第9話 手を見る
朝、出発の前に、全員に手を出してもらった。
「手相でも見るのか」とブラフが言った。
「見るのは、親指です」
ブラフの手は、油の煤で真っ黒だった。昨夜、取り戻した油で、遅くまで雪を溶かしていたからだ。サナの手は小さくて、指先が少し荒れている。クロニカの指には、インクのしみがあった。いつものことだ。
エコーの手は、細くて長かった。剣だこはあるが、指は細い。
最後に、ガルドが黙って手を差し出した。
大きな手だった。親指の腹が、俺の親指よりひと回り大きい。
俺は、蝋の跡がついた壺を持ってきて、ガルドの親指の横に並べた。
大きさが、合っていた。
誰も、何も言わなかった。
◇
「ほかの四つも、見せてください」
俺は、水の入っていた残りの四つの壺を並べて、封の蝋を一つずつ灯りに透かした。
四つとも、指の跡はなかった。
蝋の表面は、布か何かで撫でつけたように、つるりとしている。手袋をはめたまま、慎重に塞いだのだ。ゆうべインクのしみを見つけたのも、この四つのうちの一つだった。
親指の跡があるのは、一つだけだった。
それも、底にひびの入った、あの壺だった。
「ガルドさん」と俺は言った。「この壺の封をし直したのは、あなたですね」
ガルドは、長いこと黙っていた。
それから、腕を組んだまま、低い声で言った。
「四日目の夜だ。見回りをしていたら、荷の岩陰で、壺の封が一つ割れていた」
「割れていた?」
「ひびが入っていた。中の何かが膨らんで、蝋を押し割ったように見えた。触ると、冷たいものが指についた。水か、油か、わからなかった」
中の水が凍って膨らみ、壺にひびを入れて、封まで割ったのだ。
「それで、封をし直したんですか」
「蝋を温めて、押さえた。それだけだ。ほかの壺は、封が無事に見えた。寒さで割れたのだと思った。山では、壺が割れるのはよくあることだ」
「昨日、俺が水のことを言ったあとも、黙っていましたね」
ガルドは、俺をまっすぐ見た。
「誰が何をしたのか、わからなかった。お前か、記録官殿か、聖女殿か、この隊の誰かだ。言えば、やった者に気づかれる」
俺は、何も言い返せなかった。
俺が地図のことを黙っているのと、同じ理屈だった。
「それに」とガルドは続けた。「騎士の仕事は、守ることだ。疑うことじゃない。疑うのが仕事の連中がいるなら、そいつらに任せる」
ガルドは、クロニカと俺を順に見た。
エコーが、肩をすくめた。
「なんだよ。それならそうと、昨日言えばよかったのに」
「最初に使った二壺は、どちらが渡してくれたんですか」と俺は聞いた。
「一つは俺だ」とエコーが言った。「背負子の一番上にあったやつを」
「もう一つは、俺の荷からだ」とガルドが言った。
一つずつ。どちらとも言えなかった。
「お前も言わなかっただろう」とガルドがエコーに言った。「俺が夜に出ていくのを見ていたなら、七日も黙っていたのはなぜだ」
エコーは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「見回りだと思ったんだよ。お前、毎晩どこかしら見回ってるだろ」
「……ああ」
ガルドはそれだけ言って、口を閉じた。
七日間、黙っていた人間が、この隊には三人いたことになる。俺と、ガルドと、エコーだ。
◇
「なあ、ケルン殿」
荷をまとめているとき、エコーが寄ってきた。
「疑われるのは慣れてるけどさ。一つだけ言っとくよ。俺が人の言葉を繰り返すのは、癖じゃない。伝令上がりなんだ」
「伝令」
「騎士になる前は、ずっと伝令兵だった。命令を受けたら、一度口に出して言い直す。覚えるためでもあるし、聞き違いがないか確かめるためでもある。間違った命令を運んだら、運んだほうが首を切られる」
エコーは、少し照れたように頭をかいた。
「抜けないんだよ、その癖が。山では、それで余計に怪しく見えるらしいけど」
「本当だ」と、少し離れたところでガルドが言った。「こいつは、騎士団でいちばん足の速い伝令だった」
エコーは、ほらな、という顔をした。
俺は、手帳に一行書き足した。
「エコー殿。元伝令兵。復唱の習慣あり」
疑いが消えたわけじゃない。でも、書いておけば、あとで見直せる。
◇
その日は、四千二百でもう一日休むことにした。
燃料が減った以上、計画を立て直す必要があった。ブラフの火で水を作る練習もしたかった。
昼過ぎ、クロニカが天幕の外で、一人で帳面を開いていた。
俺は隣に腰を下ろした。
「昨日の夜、紙を裂く音がしました」
クロニカの手が止まった。
それから、帳面の真ん中あたりを開いて、俺に見せた。
一枚分、ページがなかった。綴じ目に、ちぎった紙の端が残っている。
「日程表を書いたページです」とクロニカは言った。「横に、七千六百のことを書いていました。アンカーさんが、先代の勇者様と別れた場所だと」
「エコーさんが、読んだ」
「はい。それで、気づいたんです。私の帳面は、誰にでも読める。読まれたくないことは、書いてはいけなかった」
クロニカは、ちぎれた紙の端を指でなぞった。
「記録官が自分の帳面を破るなんて、初めてです。破いたページは、燃やしました」
俺は、その綴じ目をじっと見た。
記録院の原本と、同じ傷だ。
ただ、こっちは、破った本人が、破ったと言っている。
「クロニカさん」と俺は言った。「一つ、話していないことがあります」
俺は、ラッシュの地図のことを話した。三千八百の天幕で見たこと。新しい羊皮紙に、大岩の道が細い線で描いてあったこと。誰の字かわからないこと。七千六百に、丸がついていたこと。
クロニカは、黙って聞いていた。帳面には、何も書かなかった。
「……なぜ、今、私に」
「黒い四角を見せてくれたのは、あなただったので」と俺は言った。「それに、自分の帳面を破った人なら、書いていいことと、いけないことの区別がつくと思いました」
クロニカは、少しだけ笑った。それから、真顔に戻った。
「新しい羊皮紙、と言いましたね」
「はい」
「二十年前の地図を写したのなら、紙は新しくても不思議はありません。でも、原本からは七千より上が抜き取られているのに、地図には七千六百の印があった」
「描いた人間は、抜き取られたページを持っている。あるいは、そのとき、そこにいた」
「そして、新しい羊皮紙に描いて、ラッシュ様に渡した」
クロニカは、顔を上げた。
「書き屋は、今も生きています。それも、ついこのあいだ、ラッシュ様と会っている」
風が、天幕の布を鳴らした。
ラッシュは、村で王都からの迎えを待っている。
あの地図を、もう一度見なければならなかった。
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