第219話 甘美な誘惑
黒と白。
互いの最後の一撃が、真正面からぶつかり合った。
轟音が広間を揺らす。
仮面の男の剣は、ドス黒い瘴気を纏っていた。禍々しく脈打つ刃は、怨嗟と憎悪そのものを凝縮したような一撃だった。
対するリアンの刀は、荒々しい風を纏っている。
唸るような風圧が刀身を包み、白い軌跡を撒き散らしていた。
瘴気と風。
ぶつかり合う力が火花のように散り、床石を砕き、周囲の空気を裂いていく。
衝撃波が壁面を叩き、天井から砂塵が降り注いだ。
「ぐっ……!」
リアンが歯を食いしばる。
両腕が軋む。
足元が滑る。
押されていた。
瘴気の重さが、じわじわと刀身を通して食い込んでくる。
まるで泥沼に沈められるような圧力だった。
風が削られ、白い光が散っていく。
足元の石床に靴がめり込み、後退した軌跡が刻まれる。
「リアン!!」
セリアの叫びが響いた。
だが、男は嗤う。
「どうした!?」
さらに押し込む。
「お前の“生きる”ってのは、その程度か!」
黒い刃が唸る。
「優しさだけでは、この世界では生きていけない!」
仮面の奥から嗤声が漏れた。
「せいぜい――俺の役に立つために死ね!!」
リアンの膝が沈む。
床石にひびが走る。
視界が揺れる。
息が詰まる。
押し潰されそうになる、その瞬間――
脳裏に、サラの顔が浮かんだ。
呆れたような目。
口元だけ笑う癖。
肩をすくめる仕草。
そして、あの声。
『利用できるものは使いなさい』
リアンの瞳が開く。
そうだ。
意地を張っている場合じゃない。
綺麗に勝つ必要なんてない。
勝たなければ、意味がない。
「……なら」
低く呟く。
右手が熱を帯びた。
《箱舟の紋章》が、眩く光る。
淡い金の輝きが右手から溢れ、血管のように腕を走り――左手へ流れ込んだ。
「何……?」
男の声が揺れる。
左手の《風の紋章》が共鳴するように脈打った。
次の瞬間。
リアンの刀を包んでいた風が、光を帯びた。
白ではない。
淡い金を混ぜた、清浄な輝き。
夜明け前の光のような、静かで強い色だった。
その風が瘴気へ触れた瞬間、黒が削れた。
じゅ、と音を立てるように。
汚泥を削ぐように。
腐敗を祓うように。
「馬鹿な!?」
男が叫ぶ。
さらに力を込める。
だが、遅い。
光の風は勢いを増し、黒い瘴気を削り、裂き、押し返していく。
黒と白の均衡が崩れた。
リアンは一歩踏み込んだ。
さらに一歩。
砕けた床石が跳ねる。
「うおおおおお!!」
叫びと共に刀を振り抜く。
黒い剣が砕けた。
瘴気の刃が砕片となって弾け飛ぶ。
霧散した黒が広間に散り、光の風に焼かれるように消えていく。
そのまま、光の風を纏った一閃が男の身体を斬り裂いた。
「がっ――!」
男の身体が吹き飛ぶ。
石床を転がり、壁へ叩きつけられた。
衝撃で壁面が陥没し、粉塵が舞い上がる。
仮面に亀裂が走った。
ぴし、と乾いた音が広間に響く。
広間が静まり返った。
誰もが息を止めていた。
リアンは肩で息をしながら刀を下ろす。
光を帯びていた風が、ゆっくりとほどけていく。
「……なんとかなった……」
「やった!!」
セリアが拳を握る。
影の手を解き、顔を輝かせる。
ディルも槍を下ろし、短く息を吐いた。
エリナはようやく祈りの手を解き、ふらつきながらも立っていた。
ラゼルだけが荒い息を吐きながら、倒れた男を睨んでいた。
「……まだ、死んでねぇか」
ゆっくりと歩き出す。
「ちょうどいい」
六本の腕が軋む。
「俺が殺してやる」
男は、床に倒れたまま笑った。
乾いた笑いだった。
「……しつこい男は、嫌われるぞ」
ラゼルの足が止まる。
誰もが見た。
男の胸に刻まれた深い斬撃が、少しずつ塞がっていくのを。
裂けた肉が寄り、血が止まり、傷口が閉じていく。
骨の軋む音さえ聞こえそうな、不気味な再生だった。
「な……」
セリアが言葉を失う。
リアンも目を見開いた。
男はゆっくりと起き上がる。
胸元を押さえながら、肩を鳴らす。
「これが――不死鳥の紋章になるってことだ」
笑う。
「あの赤髪の女ほどじゃないがな」
その言葉に、空気が凍る。
リアンの表情が変わる。
男は肩を回し、首を鳴らした。
「今日は引く」
黒い瘴気が足元から溢れ始める。
床を這い、煙のように広がっていく。
「せいぜい、首を洗って待っていろ」
仮面の奥から視線が刺さる。
「お前たちの紋章も――俺がもらう」
次の瞬間。
瘴気が爆ぜるように広がった。
黒い霧が視界を覆う。
「待て!!」
リアンが踏み込む。
だが、遅かった。
風で霧を裂いた時には、そこに男の姿はなかった。
残っていたのは、裂けた石床。
砕けた仮面の欠片。
そして、濃い瘴気の残り香だけだった。
男が去ったあと――ようやく、広間に静寂が戻った。
