第56話 「優しさを、忘れない」
酒場の喧噪に紛れ、サラは骨付き肉にかぶりついた。
ボアの肉は香ばしく焼き上げられ、肉汁が滴る。彼女は頬張って、目を細める。
「……美味しい」
差し出されたフルーツ酒を口に含む。甘やかな香りが鼻を抜け、喉の奥にやさしく落ちる。
「これも……甘くて、美味しいわね」
向かいのリアンも笑みを浮かべ、頷く。
「本当に。街道の干し肉とは雲泥の差だ」
「干し肉は“食べ物”っていうより“試練”よね」
「うん、修行の味」
二人は小さく笑い、束の間の穏やかさを取り戻して料理を楽しむ。
――だが、すぐに空気は乱れた。
近くの卓から舌打ち。続いて、低く押し殺した声。
「……いい気になりやがって」
さっき宿の前で騒いでいた冒険者の一人だ。
サラは気にも留めず、骨の付け根に歯を立てる。
リアンは眉を寄せ、つい振り返るが、誰とも目は合わない。
「気にしなくていい」
サラが肉を置かずに言う。
「どうせ何もできやしないんだから」
リアンは小さく息を吸い、彼女を見る。
「サラは……いつもこういうことを言われてきたから、人が嫌いなの?」
金の瞳が、ほんのわずかに揺れた。サラは、笑った――けれど、どこか冷たい。
「人ってね、安全なところでしか攻撃できないのよ。今みたいに、人だかりの中で、誰が言ってるかわからない状況でね。……情けないわよ」
彼女は杯を軽く傾け、もう一口。
氷が鳴るみたいに、杯の縁が小さく鳴った。
「冒険者って言っても所詮そんなもの。弱い奴や、安全圏からしか攻撃できない。自分のルールを他人に押し付けたり、平気で裏切ったり……そういうのばっかり」
言葉に、勢いが乗る。酒が少し回り出しているのだろう。
「それに――攻撃を先に仕掛ける方が悪いに決まってる」
硬い音で皿に骨を置く。サラの声音は鋭く、長い年月に積もった苦い感情が、素直に顔を出した。
リアンは杯の縁を指でなぞりながら、静かに受けとめる。
「……俺は、そこまで人と深く関わったことがないから、正直わからない」
少しだけ目線を落とし、言葉を選ぶ。
「――魂を導くために。そして強くなるために。紋章師としての高みを目指してきただけなんだ」
サラは肉を噛みしめ、ふっと笑う。
「それでいいのよ、あんたは。余計なこと考えると、迷って動けなくなるもの」
「……そうなのかもしれないな」
会話の熱が一度下がる。サラは杯を空にし、指でころんと回した。
「私は人が嫌い。王国と帝国の争いだって、帝国が仕掛けなければ何も起こらなかったはずなのに」
金の瞳に冷たい光が宿る。
「結局、人は争いが好きなのよ。小さくても大きくても――理由なんて、すぐ見つける」
唇の端で、嘲るみたいに笑う。
「それなのに――平和を望んでるだなんて、滑稽だと思わない?」
リアンは黙って頷きもせず、逃げもせず、ただ真正面からその言葉を受け止める。
目をそらさない視線だけが、「聞いている」と告げていた。
サラはさらに続ける。
「そしてね――“自分はかわいそう”“自分はすごい”“他とは違う”って言う奴。気持ち悪すぎて吐き気がするわ」
手を挙げて、指二本をすっと立てる。
「お酒、もう一つ。……それと、つまみになりそうなやつも」
店員が「はーい」と笑顔で下がる。
サラの仕草はどこか投げやりで、けれど慣れた、戦いの後のルーティンにも似ていた。
リアンは杯の底を見つめたまま、胸の内で静かに思う。
(……サラは、長い時間をこの世界で生きて、いろんなものが、溜まっているんだ)
「ちょっと、聞いてる?」
「聞いているよ」
その即答に、サラの睫毛が一瞬だけ緩む。
まっすぐで、誠実だ。
一拍おいて、リアンが口を開く。
「サラは……そこまで人が嫌いなのに。どうして俺の守り手になったの?」
サラは静かに杯を置き、まっすぐリアンを見る。
テーブルの木目を指でなぞりながら、ふっと問いで返す。
「初めて会った夜のこと、覚えてる?」
リアンは少し笑って頷いた。
「ああ。『子どもが夜遊びには向かない』って言われた」
サラは小さく息を吐く。
「根に持たないの。あのときの私は――ただ、誰も信じてなかったの」
「導きだの、救いだの……綺麗ごとにしか聞こえなかった」
彼女の声は低く、遠い夜の残り火を撫でるように静かだった。
