第216話 嘆きのエリナ
空気が裂けた。
男の右手に集まっていた瘴気が、一瞬で刃へと凝縮される。
黒い剣。
濁った感情そのものを固めたような、不気味な刀身だった。
「死にたくないんだろ?」
男が笑う。
次の瞬間、消えた。
「――っ!」
リアンの目の前に、既にいた。
振り下ろされる瘴気の剣。
反射的に身を捻る。
頬先を黒い刃が掠め、後方の石壁が斜めに断ち割られた。
轟音。
砕けた石片が飛び散る。
「速い……!」
だが、男は止まらない。
剣がうねる。
刀身が伸び、枝分かれし、蛇のように軌道を変える。
突き。
薙ぎ払い。
逆袈裟。
次の瞬間には槍のように細く鋭く変形し、さらに鎖のようにしなる。
あらゆる形。
あらゆる殺意。
その全てが、リアン一人へと襲いかかった。
「リアン!」
セリアの声が響く。
だが、リアンは一歩も引かなかった。
腰の刀を抜く。
刃に、左手の紋章が淡く光る。
風が集まる。
刀身に絡みつくように流れ、白い軌跡となって渦を巻いた。
「――来い」
振るう。
風を纏った斬撃が、瘴気の刃と正面からぶつかる。
激突。
黒と白が火花のように弾けた。
瘴気は散り、風が押し返す。
さらにリアンの足元にも風が集まる。
衣が揺れ、髪が逆巻く。
身体そのものが軽くなる。
加速。
回避。
踏み込み。
リアンの周囲を、小さな風の精霊たちが舞っていた。
銀色の光を帯びた存在が、肩口、背後、足元を飛び交う。
右から来る刃を知らせる。
死角から伸びる瘴気を弾く。
男の変則的な攻撃に対し、精霊たちが目となり耳となっていた。
「へぇ」
男が笑う。
「ただの導き手じゃないってわけか」
リアンは答えない。
踏み込み、風を纏った刀を振るう。
男は受ける。
黒い剣と白い刃がぶつかり合い、広間に衝撃が走った。
その光景を、ラゼルが見ていた。
切り落とされた腕の断面から、血が滴っている。
だが、その目にはもう痛みなど映っていない。
映っているのは、敵だけだった。
「……まだだ」
低く、唸る。
「俺は……まだ終わってねぇ……!」
叫ぶ。
瘴気が吹き上がる。
切断された肩口が蠢いた。
肉が盛り上がり、骨が伸び、黒い筋が絡みつく。
再生。
失われたはずの腕が、再び生えた。
しかも一本ではない。
怒りと憎しみを糧にするように、異形の腕が次々と形を取り戻していく。
「殺す……!」
ラゼルの声が広間を震わせた。
その時だった。
床に転がる死体たちが――動いた。
びくり、と肩が跳ねる。
次いで、首が持ち上がる。
関節が逆に曲がり、肉が裂け、黒い瘴気が体内から噴き出す。
立ち上がる。
一体。
また一体。
さらに一体。
導き手だった者たちの骸が、瘴気を纏って立ち上がっていく。
その瞳には光がない。
だが、確かな意思があるかのように、全員が獲物を見ていた。
「……こんな……」
エリナの声が震える。
祈るように胸元で手を組む。
「死んだ後まで……利用するなんて……」
セリアは舌打ちした。
「最低ね、あいつ」
影が足元から広がる。
黒い床を這い、迫る死体の足を絡め取っていく。
だが、死体たちは止まらない。
瘴気を纏った肉体は、影を引きちぎりながら進んでくる。
ディルが前へ出た。
無言。
槍を構え、一歩踏み込む。
突き。
喉を貫く。
返しで二体目の頭部を砕く。
さらに柄で三体目の顎を打ち抜き、そのまま壁へ叩きつけた。
だが、次々と立ち上がる。
ラゼルが吠える。
「どけぇぇぇ!!」
六本の腕が唸った。
殴り砕く。
裂き潰す。
叩き伏せる。
瘴気の骸たちが宙を舞い、肉片となって散る。
それでも、死体が起き上がる。
男は笑っていた。
リアンと剣を交えながら、楽しそうに。
「滑稽だね」
黒い剣が鎌へと変わる。
振るう。
リアンが屈み、風でかわす。
「生きたい奴らが」
今度は槍。
突き出される一撃を刀で逸らす。
「生きたい奴らが、死んだ奴らに邪魔される。導き手は、いつもそうだ」
リアンの目が鋭くなる。
怒りが滲む。
風の精霊たちが一斉に舞い上がった。
刀身に、さらに強い風が集まる。
「……黙れ」
低く、吐き捨てる。
男が笑う。
「お?」
リアンは踏み込む。
風が爆ぜた。
「お前も導き手だったんだろ!」
斬り結びながら叫ぶ。
「生きたかった者たちの悪口を言うな!!」
男の表情が、わずかに歪む。
「何を言っている!」
瘴気が逆巻く。
「導き手だったからこそ!」
剣が枝分かれし、無数の影となって広がる。
「死んだ奴らのせいで――苦しみを受けてきただろう!」
男が右手を払う。
瘴気の塊がいくつも地を這い、人の形を取りながらリアンたちへ襲いかかった。
「数が多いわね!」
セリアが舌打ちする。
影で二体を止め、三体目を蹴り飛ばす。
その時、エリナが一歩前へ出た。
「……少し、下がってください」
静かな声だった。
誰もが一瞬、動きを止める。
エリナは両手を合わせ、祈るように目を閉じた。
足元の影が揺れる。
そこから現れたのは――修道服を纏った影。
「これは……さっきの!」
セリアが目を見開く。
影はゆっくりと天を仰ぐ。
輪郭が鮮明になる。
黒い影だったものに、白い肌が宿る。
瞳は閉じられ、頬には血の涙のような筋が流れていた。
そして、その顔は――エリナにそっくりだった。
「祈りなさい」
エリナが告げる。
その瞬間、影の瞳が開かれた。
左右非対称。
その瞳の奥には、それぞれ異なる紋章が刻まれている。
次の瞬間。
影が絶叫した。
人の声ではない。
この世そのものを呪うような、絶望と嘆きの叫び。
広間の床が揺れる。
影の足元から、地面が水面のように波打ちながら広がった。
一体の死体がそれに触れる。
すると。
無数の手が、水底から伸びた。
腕。
指。
爪。
数え切れぬ手が死体を掴み、悲鳴もなく引きずり込む。
沈む。
完全に消える。
やがて――浮かび上がる。
その身体から瘴気は消えていた。
死体はただの骸として、力なく横たわる。
「な、何よ……!? あれ……!」
セリアが息を呑む。
エリナは静かに答えた。
「その影……妹よ」
わずかに沈黙した。
「……祈っても、戻りませんでしたけど」
一拍。
「これで……動かないでしょう」
男がその光景を見て、口元を歪めた。
「嘆きのエリナ、か」
リアンと剣を交えながらも、余裕は崩れない。
「それが、どれぐらい続くかな?」
右手の剣から、再び瘴気が伸びる。
黒い筋が地を這い、倒れた死体へと流れ込んだ。
次の瞬間――
死体の指が、ぴくりと動いた。




