第44話 白き壁の中で
リアンは、まどろみの中にいた。
重たくも心地よい布団の感触。
昨日の夢の余韻が、まだ心の奥で微かにざらついている。
まぶたの裏には、あの“目”たちの残像がちらついていた。
けれど、その静けさは扉の音によって破られる。
「おっはよ~、リアン。朝だよ~!」
元気な声。ノックもなし。
次の瞬間、勢いよく扉が開き、朝の光が一気に流れ込む。
「……うん。おはよう、サラ」
寝ぼけ眼のまま振り返るリアンの視界に飛び込んできたのは、変わらない笑顔だった。
髪が光を弾き、金の瞳がまっすぐにこちらを見つめている。
その笑顔は、ただそこにあるだけで空気を変えた。
夢の残滓に沈んでいた意識が、現実へと引き戻されるように。
胸の中に残っていた重たさが、少しだけ和らいでいく。
(……変わらないな、サラは)
――その変わらなさが、今は少しだけ、救いに思えた。
やがて、ふたりで朝市へ向かう。
街の空気には、まだ夜の冷気がわずかに残っていた。
吐く息が白くほどけ、石畳を踏む音が小さく響く。
朝の陽が店先の水滴を照らし、静かな輝きを返していた。
並んで歩きながら、湯気の立つ食堂の扉をくぐる。
窓際の席に座ると、朝の光がゆっくりとテーブルを染めていった。
温かいパンと野菜スープが運ばれ、香ばしい香りがふたりを包み込む。
パンをかじりながら、サラが口を開いた。
「で? 今日はどうするの?」
何気ない口調。けれど、どこか期待の色が混じっていた。
リアンは少し考え、素直に思っていたことを言う。
「……昨日の大会のこともあるし。教会に行って、話を聞いてみようかなって」
その瞬間、サラの表情がわかりやすく曇った。
「え~……また、教会?」
眉を寄せ、声に不機嫌さがにじむ。
リアンは苦笑してスプーンを手に取り、小さく頷く。
「だって、色々知ってるし。……昨日のことも、ちゃんと聞いておきたいから」
「ふーん」
パンをもぐもぐと噛みながら、サラは視線をそらす。
横顔に差す光が金の髪を照らし、わずかに影を作っていた。
リアンは小さく息をつき、言葉を探す。
「……ちょっとだけ。すぐ終わらせるつもりだし」
「……」
「終わったらさ、一緒にどこか寄り道しよう。お祭りも、まだ続いてるし」
サラの手が止まった。
一拍の沈黙。
それから、ゆっくりとこちらに視線を戻す。
「……ほんと?」
「うん、約束する」
しばらく見つめたまま、サラはやがてふっと表情をゆるめた。
「じゃあ、いいよ。付き合ってあげる」
頬をふくらませながらも、どこか嬉しそうな声。
リアンはほっとして微笑む。
ふたりは黙々と朝食を平らげ、食堂を出た。
外の空気は少しずつ暖かさを帯び、街の喧騒がゆるやかに広がり始めている。
行き交う人々の声。露店を開く音。鐘の音がどこか遠くで鳴っていた。
そして――その光の中を、サラとリアンは並んで歩き出す。
夜の夢の残滓が、ゆっくりと朝の光に溶けていった。
街のざわめきがいっそう活気づく中、リアンとサラは紋章教会の支部へと向かっていた。
教会の建物は、街の中心部――他の建造物とは違う静謐さを湛えていた。
白い大理石の壁に金の紋章が刻まれ、陽光を反射して淡く輝いている。
通りを歩く人々も、その前だけは自然と声を潜め、足を止めて祈りを捧げていた。
リアンは無意識に歩調を緩める。
この空気には、何度来ても慣れない。
魂を透かされるような、静かな緊張がある。
「――ここ、嫌いじゃないけど落ち着かないのよね」
隣を歩くサラが、ため息まじりに言う。
陽を受けて光る銀の髪が風に揺れた。
「……それ、嫌いって言ってるのと同じじゃない?」
「そうかもね」
肩をすくめながらも、サラは先に歩み出る。
リアンは小さく笑ってそのあとを追った。
扉を押し開けると、柔らかな光が内部を満たしていた。
高い天井から垂れる光輪灯。
壁一面を覆う紋章の記録板。
祈りの声がかすかに響き、空気そのものが静かな魔力の流れを帯びている。
そして――その中央。
書類の束を抱えて誰かが歩いていた。
「……え?」
リアンが思わず声を漏らす。
見覚えのある栗色の髪。
見慣れた瞳の奥に、いつもの聡明な光。
「ちょっと、なんで――」
サラが声を上げた。
「――あんたがいんのよ、レイナ!」
声が反響し、祈りを捧げていた修道士たちが一斉にこちらを見る。
レイナは顔を上げ、目元だけで笑った。
「おはよう。そんなに驚くこと?」
「驚くでしょ。なんで家紋師が教会の中にいるのよ」
サラが腕を組んで睨む。
レイナは書類を脇に抱え、肩を軽くすくめた。
「家紋師だから、よ。別におかしくないでしょ?」