「でもね、今になって思うの。あの夜、あんたを見たとき……ほんの少しだけ、信じてみてもいいかもって思った」
リアンは黙っていた。
その眼差しには、言葉にできないほどの温度が宿っていた。
「人の醜いところなんて、もう嫌になるほど見てきたわ」
サラは杯を回し、わずかに笑う。
「それでも――あんたを見てると、まだこの世界が少しはましに見えるのよ」
風が通り抜け、ランプの炎が小さく揺れた。
リアンは静かに息を吸い、言葉を探すように唇を開く。
「……ありがとう、サラ」
サラは軽く肩をすくめ、いつものように視線を逸らした。
「礼なんて要らないわよ。ただ、たまには信じてもいいってだけ」
「昔もね――優しい人もいたのを、覚えてるの」
杯の液面が光を弾く。
「それは、遠い遠い昔にも。……ただ、私は最初の頃を思い出せないんだ」
リアンは眉をひそめる。
「思い出せない……?」
「長く生きるうちに、記憶が膨らみすぎて、頭が耐えられなくなったのか……理由はわからない。でも、昔のことが霞がかかったみたいに思い出せないの」
自嘲めいた笑みを、ほんの少し。
「ここ千年くらいなら思い出せるんだけど」
「――千年!?」
つい声が大きくなる。周囲が一瞬だけこちらを見て、すぐ喧噪に戻った。
リアンは耳の後ろをかき、苦笑する。
(サラは……何者なんだ。でも――今は、詮索じゃない)
サラは酔いもあってか、気に留めず続けた。
「おそらく、昔の記憶はもうなくなってる。でもね――絶対に忘れないものがある」
「……忘れないもの?」
「それは優しさだった。……愛だったかもしれない。人の心よ」
最後の言葉だけが、少し震えた。
そして、真正面からリアンの目を見る。
「なんか……リアンといるとね。探してたものが、それなんじゃないかって思えるの」
一瞬、照明がゆっくりと落ちたように、時間がやわらぐ。
サラの顔は、いつもの強さの影を少しだけ手放していて、驚くほど柔らかかった。
リアンは喉を鳴らして、言葉を見つける。
「……俺は、そんなことないと思うけど」
視線が逸れ、耳の奥が熱くなる。
サラはふっと微笑む。
「自分で自分のことがわかる人なんて少ないのよ。でもね、リアンは……自信を持っていいわ」
胸の内に、温かい何かが落ちる。
リアンは頬が熱いのを自覚しながら、短く。
「……ありがとう」
気恥ずかしさをごまかすように、問いを返す。
「じゃあ……サラの優しさは、その昔の誰かのおかげなんだね」
サラは杯を置き、視線をふと落とした。
「……私は優しくなんかないわ」
その否定に、リアンの口元が自然とゆるむ。
「そうかな」
「そうよ」
言い切ったあと、サラは肩をすくめるように笑った。
二人の間に、ごく短い、心地よい無音が落ちる。
酒場の喧噪が遠のいて、そこだけ小さな島みたいだった。
その後は、くだらない冗談と、どうでもいい話。
味の話、道の話、明日の天気の当てっこ。
笑って、飲んで、また笑う。
リアンは心の中で――この時間が、もう少し続けばいい、と静かに願う。
やがて、皿が片付けられる頃。
サラは頬を赤く染めたまま、こてん、とテーブルに突っ伏した。
「……寝た?」
「……寝たね」
微かな寝息。乱れた銀糸の髪が、卓の影にさらさらと落ちる。
リアンは椅子をそっと回り込み、上着を肩にかけ――指先で前髪を、耳へそっと払った。
その瞬間、空気がひたり、と変わる。
サラの身体の周囲に――
銀の風を纏うツバメと、紅い炎を纏う鳥が、ゆったりと舞いはじめた。
音はない。ただ、微かな熱と、涼やかな流れだけが輪を描く。
「……これは、サラの……」
リアンは息を潜め、恐る恐る手を伸ばす。
鳥たちは矛先を向けることなく、やわらかく指先にまとわりついた。
羽根のない羽ばたきが、皮膚の上でくすぐる。
「大丈夫。俺は、敵じゃない」
囁くように言うと、銀のツバメが一度だけ高く弧を描き、紅の鳥が小さく鳴いた――気がした。
まるで、信頼と、安心をそのまま託すみたいに。
リアンは視線を落とし、眠るサラの横顔を見つめる。
「……おやすみ、サラ」
テーブルの下で、彼は半歩だけ椅子を引いた。
万一のとき、すぐ立てる距離へ――守るための、ささやかな半歩。
酒場の灯が、二人の影を寄り添わせながら、静かに揺れていた。




