彼方
「……それで。きみは池に行きたかったんだろう?」
さきほどの身の毛のよだつ話はどこへやら、彼方は抑揚のない声で淡々と話題を変える。
塔子は上手く気持ちを切り替えられず、いえ、とだけ小さく口にした。あのまま道を進んでいたら、と想像するたびに恐怖が増し、それどころではなかったのだ。
彼はしばらく何も言わずに、呆然とする塔子を見つめていた。その顔は相変わらずの無表情で、はたして塔子を憐れんでいるのか、呆れているのか、次の言葉を待っているだけなのか、さっぱり読み取ることができない。ただじっと無遠慮な視線をこちらへ投げかけてくるだけだった。さすがに居心地が悪くなり、そっと彼に目を向ける。すると彼方は何を思ったのか、塔子の手首を無造作に掴んできた。
「せ、先輩」
「行こう。道を教えてあげる」
ぎょっとして固まる塔子にそれだけを言うと、ずんずんと林道を歩き出す。そのまま引きずられて転びそうになり、たまらず声を張り上げた。
「えっ? あの、違うんです!」
「何が」
「わたし、今井先輩を呼びに来ただけなんですっ……」
彼方はこちらを振り向きもせず、ただ小首だけ傾ける。
「僕を……? 直哉に言われたの? まあいいよ。行こう」
「まあいいよって……! 先輩、池はいいんです。緑の館で皆が待っているんです」
「いいからいいから」
ぐいぐいと引っ張られながら塔子はパニックに陥った。なぜ、本人を見つけ出したのに池に行かねばならないのか。しかし彼方にはまったく声が届いていない。脇目もふらず、林道を道なりに突き進んでいく。彼を引き止めようにもその方法が思い浮かばず、腕を取られた塔子はただ必死で付いて行くしかなかった。
辺りはすっかり暗く、いつの間にか夜が来ていた。月はすでに中空に差し掛かり、ほの白い光の雨をしんしんと降らせている。
「ここが池の入口」
歩き始めてから五分と経たないうちに、彼方はそう呟いて足を止めた。塔子は危うくぶつかりそうになり、たたらを踏む。
「こんなに、近くなんですか」
思わず声をあげると、彼は無表情に頷いた。目を移せば確かに、林の合間に蔦の絡まるガーデンアーチがあり、そこから伸びる小道が見える。よく見ればその手前には、ご丁寧に“鷺沢池”と記された案内板まで設置されていた。生徒達は便宜上“池”とだけ呼ぶせいで、今や忘れ去られた正式名称である。
入口の様子を一通り検分すると、塔子はため息をついた。榊葉直哉の言う通り、とても分かりやすい入口だった。あの恐ろしい獣道と間違えたことが恥ずかしくなる。
「行こう。すぐそこだから」
こちらの気も知らず、彼方は淡々と告げてアーチをくぐる。抵抗しなくなったせいか、掴んでいた手は離してくれた。塔子はほっとして彼の後に続く。
ふたりは会話のないままに小道をただ歩いた。月が辺りを照らすので、足元もよく見える。コンクリートの地面に落ちる塔子の薄青い影が、先を行く彼方の靴の踵に触れては離れた。塔子はしぜんと俯きがちになり、その影の伸びる足元ばかりを見て進む。
そうして数分ほど経ったころ、俯いた首筋がふいに涼しくなり、塔子はふと顔を上げた。いつの間にか道が終わり、開けた場所に出ている。彼方が振り向いて隣に立った。
「着いたよ」
塔子は驚きに目を見張った。
眼前に広がるのは群青の夜空と、それと全く同じ色を映す、きらめく水面。たっぷりと水をたたえる、楕円状の美しい池がそこに広がっていた。
「大きい、ですね……」
思わず見とれて呟く。校内の池といえば、鯉を飼うためだけにあるような、ごくささやかなものだと思っていたのだ。しかし目の前の池は広大で、向こう岸の木立まで随分と距離があるように思われた。湖と呼んだ方が相応しい佇まいだ。
