第215話 「矛盾の中で」
思考が、巡る。
――不死鳥の紋章になる。
――死者と、再び会える。
魅惑的な言葉だった。
甘い。
あまりにも甘い。
それは救いの言葉のようでいて――同時に、どこかで聞いた“祈り”に似ていた。
救えなかった者たちが、最後に縋るもの。
手放せなかった後悔が、形を持ったような響き。
それが今、自分に向けられている。
抗いがたい。
否定しようとするほど、言葉は強くなる。
頭の奥で反響し、逃げ場を塞ぐ。
もし、それが本当なら。
もし、本当に――
サラに、もう一度会えるのなら。
胸の奥で、何かが揺れた。
否定しきれない。
――会いたい。
その感情だけは、嘘じゃない。
どれだけ理屈を並べても、消えない。
導き手である前に、人としての願いが、そこにある。
その時だった。
足元の死体が、不意に跳ね上がる。
肉が裂けるような音と共に、濁った目がリアンを捉えた。あり得ない角度で曲がった腕が、迷いなく伸びる。
生者を掴むために。
導かれるはずだった魂が、逆に引きずり込もうとするように。
「リアン!!」
セリアの叫び。
だが、それよりも速く動いたのはディルだった。
一歩。
踏み込みと同時に槍が閃く。
迷いのない軌道。
ためらいのない殺意。
穂先は死体の胸を正確に貫き、そのまま力任せに振り抜かれた。
壁へ叩きつけられる肉体。
骨が砕ける音。
鈍く湿った衝撃。
崩れ落ちる死体は、もう動かない。
「……惑わされるな」
ディルの声は低く、だが鋭かった。
「相手の言葉に呑まれるな」
リアンは息を呑む。
止まりかけていた思考が、強引に引き戻される。
肺に空気が入る。
指先に感覚が戻る。
――危なかった。
ほんの一瞬。
選びかけていた。
あの言葉に。
あの可能性に。
あの“救い”に。
男が、くすりと笑った。
「ひどいなぁ」
軽い口調。
だが、その奥にあるのは確信だ。
「俺は嘘なんて言ってない。全部――本当のことだ」
ゆっくりと歩く。
一歩ごとに距離を詰めるでもなく、ただ場を侵食するように。
存在そのものが、空間を塗り替えていく。
「お前たちも見たことがあるだろ?」
視線が刺さる。
「紋章の記憶。光の柱。並び立つ二つの影」
その言葉に、意識が引きずられる。
思い出す。
あの光景。
現実とは思えないほど澄んだ空間。
巨大な光の柱。
その中で、並んでいた二つの存在。
不死鳥の紋章。
そして――守り手。
ただ“在った”もの。
意味も、理由もなく。
ただ、そこに存在していたもの。
「……あれは……」
無意識に漏れる。
「紋章の……記憶……?」
視線をラゼルとエリナへ向ける。
二人も反応していた。
ラゼルの呼吸が乱れ、わずかに止まりかける。
エリナの瞳が揺れ、視線が落ちる。
――欲しい。
その感情は、確かにそこにある。
抑えていたものが、刺激される。
男は頷く。
「そうだ。不死鳥の紋章になれば、愛する者に再び会える」
静かに。
逃げ場なく。
「……欲しいだろ?」
沈黙。
空気が重く沈む。
ラゼルの肩が震える。
エリナの指先が白くなる。
――失ったもの。
――導けなかったもの。
誰もが抱えている。
誰もが背負っている。
男はそれを知っている。
だからこそ、そこを抉る。
「あるだろ?」
一歩。
「大切なものが」
さらに一歩。
「無くし、穢れ、導くことすらできず」
言葉が重くなる。
「それでも理想を語って、また足掻く」
笑う。
「滑稽だよな」
胸の奥が軋む。
否定できない。
一瞬だけ、頷きそうになる。
その言葉に。
その理屈に。
その“救い”に。
だが――
別の記憶が浮かぶ。
サラとの旅。
焚き火の夜。
酒の匂い。
くだらない会話。
何気ない時間。
戦いの中で預けた背中。
守られた感覚。
笑った記憶。
――あの時間は。
それだけじゃない。
苦しみだけじゃない。
奪われたものだけじゃない。
リアンは顔を上げた。
「……そうだな」
男を見据える。
「そんな世界になればいい」
一歩、踏み出す。
死体を踏み越える。
ぐしゃり、と嫌な音が足元で鳴る。
「だけど――俺たちは過去に縛られていい存在じゃない」
男の目が細くなる。
興味が宿る。
観察するような視線。
「過去は変えられない」
言葉を噛み締める。
「大切な人にもう一度会いたい。会いたくない奴なんていない」
拳を握る。
血の感触。
現実の重さ。
「でも」
一歩。
「他の誰かを犠牲にしてまでか?」
さらに踏み込む。
「それで、その人は喜ぶのか?」
声が強くなる。
「俺たちは――生きてるんだ!!」
空気が震える。
瘴気が揺らぐ。
ラゼルの視線が一瞬こちらに向く。
エリナの呼吸が乱れる。
「死にたいわけなんてないだろ!!」
沈黙。
言葉が突き刺さる。
消えない。
逃げられない。
男が、笑った。
低く、嘲るように。
「誰かを犠牲?」
鼻で笑う。
「何を言ってる、偽善者め」
「お前だって殺しているだろう?」
一歩。
死体を踏み越える。
「この世界は犠牲で成り立っている」
右手の瘴気が脈動する。
「その繰り返しだ」
リアンは、受け止める。
逸らさない。
「……ああ」
短く。
「そうだな」
一歩。
「俺は進む」
迷いはない。
「死にたくない」
だから――
「殺す」
男が笑う。
「矛盾してるじゃないか?」
リアンは首を振る。
「人は矛盾してる」
一歩。
「でも――それは全部本当だ」
踏み込む。
「生きたい」
「死にたくない」
「殺したくない」
全部。
「全部――本当だ」
言い切る。
「俺は生きる方を選ぶ」
一歩。
「生きて」
さらに。
「殺して」
そして。
「足掻く」
そこで、止まる。
ほんの一瞬。
「それでも――」
静かに。
「なるべく殺したくはない」
視線を外さない。
「それが、何が悪いんだ?」
沈黙。
ラゼルの息が重くなる。
エリナの指が震える。
セリアは睨み続ける。
ディルは構えたまま、動かない。
男が、口角を歪めた。
「……そうかよ」
右手の瘴気が刃へと変わる。
空気が張り詰める。
「なら――」
構える。
「せいぜい、足掻け」
その瞬間。
戦場が――再び動き出す。




