第45話 「それでも、この世界は美しい」
扉を開けた先には、目覚めはじめた街の息づかいがあった。
遠くで屋台の骨組みがきしみ、油のはねる音。風に乗って、砂糖と果実酒の甘い匂い――
今日は、祭りの最終日。
喧騒と希望が少しずつ色を取り戻してゆく通りを、二人は歩き出す。
露店の列。焼き菓子の湯気、子どもたちの笑い声、大道芸人の呼び込み、染め布がぱたぱたと風をはらむ。
昨日の惨劇を“遠ざける”ように、街は意地でも明るい。
「……にぎやかだね」
リアンがぽつり。隣でサラが、わずかに頷く。
「うん。……不思議ね」
「なにが?」
「――楽しい時間って、どうしてこんなに早く過ぎるんだろうって」
サラの横顔に、たしかな微笑。その奥に、影のような濃淡が一瞬だけ走る。
「……辛いときは、あんなに長いのにね」
風に混じって、言葉は軽く消えた。リアンは返せない。ただ、歩幅だけを合わせる。
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夕刻。二人は広場沿いの屋台で、簡素な卓をはさんで座っていた。
串焼き、温いスープ、素朴なパン――祭りの終わりを告げる、やわらかな味。
そこへ、声。
「……おい」
振り向くと、数人の男。酒瓶、擦れた革の装備。酔いの熱が目に宿っている。冒険者だ。
「お前……“死を運ぶ鳥”、だって?」
先頭の男がにやりとサラを指す。
「噂は聞いてたがよ。こんな女がそんなに強ぇのか? ――まさか夜のお相手、って意味じゃねぇだろ?」
周囲で下卑た笑い。
サラはスープをひと口。目線は落としたまま、匙の音だけが小さく鳴る。
リアンは身を固くする。――が、サラは動かない。
「……無視かよ」
苛立ちがにじむ足取りで、男たちが距離を詰める。
「だったらせめて、一晩付き合ってもらおうじゃねぇか?」
「俺たちゃ瘴気地帯で魔物とやり合ってきたんだ。――祭りで浮かれてる間にな!」
そこで、サラがすっと立つ。怒鳴りも、腕も上げない。
ただ、淡々と。
「……リアン。行こ」
リアンの手を取って、横を抜けようとする――が。
「おい、そっちのガキ。相棒か?」
太い手がリアンの肩を掴む。力任せに引き戻す。
「――弱そうだな」
押し倒そうとした瞬間、リアンは踏ん張った。足裏が石畳を噛む。
「チッ、なに気取って――っ!」
拳が飛ぶ。
リアンの頬が跳ね、膝が石に触れる。
「リアン!」
サラの声が一段、冷える。
サラはゆっくりと向き直った。冒険者たちを見据える。
「……いい加減にしなさいよ」
温度のない声音。氷のへりに触れたような感触が、空気に走る。
「“冒険者で強いから”威張りたい? 街でたまたま見かけた相手に絡んで、“自分のほうが上”って確認して……だから何? それで、なにがしたいの?」
怒りでも憎悪でもない。心底うんざりした、冷淡な光だけが瞳に宿る。
「はっきり言うね。――“強さ”には興味がない。……わかる?」
言葉が詰まる沈黙。
「興味のない相手に、勝手に張り合って、絡んで――滑稽だと思わない?」
ひと呼吸。
「見逃してあげるから。――行きなさい」
ぴん、と張る空気。
「……何様のつもりだ、てめぇ!」
怒号。鞘が鳴る。刃が提灯の光をはね、サラへ真っ直ぐ――
「やめろッ!」
リアンが割って入る。
鋼の線が腕をかすめ、薄い赤が宙に散る。
「……っ!」
裂けた袖の下、浅い切創。痛みが遅れて追いつき、リアンの体が揺らぐ。
その瞬間――サラの気配が変わった。
「……リアン」
噛み殺した熱を底に沈めながら、その名を呼ぶ。
彼女は一歩、前へ。リアンを背にかばう。
音が消える。獣の前に立ちはだかる“壁”。風も炎も飲み込む、絶対の盾。
「――ねえ、リアン」
背越しに、穏やかに問いが落ちる。
「“怨み”や“怒り”や“悲しみ”ってさ……どこから来ると思う?」
リアンは小さく頷く。血に濡れた腕を押さえながら、声で返す。
「……静かに暮らしてるだけなのに、先に仕掛けてくる奴らのせいで」
サラは視線だけを冒険者へ。
吐息の温度は一定のまま、刃のような静けさが言葉を包む。
