暗雲
良司は出て行く塔子の背をじっと見つめた。
華奢な背中や俯いて露わになる細い首を見ていると、どうにも心配になる。
「……自己紹介はできたし、おれも一度部に戻ろうかな。会議が終わった頃にまた来るから」
良司の物思いをよそに、壮平がのんびりと声をあげた。大きな体でゆっくりと伸びをする。
「これでも柔道部主将なもんでな。公平を期して、予算会議はパスだ」
豪快な笑顔で説明してくれる。壮平につられて志津香も立ち上がった。
「じゃあ、わたしもポットにお水を足して来ようかな。今日は全員集合しそうだから、お茶の準備しておかないと」
部屋の奥へ進み、小卓に設置されていた給湯ポットを持ち上げて見せる。わたしが、と名乗り出た千歳を、にこやかに押しとどめた。
「いいの。すぐに戻るから、準備していて」
「すみません」
やりとりをぼんやりと眺めていた良司に壮平はふと振り返った。大きな口で豪快に笑むと、よろしくな、とまた頭をぐしゃぐしゃにした。
二人が出て行くと、室内は驚くほど静かになる。良司はくるりと目を動かし、面々を窺う。和やかな空気から一転し、互いを窺うような、気まずい沈黙が部屋に降りていた。
(むりもないか、この面子じゃ)
小さく肩をすくめる。残るは史信、千歳、柊一という、いかにも頭の固そうな連中だ。
とにかく気を紛らわそうと、口を開く。
「さっきの、大人の話って何すか?」
やけに間延びした声を出してしまった。
史信は静かな眼差しで、こちらをちらりと見やる。
「……聞いたままだよ。大人の話」
「ええと。つまり……」
「つまりスポンサーの話だ」
「スポンサー」
予想外の答えだ。
「うちは私学だし伝統校だろ。歴史のあるクラブには、歴代の卒業生やPTAが組織する、大きな後援会があるんだ。そういった後援会は、部への支援はもちろんだが、学校にも多額の寄付をしている。その影響力でもって、当然予算編成にも干渉してくるんだ。俺たちはそういった声も踏まえて予算案をつくっている」
良司はぎょっとして史信を見た。彼はあくまで淡々とした表情を崩さない。
「それは……大会や活動実績、規則違反の減点とは別に、第三の評価基準が存在するってことですか」
「言っておくけど、これは理事の総意でもあるからな。ましてうちの歴代のOB・OGは権力者、有力者揃いだ。顔を立てることは重要なんだよ。そうして、それぞれのパワーバランスを汲んだ予算というのは、ご存知のとおり何もかも公平ってわけにはいかない。分配できるパイは限られているからな。だから、あらかじめクラブ連合との調整が必要になるのさ。そのまま生徒総会で提出したんじゃ非難轟々だ。永遠に通らない」
「なにを調整するんです」
「まあ、駆け引きみたいなものだね。分配を可能な限り微調整する。もしくはこちらの案を通す代わりに、あちらの旨みをつくる。それは例えば、資金だけでなく、規則、罰則含めてね」
これが今、ここの二階で行われている全てだ、と史信は話を結んだ。
良司は絶句した。思わず柊一と千歳を見やるが、求めている反応は得られない。逆に真顔でじっと見つめられてしまい、更に戸惑う。
つかえそうになりながら、ようやく声をあげる。
「……それって」
「ルール違反だと思うか?」
「思いますけど」
十二分に、これは学生の本分を超えている、と思える。ふと兄の顔が浮かんだ。緑風会役員として、誇らしげに学校を語る兄。
史信はふと笑った。
「ただの一生徒会が、大きな権限を持つとはこういうことだ。こんな調整も含めて、俺たちの仕事だ。代々の緑風会役員のね」
「それじゃあ、まるで……汚い大人がやっていることみたいだ」
史信は今度ははっきりと笑う。
「汚い大人!」
「何が可笑しいんですか」
「きみはもうちょっと利口だと思っていたから」
良司は頬が熱くなるのを感じた。釈然としない気持ちをうまく言葉にできない自分に対しても、腹立たしい。