濃く淀んでいた瘴気は薄れ、重苦しい空気だけがその場に残っている。
「……はぁ……」
セリアが大きく息を吐いた。
肩の力が抜ける。
張り詰めていた糸が切れたように、その場へ座り込みそうになるのをどうにか堪えた。
「……ほんっと、最悪」
額の汗を拭い、影を解く。
ようやく終わった。
そう思いたかった。
「終わってねぇ!!」
ラゼルの怒声が広間を震わせた。
六本の腕を床へ叩きつける。
石床が砕け、破片が跳ねた。
「逃げやがった……!」
牙を剥くように唸る。
「この俺の前から……逃げやがったぁぁ!!」
憎しみだけで立っているような姿だった。
エリナは壁に手を添え、静かに呼吸を整えていた。
顔色は悪い。
額には汗が滲み、足元もわずかに揺れている。
先ほどの術の負担は明らかだった。
「……大丈夫?」
セリアが声をかける。
「ええ……少し、疲れただけです」
微笑もうとしたが、うまく笑えていなかった。
リアンは、誰よりも動かなかった。
男が消えた場所を、ずっと見つめていた。
砕けた石床。
残された瘴気の残り香。
あの再生。
あの言葉。
拳が自然と握られる。
広間には、先ほどまでの激戦の跡が散乱していた。
砕けた柱。
裂けた床。
壁に刻まれた斬痕。
黒く焼けた跡。
そして、男に操られていた死体たちだけが、ただ静かに横たわっている。
まるで、ようやく訪れた静寂を受け入れているかのようだった。
しばらくして――
階段の方から、物音がした。
石段を降りてくる足音。
一定の速さ。
迷いのない歩み。
全員の視線が向く。
現れたのは、ヴェルカだった。
怒りの派閥。
燃えるような気配を纏った女は、広間へ降り立つと無言で辺りを見渡した。
崩壊した広間。
死体。
傷だらけの面々。
そして――リアン。
その姿を見つけた瞬間、ヴェルカはわずかに微笑んだ。
ほんの一瞬だけ。
セリアが即座に睨みつける。
「……何しに来たのよ」
ラゼルは舌打ちした。
「けっ。遅ぇんだよ」
ヴェルカは答えない。
ただ視線を巡らせる。
エリナが一歩前へ出た。
「ヴェルカ」
静かな声だった。
「何があった?」
低く問う。
エリナは、ここで起きた出来事を簡潔に説明した。
仮面の男。
刈り取る者。
紋章を奪う目的。
再生能力。
そして逃走。
ヴェルカは黙って聞き、やがて短く息を吐いた。
「……なるほど」
「あの噂は、本当だったか」
セリアが眉をひそめる。
「……どんな噂よ」
ヴェルカは淡々と答えた。
「不死鳥の女が、欠片を求めているのは知っているな」
リアンの肩がわずかに揺れた。
「もともとは一つの紋章だ」
「ならば、一つへ戻ろうとするのは自然だ」
「だが――欠片同士でも、同じことができる」
「集めれば、不死鳥の紋章になれる」
「……そういう噂だ」
「はぁ!?」
セリアが声を上げた。
「そんな話、初めて聞いたわよ!!」
ラゼルが舌打ちする。
「くだらねぇ。だったら奪えばいいだけだろ」
ヴェルカの視線が鋭くなる。
「そういう愚か者が増えるから、伏せられていたんだ」
広間に沈黙が落ちた。
リアンは何も言わない。
ただ、視線だけを床へ落としていた。
「それだけではない」
「それを聞いた紋章教会が、どう動くかも分からん」
ディルが槍を握り直す。
セリアも舌打ちした。
「面倒ごとしか増えないじゃない」
ヴェルカは続ける。
「正直、真相は分からない」
「本当に紋章を集めれば、不死鳥になれるのか」
「ただ――」
砕けた床を見る。
「刈り取る者の再生能力」
「あの瘴気を操る量」
「ここにいた者たちの紋章を奪って得た力だというなら、真実味は帯びる」
ラゼルが拳を鳴らした。
「なら次はぶっ殺して奪い返す」
「短絡的ね」
セリアが即座に返す。
ヴェルカは気にせず続けた。
「不死鳥の紋章になれる」
低く笑う。
「なんとも甘美な誘惑だ」
「大切な者」
「愛する者」
「それを、もう一度手に入れられるのなら」
リアンの拳に、さらに力がこもる。
サラの顔が脳裏をよぎる。
だが、何も言わない。
「それを望む者にとって、どれほど魅力的か」
エリナは目を伏せた。
ラゼルは鼻を鳴らす。
セリアだけが、ちらりとリアンを見る。
「混乱は避けられないだろう」
「だが、まぁいい」
ヴェルカは踵を返した。
「何も知らず、背後から襲われるよりは」
「知っていた方がマシだ」
数歩進み、止まる。
「それにしても……怒りが込み上げる」
空気が熱を帯びた。
「この世界は、導き手にとって優しくはない」
「いっそ――」
振り返らないまま、吐き捨てる。
「すべて燃えてしまえ」
そう言い残し、ヴェルカは去った。
再び静寂が落ちる。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。




