第217話 罪を纏う影
死体の指が、ぴくりと震えた。
その微かな動きは、誰の目にも止まらないほど小さかった。だが次の瞬間――広間に転がっていた骸が、一斉に跳ね起きる。
骨が軋む。
裂けた肉の隙間から黒い瘴気が噴き出し、乾いた音を立てて関節が逆向きに折れ曲がる。空洞のような眼窩が、光もなくこちらを向いた。
死んでいるはずの足が、再び地を踏みしめる。
「くそっ!」
セリアが吐き捨てた。
「これじゃキリがない!」
足元から伸ばした影で死体の脚を絡め取る。転ばせる。引き倒す。だが、地に伏した骸はすぐに腕を突き立て、瘴気を撒き散らしながら起き上がってくる。
斬っても、砕いても、終わらない。
その奥では、リアンが仮面の男と斬り結んでいた。
風を纏った刀が白い軌跡を描き、男の瘴気剣とぶつかるたびに火花のような衝撃が弾ける。黒い刃は形を変え、槍となり、鎌となり、蛇のようにうねりながらリアンへ襲いかかった。
リアンは一歩も退かない。
風の精霊たちが肩口、背後、足元を舞い、死角を補い、男の攻撃を読ませていた。
だが、それでも余裕はない。
周囲には導き手たちの死体が数体。
さらに男の剣から吐き出される黒い影が次々と増え、広間を埋め尽くしていく。
まるで、この場そのものが瘴気に侵されていくようだった。
ラゼルは別の場所で暴れていた。
「どけぇぇぇぇ!!」
六本の腕が唸る。
死体も影もまとめて殴り飛ばし、引き裂き、叩き潰す。肉片が飛び、黒い霧が散る。
それでも。
砕けた影は男の剣へ吸い込まれ、また別の場所から生まれ直した。
終わらない。
憎悪だけが、ラゼルを動かしていた。
広間の中央では、エリナの影が静かに立っている。
修道服を纏った少女の影。
その足元から広がる水面のような結界へ踏み入った死体は、無数の手に掴まれ、沈められていく。
腕。
指。
爪。
水底から伸びる無数の手が骸を引きずり込み、瘴気を奪い取る。
浮かび上がる頃には、ただの死体へ戻っていた。
「ディル!」
セリアが叫ぶ。
「エリナを守って!」
ディルは無言で頷く。
一歩前へ出ると、槍を横に構え、エリナの前へ立った。
迫る死体の喉を突く。
影の胴を薙ぎ払う。
返しで別の骸の膝を砕き、そのまま肩で押し返す。
必要最低限の動き。
だが、一歩も通さない。
セリアは舌打ちしながらラゼルへ振り向いた。
「ラゼル! リアンと協力しなさい!」
「うるせぇ!!」
返ってきたのは怒号だけだった。
「俺はあいつを殺す!!」
聞く耳を持たない。
セリアは額に青筋を浮かべた。
「何で、ああいうのばっかりなのよ!!」
エリナが小さく息を吐く。
「……ラゼルは憎悪で動いていますから」
静かな声だった。
「仕方ないですね」
「仕方なくないわよ!」
セリアが即座に返す。
エリナは少しだけ口元を緩めた。
「もう少し影を減らせば……男へ向かうかもしれません」
セリアは周囲を見る。
黒い影。
死体。
リアンと男の激突。
状況は最悪だ。
「それ、できるの?」
「……やってみます」
エリナが目を閉じた。
修道服の影が、再び絶叫する。
耳ではなく、心の奥を引っかくような声だった。
床に広がる水面が一気に拡大し、這い寄ってきた影たちを飲み込んでいく。
黒い影はもがき、沈み、泡のように消えた。
その様子を見ながら、セリアはふと口を開く。
「……今、聞くことじゃないのは分かってるけど」
エリナを見る。
「妹って、どんな子だったの?」
エリナは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
だが、すぐに答える。
「元気で……活発な女の子でした」
一拍。
「私と違って」
セリアは思わず影を見る。
「へぇ。あの影、修道服なんて着てるから、てっきり大人しい子かと思った」
「いえ」
エリナは首を横に振る。
「守り手として……立派な騎士でしたよ」
「え?」
セリアの眉が上がる。
「じゃあ、なんで修道服を?」
わずかな沈黙。
エリナは影を見つめたまま、静かに言った。
「……それは、私の後悔」
声は細い。
「罪悪感なのでしょう」
セリアは言葉を失った。
修道服を纏う影。
祈るように手を合わせる姿。
それは妹ではなく――
エリナ自身が、許しを乞い。
エリナ自身が、自分を罰しているように見えた。
「……ごめん」
セリアが小さく言う。
「変なこと聞いた」
「いえ」
エリナは首を振る。
その額には汗が滲んでいた。
水面がわずかに揺らぎ始めている。
負担が大きいのは明らかだった。
「どれぐらい持ちそう?」
現実的な問いだった。
エリナは呼吸を整えながら答える。
「……相手の瘴気を取り込んでいます」
「ですが、瘴気を取り込むにも限界があります」
一拍。
「特に……導き手の瘴気が、濃すぎます」
セリアは奥歯を噛んだ。
視線の先では、リアンが男の剣を受け流しながら押され始めている。
風はまだ折れていない。
だが、押し返しきれていない。
「やっぱり……」
影を握りしめる。
「男をどうにかするしかないわね」
リアン一人では、足りない。
その現実だけが、はっきりしていた。