無意識に拳を握り締めていると、史信はまっすぐにこちらを見つめた。
「ねえ、こんなの社会に出たら誰もが経験することだろう? もっと冷静になってごらんよ。スポンサーに恩義を返すのは悪いことじゃないし、ク連との調整も、双方の納得を得るためのものだ。皆に配慮した、賢いやり方だと思わないか。綺麗事ばかりを言うのは簡単だが、全く現実的じゃない。そう思わないか?」
「そんなこと」
「俺はそう思う。そして役員になる以上、きみにもそう考えてもらいたい。少なくとも、現状を把握せず、綺麗事や理想ばかりを青臭く主張する、どこかの連中のようにはなってほしくない。これも立派な仕事で、この実績があるから、緑風会への信用がある。大きな自由が与えられている」
「だからって……」
「飲み込めない? そんなに俺は無理を言っているかな。……少なくとも、生徒にもきちんと真実をさらけ出すこの校風は、よっぽど潔いと思うが。夢や理想を植え付けておいて、現実に出て失望させるよりかは、何倍も親切だろう」
「そうですか……?」
「俺はそう思う」
うろんな顔の良司に、史信は鷹揚に頷いてみせた。
畳みかけるような言葉に、二の句が継げない。再び残る二人に目をやると、千歳はふいと目を逸らし、柊一はさも当然といった顔つきで、ただただこちらを窺っている。
(ここは……)
良司は思い、視線を床に落とす。
足元の敷き詰められた絨毯、赤いびろうどのソファ、湯気の立つ、繊細な花柄のティーカップ。
こうした特権や自由は、生徒のための純粋な自治活動の功績だけで得たものでは、決してないのだ。
(ここは……いったい誰のための王国なんだろう?)
なんだか遭難したような気分だ。
「その様子じゃ、きみも気付いたようだな」
目を上げると、史信はにやりと笑う。
「この学校にはもうひとつ、全く矛盾した伝統があるってね」
「先輩」
思わず息を詰めるが、彼は構わず、歌うように話しだす。
「この学校は、俺達にシビアな現実を突き付けておきながら、一方で楽園の夢を見せている。 あるひとつの王国の夢をね。まるで大人が与えた砂の城みたいに」
「瀬戸さん」
今まで沈黙を通していた柊一が、思わずといった風情で立ち上がった。良司はその反応に驚いたが、史信は気にした風もなく手を挙げていなす。
「わかってる。ここで話すべきことでもないし、役員としてもNGだ。でも、この部屋にいるメンバーには、この際だから俺の立場を表明しておく。今のうちにな」
そう言って、良司を見据える。
「俺はね、あの伝統を支持していない。はっきり言って、くだらないと思っている。王国なんて、ましてや統治者なんて、ガキの考える幼稚なごっこ遊びと同じだ。恐らく、俺達若者が社会をどうこうできるとか、そんな思い上がった考えから伝統は作られたんだろうが……時代遅れも甚だしい。もうそんな時代は終わっている。信じたところで、虚しいだけだ」
良司はあんぐりと口を開けた。それはあまりに辛辣で、根底を覆すような発言だと思われた。
不文律のように、見ないようにしていた真実を、一気に明るみに晒されたような、そんな後ろめたさがある。
「言っておくが、俺のような考えの奴は少なからずいるよ。誰もはっきり口に出して言わないだけだ。……だからね、坂本。俺は、今年のお姫様には、大失敗してくれることを祈っているよ」
今年のお姫様。それが何を意味するか、良司はもちろん即座に気付いた。史信が口の端を上げる。
「そう睨むなよ。彼女に悪意を持っているわけじゃない。むしろ、気が弱そうだし、分不相応なものを押し付けられて可哀相なくらいだ。問題なのは、彼女の立場だよ」
「立場」
「そう。今や彼女は愚かな伝統の象徴だ。どうしたものかな」
息を呑む面々を見回して、史信はゆっくりと告げた。
「古い伝統は終わらせるべきだ。この学校に――獅子なんかいらない」