「池の周囲は百メートルくらいと聞いたな。そんなに大きい方じゃないよ」
彼方の答えにさらに唖然とする。
「大きい方じゃないって……! グラウンドひとつ分、入りそうじゃないですか」
「まあね。随分昔に作られた、灌漑用の貯水池らしい」
そう説明すると、彼はのんびりと伸びをした。塔子はあっけにとられるしかない。校内に、こんな池まで擁しているとは、つくづくスケールの違う学校だと思う。
「さすが、緑の王国……」
小さく呟くと、何が可笑しかったのか、彼方はくすりと笑う。塔子は気恥ずかしくなり、黙って水際へと進んだ。
細かな砂地の場所まで来ると、池の水が波となって、寄せては返す様がよく見える。その波が水辺に群生するアシやツユクサの根元を洗うのを見て、まるで海のようだと塔子は思った。
「水面をよく見て」
声のした方へ顔を向ければ、いつの間にか彼方が側まで来ていた。驚いたが、彼が長い腕で池の中ほどを指し示すので、つられて見つめる。そこには暗い水面に映る、正円状の光があった。気付いて空を仰ぎ見ると、ふっくらと丸い月が輝いている。
「満月だったんだ……」
どうりでこんなに明るいわけだ、と塔子は思った。
月は煌々と光り、池の水面をほの白く染めている。そこに風が吹き渡るたびに、さざなみが複雑にきらめいた。池を渡った風は塔子らのもとへ届き、ひんやりとした水の匂いを辺りに残して去っていく。
「なかなか、いい景色だろう」
彼方が静かに囁いた。見入っていた塔子は、ゆっくりと頷いてみせる。
「ここには、見るべきものが沢山あるよ」
そう独り言のように呟くと、靴が濡れるのも構わず水辺に入り、一眼レフを構えた。シャッターを切る音が静かな池に響く。
「こういう景色を撮っているんですか」
月光の下にいる彼方に声をかけると、彼は軽く頷いた。
「きれいなものも、そうでないものもね」
「そうでないもの……」
彼方がまたシャッターを切る。撮った写真を確認しながら、何でもないことのように呟いた。
「たとえば、さっきの立入禁止の道とかね。醜いもの、怖いものも、見るべきものだ」
「え……」
塔子が何も言えずにいると、こちらを見透かすように、じっと見つめてくる。
「森って、色んな表情があるだろ。恐ろしいときもあるし、息を呑むほど美しいときもある。ちょうど今みたいに。……そういう、ありのままの表情を全部、知りたいと思うし、覚えておきたいと思うんだ。僕はね」
「ありのまま、ですか」
うん、と彼は頷いた。
「全てに言えることだけどね。物事には色んな側面があるから、興味深いと思うんだ。……ここには見るべきものが沢山あるよ。森も、古い校舎も。それに、人もね」
立ち尽くす塔子を、彼方はじっと見つめ、やがてゆっくりと微笑んだ。
月光は明るく降り注ぎ、彼の背後に広がる水面をきらめかせている。吹き渡る風は澄んだ水の匂いを運び、ふたりを柔らかく包みこむと、やがて林へと駆け去った。
*
彼方は塔子を池へ連れていくと気が済んだのか、大人しく緑の館へ顔を出した。館ではクラブ連合会総長の高橋一樹を含め、役員全員がふたりの帰りを待ち構えており、急きょ歓迎会が開かれる運びとなった。というのも、直哉と一樹は相変わらずかしましく、彼方も猫のように気ままに振舞うので、会議どころではなかったのだ。
ジュースもお菓子もない、お茶だけの会であるにも関わらず盛り上がり、史信が仕事を進められず苛々し始めた頃。志津香の適切な仕切りによって会はお開きとなり、ようやく塔子と良司の帰宅許可がおりた。
「わたしたち、残らなくて良かったのかな。後片付けもしていないのに」
寮へ帰る道すがら、塔子は隣を歩く良司を見上げた。懇親会で疲れ切り、思った以上に力のない声が出る。
良司はこちらをちらりと見やった。
