宵闇の森
緑の館を出ると、塔子は小さくため息をついた。
すでに日も暮れ、月がのぼる時刻だった。太陽の最後の残照が、世界を薄青く染めあげている。道には街路灯が灯り始め、館の両脇に立つ銀杏も、白々とした明かりに照らされ長い影を伸ばしていた。
塔子はその影を踏みしめながら、俯きがちにゆっくりと歩き出す。夜の緑の香りは濃厚で、息をするのも苦しいほどだ。
ひとりになり肩の力を抜くと、どっと疲れが押し寄せてきていた。目まぐるしい一日だ。沢山の人と出会い、沢山のことがあった。処理しきれないほどの情報量にぼんやりとし、頭が考えることを拒否している。しかし、一番思い出したくない柊一の一言だけは、なぜか鮮明に何度も蘇ってきた。
『こいつなんかに、いったい何の価値があるんだ』
(……わたしだって、自分に価値があるなんて思っていない)
唇をぐっと噛みしめて、塔子は思った。どうして柊一にそこまで言われなければならないのか、どうしてあからさまに憎まれているのか、皆目わからない。わからないままに悪意をぶつけられることに、全身がキリキリと痛んでいる。不意に込み上げるものがあったが、塔子は一心不乱に歩くことでやり過ごした。一人になると、悪いことばかりを考えてしまう。
穏やかな風が吹いていた。春の暖かな夜風は、雑木林の葉を巻き上げ、塔子の髪を梳いては行き過ぎる。
緑の館と三学年校舎は程近い距離にある。この二つの施設と、寮棟は校内施設のなかでも最も山側に位置しており、平行線上に走る一本の道で繋がっていた。位置で言えば、中央に緑の館があり、向かって左手に寮棟、右手に三学年校舎である。塔子が目指す「池」とは三学年校舎の裏手にあり、更に山に分け入った場所にあった。
校舎までたどり着いた塔子は、あたりを見回してまたため息をついた。もう夜は近いのだ。どこも暗くガランとして、人ひとり見当たらない。本当に直哉の言うように、今井彼方は池にいるのだろうか、と心配になる。宵闇の校舎は気味が悪く、普段行き来する場所ではないので尚更心細い。それでもと自分を鼓舞して足を踏み出し、校舎裏へと続く林道を歩く。ここからは生徒手帳を片手に、池の入り口を探した。手帳の校内地図が見づらい刻限ではあったが、まだ完全に暗くはなく、辛うじて読むことができる。
木造校舎の格子窓が、風になぶられカタカタと揺れていた。道を挟んで左側にある雑木林からも、小さな葉擦れの音が響く。静かな夜だった。
そうして裏道を辿り続け、校舎の中央まで来たあたりだった。ふと、林のなかにぽつんと並んで立つ二本の木の杭が目に入った。よく見るとその先には細い道が見える。舗装されていない、下草が生い茂る獣道のようだった。
塔子は池への入り口かと思い、近くまで寄ろうとして立ち止まった。
(なんでこんなに暗いんだろう……)
妙な感じがして、杭の先を見入る。周囲は薄闇に包まれているが、なぜかその小道だけ、闇の濃度が明らかに異なっていた。入り口も暗いが、道の奥ほど闇は濃くなり、ついには真の暗闇となって、何も見えなくなる。まるで林のなかに突如現れたブラックホールのようだ。
塔子は恐る恐る杭の前に近づいた。近づくと、小道の奥から運ばれてきた風が肌を打つ。闇の底からやってきたような、ひんやりと冷たい風だった。
杭から身を乗り出し、よく周囲を観察してみる。隙間なく生える樹木に、頭上を覆う枝葉。そのひとつひとつをゆっくりと見回して、塔子は合点がいった。
どうやらこの道は長い間、間伐や手入れをしないまま放置されたことで、局所的に樹木が密生してしまったらしい。その樹木が枝葉を広げ、小道全体をトンネル状に覆い隠してしまったのだ。一部の隙なく生い茂った葉が外光を全く通さないことで、ブラックホールのような闇が生まれたのだろう。
(こんな場所もあるんだ)
謎が解け、少し気が楽になったが、問題はここが池の入り口なのかどうかであった。
道の奥から鳴る、か細い笛のような風の音を聞きながら、塔子は思案に暮れた。長く手入れしていない道であるなら、池の入り口のはずはない。しかし生徒手帳の地図によれば、池へ続く道はこのあたりで間違いないようだ。
じっと小道を見つめてみる。暗闇の正体がわかったものの、どうしても気味が悪く、進むには躊躇われた。こんな夜にひとりきりで歩く道ではない。
(池の場所はすぐにわかると言ったのに)
榊葉直哉の気軽な口調を、恨みがましく思いだす。なぜこんな場所を、女の子一人に歩かせるのだろうか。やはり、池の入り口は違うのか。塔子は浅く息を吐き出し、首をふった。早く今井彼方を連れて来ないと、緑風会の面々に迷惑をかける、と思い直す。
(とにかく少しだけ、入ってみよう。池が見えてこなければ帰ってくればいい)
悲壮な気持ちで、小さく一歩足を踏み出そうとしたその時だ。
「そっちは池の入り口じゃないよ」
不意に後ろから静かな声が聞こえた。突然の声に心臓が跳ねて、塔子は思わず飛びすさる。
振り返れば、男子生徒が背後に佇んでいた。細身の中性的な顔立ちの生徒だ。さほど目立つ容姿ではないが、胸の前にある大きな一眼レフカメラが、異様な存在感を放っている。塔子はまた驚いて彼を眺めた。図らずも、探していた当の本人が声をかけてくれたらしい。
「あ、あの……」
「そこは立入禁止区域なんだ。入っちゃいけない」
今井彼方は塔子の動揺にも頓着せず、淡々と続ける。
「ほら、ここ。埋まっちゃってるけど、ロープがあるだろ」
そう指差した先の地面に、黄色と黒の標識ロープが顔をのぞかせていた。彼方が靴でロープの上の土を払うと、『立入禁止』と書かれた小さな看板も出てくる。あ、と塔子は息をのんだ。
「誰も落ちていたことに気付かなかったんだ。また事務さんに言っておくから」
何も意見していないのに、彼方は静かな声で結論づける。感情が顔に出ない性質らしく、どうにもとらえどころがない。何も言わなければそのまま去っていきそうな気がして、塔子は慌てて呼び止めた。
「あの、今井先輩」
「変な感じがしただろ、ここ」
意に反して、彼方は言葉を被せてくる。塔子は面食らって言葉に詰まった。
「え……あの、はい……」
「変な感じがするというのは、本能的に危険を嗅ぎ取っている証拠なんだ。そういう場所には、近寄らない方がいい」
「…………」
「生徒が一人死んでるんだ、ここ」
「え」
彼は抑揚のない声音で続ける。
「この小道の先に崖があってね。足を踏み外したんだ。茂った藪に隠れて、見えなかったらしい」
塔子は首筋が粟立つのを感じた。こんな宵闇の時間に、事件現場の目の前で話すべきことではない。思わず腕を抱えると、彼方はこちらをじっと見つめる。
「森を甘く見ていたら痛い目に遭う。よく覚えておいた方がいい」
塔子は唇を噛み、小さく頷いた。
緑のトンネルから、また風が吹き抜けていく。葉擦れの音とともに、か細い笛の音のような、誰かの鳴き声のような風の音がこだまする。小道の先の暗黒は、じっと見つめていると魅入られそうで、塔子は思わず目を逸らした。