「今の戦争もそう。王国と帝国が争って、何百年も経った。始まりなんて、もう誰も覚えてない。
――でも、“最初に仕掛けた”奴がいた事実だけは、消えない」
表情が強張る。にやけ顔が薄れ、喉仏が動く。
「怨みも、怒りも、悲しみも。結局は、こういう“小さな出来事”の積み重ね」
金の瞳が、夜を映して瞬く。
「規模が違うだけ。個人でも、国でも、やることは同じ。誰かが勝手に仕掛けて、誰かが傷ついて――それで全部、止まらなくなる」
サラは一拍、息を置く。
「私はただ、リアンと“少しだけ普通の時間”を過ごしていただけ。祭りで並んで、飯を食べて、笑って……それだけだったのに」
「それを、あんたたちが踏みにじった」
空気が凍る。怒りより深い、吐き気まじりの嫌悪。
「無視した。避けてあげた。
なのに“自分たちには何もできない”ってわかった瞬間、つけあがった」
サラは背越しに、わずか振り返る。
「こういう奴らばっかりなんだよ、この世界って」
呆れでも皮肉でもない。冷めた真実の報告。
「もちろん、全部がそうじゃない。優しい人もいる。……わかってる。
でもね――こういうのが混じっている限り、世界はずっと汚れたまま」
声に、怒気より深い諦めが滲む。
「……そして、リアン。
あんたは、こういう奴らの尻拭いをずっとやらされてるの。あんたみたいな優しい人が、いつも」
吐き出すように言って、サラは一歩、にじる。視線だけで刃になる。
「私は……それが、いや」
声が、わずかに震えた。
そして――
「だから。少しだけ――黙ってなさい」
放たれた瞬間、音が消えた。
提灯の火がわずかに揺れ、客の呼吸が止まり、刃の背に汗が滲む。
先頭の男が反射で一歩退る――同時に、空気が裂けた。
サラが踏み込む。溜めゼロ。
拳が腹へ。鈍い衝撃、浮く身体。
「がっ……!」
二人目が剣を構えるより速く、肘が逆へ折れる。
三人目は柱へ叩きつけられ、声にならない息を吐いた。
――何が起きたか、誰にも追えない。
殺しはしない。骨は外し、腱だけを切る。最低限の制圧。だが圧倒。
一分もかからず、地面には呻き声だけが転がった。
通りに、沈黙。
視線が集まり、逸れて、また戻る。
背に、黒い二つ名がよみがえる。
(――“死を運ぶ鳥”。)
異名はただの噂じゃない。実在する恐怖の形。
それでも――その背は、リアンの前で静かに留まっていた。
「……せめて、今だけは。――あんたまで傷つかないでよね」
呟きは、静かに落ちる。
サラが振り返る。金の瞳に、怒りも威圧もない。
ただ――“守りたい”という、ひとつだけの意思だけ。
風が広場を渡る。
人々は立ち尽くす。言葉が出ない。
夜の喧騒は、少し遠のいた。
サラはふと、顎で広場を示す。
「……見て、リアン」
人々の目がこちらへ集まっている。だが、正面からは見ない。
合えば逸らす。踵を返す。遠巻きに、息を殺す。
「人ってね、真実が好きなの」
サラは淡々と続ける。
「でも、それは“自分に都合のいい真実”だけ。都合の悪い現実は見ないふりをする。……傷つけられた相手が何を感じたかなんて、だれも考えない」
灯りが瞳に揺れる。
サラはリアンを見た。
「ねえ、リアン」
「……それでも、この世界は“美しい”と思える?」
試す色はない。まっすぐ、ただ知りたいだけの問い。
リアンはサラを見返す。
無理解と拒絶に晒されながら、怒りを呑み、守るためだけに立つ背中。
(……美しい。)
言葉は自然に、胸の底から浮かぶ。
世界の醜さを語る、その人自身が――矛盾と痛みを背負って立つ姿こそが――
「……うん」
リアンははっきりと頷く。
「俺は、思うよ。……この世界は、美しいって」
サラの目が、わずかに見開かれる。
すぐに視線を逸らし、肩の力をほんの少しだけ抜いた。
「……そう」
短く。それだけ。
風が弦を弾くみたいに吹き抜け、提灯が一拍遅れて揺れる。
「じゃあ……もう少しだけ、歩いてみようか」
肩越しに言って、サラが歩き出す。
リアンはその背に並ぶ。
二人はまた、街の中へ。
拒絶も、恐れも、矛盾も抱えたまま――それでも、灯りの方へ。