「いいんじゃないか。この後から作業もするみたいだし」
「……この時間から?」
「スケジュールが押しているんだそうだ。予算の修正がまったく終わってないらしい」
「でも、門限は」
「役員は寮監に延長届けを出せば、免除だ」
短く返す。なるほど、と塔子は頷いた。ふたりは翌週から正式に役員となるので、今日のところは帰宅させたのだろう。
夜の人気のない林道はうら寂しい。か細い虫の音と、松林の葉の擦れあう音だけが辺りに響いている。脇に立つ街路灯は場違いなほどに明るく、とぼとぼと歩くふたりを照らしていた。明かりの下、羽虫の集まる場所に来ると、うっとうしそうに良司は腕で払う。その様子をそっと窺い、塔子は回らない頭で話題を探した。
「…………」
「あ、あのね。今井先輩ってどう思う?」
「どうって……。なんかマイペースな人だな」
「そう、そうだよね」
「…………」
ふたりの間に居心地の悪い沈黙が降りる。もう何度目かの沈黙だった。塔子は気まずく彼を見上げる。いつもなら何くれとなく話題を振って来る良司なのに、どういうわけか、池から帰ってきた後から様子がおかしかった。妙に口数が少なく、思い悩んでいるように見える。
「坂本くん」
「何」
彼がまた塔子をちらりと見下ろす。塔子は委縮しそうになりながらも、声をあげた。
「今日、わたしがいないとき、何かあった……?」
「どうして」
「変だよ。何だか」
良司は黙った。ふいと目を下に落とし、靴の先を見つめる。しばらくして何か言いかけようと息を吸ったが、また口を閉じた。
松林から、虫の音が微かに聞こえている。
彼の長い逡巡にもめげず息を潜めて待っていると、良司はようやくこちらに顔を向けた。疲れた顔で笑ってみせる。
「いいんだ。何でもないよ」
「何でもないって……」
まったくそんな風には見えない。眉をひそめ言葉を接ごうとしたが、良司が素早く口を挟んだ。
「とーこさんは気にしないでいいから。ほんとに、何でもないんだ」
「でも」
「そんなことより、もっと大事なことがあるだろう」
「え?」
きょとんとすると彼は苦笑し、道の先を見つめ、目を眇めた。その横顔がいつになく険しい顔つきに変わり、どきりとする。
「誰なんだろうな……いったい」
「何のこと……?」
「わからない?」
意味ありげにこちらを見やる良司を前に、塔子は立ち尽くす。
ふいに大きな風が吹き、虫の音がやんだ。突風は髪とセーラーカラーを巻き上げ、松林の枝葉をしならせる。木々が擦れあう重たい音を聞きながら、はじめは訝しんでいた塔子の眼が、やがてゆっくりと開かれた。良司はそれを認めると、おもむろに口を開く。
「今日いたメンバーのなかに、恐らく、獅子がいるんだろう」
「…………」
「誰なんだろうな、いったい」
呟かれた言葉に、塔子は何も言えなかった。
今までは口伝えに聞くばかりで、まるで空を掴むようだった『獅子』が、いよいよ現実味を帯びて迫ってくる。自分を指名したその人を見つけたい塔子にとっては、喜ぶべき事実のはずだったが、どうにも空恐ろしいような気がするのは不思議だった。
今日の歓迎会の様子を思い浮かべ、塔子は途方に暮れる。皆一介の高校生そのもので、それ以上に気にかかることなどありはしない。
(でも。あの人たちのなかの誰かが……もう一つの顔を持っているんだ。もう一つの、獅子の顔を)
表の顔を容易く信じてはいけないという事実が、不安を駆り立て、足元を不確かにさせるのだろう。
風がやみ、警戒を解いた虫たちが再び鳴き始める。辺りを憚るように、ひっそりと鳴くその音を聞きながら、塔子は彼方の言葉をふと思い出していた。
『物事には色んな側面があるから、興味深いと思うんだ。……ここには見るべきものが沢山あるよ。森も、古い校舎も。それに、人もね』