「はぁ?」
「私は“教会所属”じゃないけど、紋章官の認定は受けてるの。
そういう立場の人間って、案外重宝されるのよ。
――どっちの話も通じるから」
その言葉に、リアンが思わず吹き出した。
「なるほど……レイナさんらしいですね」
「でしょ?」
レイナが得意げに微笑む。
一方のサラは、なおも納得いかない顔でため息をつく。
「ほんっと、あんたってどこにでも顔出すのね」
「仕事熱心って言ってほしいわ」
軽口を交わす二人を見て、リアンは思わず口元を緩めた。
朝の夢の残滓は、いつの間にか完全に消えていた。
代わりに、現実の騒がしさと温度が、確かに戻ってきている。
レイナは手元の資料を整えながら、リアンの方へ視線を向ける。
「それで? 教会に来たってことは――何か聞きたいことがあるんでしょ?」
リアンは姿勢を正し、静かに頷いた。
「はい。昨日の“襲撃”の件について……教会がどう動いているのか、知りたくて」
レイナの瞳に、一瞬だけ陰が走った。
そして、口元の笑みをほんの少しだけ引き締める。
「――そう。なら、ちょうどよかったわ。
今、その報告書をまとめてるところ。見せてあげる」
リアンとサラは顔を見合わせ、歩を進める。
案内されるまま、リアンとサラは資料室の奥へと進む。
重厚な扉の向こうには、書棚にびっしりと並べられた系譜書や古文書、刻印設計の記録紙が静かに眠っていた。
その空間はどこか聖域のようで、ページをめくる音さえも許されないような静謐さが漂っている。
三人は木製の円卓を囲み、腰を下ろす。
しばしの沈黙のあと、リアンが口を開いた。
「……昨日の襲撃、前からコレクターの動きに気づいていたんですか?」
レイナはわずかに眉をひそめ、机の上の記録紙を指先でなぞった。
「ええ。少し前から、紋章の盗難や襲撃が各地で起きていたの。表沙汰にはなってないけど、報告書の間で何度も名前が浮かんできていた。――“コレクター”。あの連中の仕業だっていう証拠は薄かったけど」
リアンは目を伏せる。
「じゃあ……なぜ、昨日はあんなに無警戒だったんですか?」
「……正直に言えば、油断してたわ」
レイナは苦々しげに笑い、肩を落とす。
「昨日は《闘技大会》の最中だった。市内に実力者が大勢集まっていて、教会やギルドも警備を強化してた。人目が多い場所では、あの手の連中はあまり動かないの。何より、今までは“一人でいる時”ばかりが狙われてたから、まさかあんなに堂々と来るとは……」
「堂々と、ってレベルじゃなかったな……」
ぽつりと呟いたサラに、レイナがうなずく。
「……大会参加者に紛れてた。そこまでは読めなかったわ」
レイナの視線が、自然とリアンの右手へと移る。
「それに、あのとき現れたコレクターが使っていた紋章。私は、あれほどの構成とは思ってなかった。今までの動き方からして、もっと小物だと思ってたの。……でも、違った。あれは間違いなく高位の構成で、“見せつけに来た”としか思えない」
「……自分たちが、力を持っているってことを」
「そういうこと」
レイナは静かに息を吐き、言葉を継いだ。
「……まあ、今までの襲撃事件も、たぶんあいつらが絡んでたんでしょうね。ただ、今は大会も中止になって、賞品も教会預かりになった。警備もさらに強化されてるし、そう簡単には動けないはずよ」
その声音は落ち着いていたが、言葉の端々に、まだ完全には読みきれていない不安がにじんでいた。
だが――それでも。
「だからこそ。今日は、ちゃんと楽しんできなさい」
立ち上がったレイナが、窓の外へ視線を向ける。
そこでは広場に屋台が並び、色とりどりの布飾りが揺れていた。
人々がわずかに笑い、動き、日常を取り戻そうとしている。
「こんな時だからこそ、少しでも明るい顔でいなさい。……街が不安に呑まれないように」
サラが椅子を引き、すっと立ち上がる。
わずかに笑みを浮かべて、リアンの肩を軽く押した。
「……ほら、リアン。行きましょ」
リアンも立ち上がり、レイナへ振り返る。
「レイナさん……また、来ます」
「ええ。歓迎するわ」
レイナが軽く手を振りかけたそのとき、不意にその動きが止まった。
そして、真顔でサラの方を見据える。
「……サラ」
「……なに?」
少しだけ身構えたサラに、レイナは静かな声音で言った。
「ノエルを――殺さないでくれて、ありがとう」
言葉の意味を理解するのに、ほんの一瞬だけ間があった。
サラはわずかにまばたきし、そしてすぐに顔を背ける。
「……ふん。礼を言われるようなことじゃないわよ」
それだけを言い残して、リアンと並んで扉へ向かう。




