮かぶひとつの場所。
――湖。
その言葉に背を押されるように、リアンは石畳を踏みしめた。
月明かりが道を照らし、静寂の中に水音が微かに響いていた。
湖へ向かう道は、昼間よりも静かだった。
風はほとんどなく、木々の葉はわずかに揺れるだけ。
踏みしめる土の音と、自分の呼吸だけが耳に残る。
やがて木立が途切れ、視界が開けた。
リアンは思わず足を止める。
――そこには、言葉を失うほどの光景が広がっていた。
湖は鏡のように静まり返り、夜空をそのまま抱きこんでいる。
無数の星々が水面に映り、天と地の境がわからなくなるほどだ。
ごく小さな魚が水面をかすめ、その波紋さえ星を乱さない。
中央には満ちかけた月が銀の橋を架け、その光が湖をゆっくりと照らしていた。
そして、その月明かりの道の上に――サラがいた。
波ひとつ立たない水面に、まるで羽根のように浮かぶその姿。
足元から広がる淡い光が、水面の星々を揺らすことなく包み込んでいる。
サラは視線を落とし、湖面に映る夜空をじっと見つめていた。
その表情は昼間のような怒りではなく、どこか遠くを懐かしむような、静かなものだった。
リアンは声をかけることも忘れ、その光景をただ見つめていた。
まるで、この場所だけが世界から切り離されているかのように――。
しばらくの沈黙。
風がひとすじ流れ、月の光がわずかに揺れた。
やがて、サラがゆっくりと顔を上げた。
銀糸の髪が光を反射し、金の瞳に星々の瞬きが映り込む。
「……来たのね」
小さく、湖面に溶けるような声。
リアンは一歩、水際に近づく。
「部屋にいなかったから……少し、心配した」
「ふうん。……心配なんて、似合わないわよ、導き手さん」
その声には、わずかな照れと棘が混じっていた。
リアンは小さく笑い、「似合わないのはお互い様だよ」と返す。
サラは返事をせず、視線をまた水面へ落とした。
湖に映る星の海が、静かに揺れる。
「……こんな世界でも、まだ綺麗なものはあるのね」
その呟きは、誰に向けられたのか分からない。
リアンは短く息を吸い、言葉を探す。
「サラ……」
サラは振り向かない。
ただ、月明かりの中でその背がわずかに揺れた。
「昼間のこと……まだ終わってない」
その声音には、怒りの残滓と、消えない痛みが滲んでいた。
リアンは迷わず首を振る。
「終わらせなくていい。でも――今日じゃない」
サラはほんの少しだけ、笑ったように見えた。
それは哀しみと諦めが混ざった、短い笑みだった。
「……あんた、変なやつ」
そう言って、また星を見つめる。
リアンはその横顔を見つめながら、湖の冷たい空気を深く吸い込んだ。
二人の間には、言葉よりも静寂が満ちていく。
湖面に映る星々を見つめたまま、サラがぽつりと口を開いた。
「……導き手ってさ」
リアンは横顔を見やり、静かに返す。
「なに?」
「死んだ人間の最後を……そのまま追いかけるんだろ」
「……あぁ」
サラの声は淡々としているが、どこか遠くを見ていた。
「最後の瞬間……殺した相手を見ながら終わるんだよな」
リアンは返す言葉を探すが、黙って頷く。
「……昼間、あんた言ったよね。私に殺されたくないって」
「……あぁ」
サラは小さく息を吐き、月光の下で視線を落とした。
「私があんたを殺すわけない。でも……」
そこで言葉が止まり、湖面の星が二人の間の沈黙を埋める。
「……私が殺した奴の魂が、この地に縛られて……もしあんたに導かれたら」
金の瞳が、わずかに揺れる。
「その最後の瞬間……私の顔で、終わるんだろうな」
リアンは胸の奥が締めつけられるのを感じた。
湖面に映る星々は揺れず、ただ静かに二人を映していた。
リアンはそっと言葉を返す。
「……それでも、俺は導くよ。
たとえ、その顔が……サラでも」
サラの瞳がわずかに見開かれた。
けれどすぐに、微かに笑う。
「……ほんと、変なやつ」
夜風がふたりの間を通り抜け、星の波紋が淡く揺れた。
光と闇が混ざるその湖に、ただ静かな吐息が溶けていった。
――そして、夜が明け始める。
空の端が淡く白み、湖面の星が一つ、また一つと消えていく。
サラは立ち上がり、風に銀の髪を揺らした。
「行こう。……朝が来るわ」
リアンは頷く。
ふたりの足跡が、まだ冷たい夜露の草を踏みしめた。
――旅は、続いていく。
星映の湖が、その背を静かに見送っていた。




