↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された山岳ガイド、サンダルで標高八千メートルに挑む勇者パーティを見送る【連載版】  作者: 朝霧ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/26

第8話 水の混じった燃料

 クロニカのために、三千百で二日休んだ。


 そこから先は、日程表どおりに進んだ。三千三百、三千六百、三千九百と寝る高さを上げて、一日休む。四千二百に着いたのは、二度目の山に入って十一日目だった。


 クロニカは、もう夕飯を残さなくなった。ブラフは新しい靴に文句ひとつ言わなかった。ガルドは相変わらず黙っていて、エコーは相変わらずよくしゃべった。


 夜中のガルドのことは、誰にも言っていなかった。


   ◇


 四千二百の夕方、新しい油の壺の栓を抜いた。


 燃料の壺は、出発のときから、ガルドとエコーが分けて背負っている。俺が手に取るのは、使う日だけだった。


 この寒さだと、油は固まりかける。だからいつも、火のそばで温めてから注ぐ。いつものように壺を火のそばに置いて、炉に傾けた。


 油は、思っていたよりずっと早く尽きた。


「……もう終わりか?」とブラフが言った。


 壺の口から、鍋をかき回す細い木べらを差し込んだ。半分も入らないうちに、こつりと硬いものに当たった。


 壺をさらに温めて、残りの油を注ぎ切る。底には、白い氷が、壺の形に張りついていた。


 水だった。


「残りの壺、全部、見せてください」と俺は言った。


 八つあった壺のうち、二つはもう使い切っていた。残りの六つに、一つずつ木べらを差し込んだ。


 五つが、途中で止まった。そのうちの一つは、底に細いひびが入っていた。中の水が凍って膨らんだのだ。ひびは細く、凍っているうちは漏れなかったらしい。


 油を七割がた抜いて、そのぶん水を入れたのだ。水は油より重い。ほんの少し重くなるだけで、背負っていても、まず気づかない。


 氷を除けば、残りの油は使える。でも、五つの壺に残っているのは、合わせても一壺半ほどだった。


 抜かれた油は、どこにもなかった。


 使い切った二壺だけが、無事だった。どの壺から使うかは、背負っている二人が、荷の上にあるものから渡してくれていた。


 偶然だろうか。


   ◇


 誰も、しばらく口をきかなかった。


「村で、詰めるときに混ざったんじゃないのか」とエコーが言った。


「違います」と俺は言った。「壺は全部、俺が詰めて、俺が封をしました。酒場の主人が、封ありと帳面に書いています。出発の朝にも、俺がもう一度確かめました」


 俺は、水が入っていた壺の一つを手に取って、口のところを灯りに近づけた。


 封の蝋が、二重になっていた。


 一度溶かして、栓を抜いて、また溶かして塞いだ跡だ。上の蝋の縁が、下の蝋と少しずれている。


「村を出たあとです」と俺は言った。「山に入ってから、誰かが開けて、油を抜いて、水を入れて、封をし直した。抜いた油を入れる器も要ったはずです」


 全員の目が、ゆっくりと動いた。


 隊の中の、誰か。


 六人しかいない。


「なあ」


 エコーが言った。いつもの軽い声だった。


「ガルド。記録官殿を下ろした晩、天幕を抜けて、どこに行ってた?」


 ガルドが、顔を上げた。


「俺は見てたぜ。夜中に、荷物の岩のほうへ歩いていくのを」


 俺は、エコーを見た。


 あの夜、天幕の外を見ていたのは、俺だけじゃなかったらしい。


「……見回りだ」とガルドが言った。


「見回りで、荷物の岩陰まで?」


「そうだ」


 ガルドは、それ以上何も言わなかった。言い訳もしなかった。腕を組んで、エコーを見返しただけだった。


 サナが、不安そうに俺を見た。クロニカは、帳面を開いたまま、ペンを止めていた。


 エコーも、あの夜のことを、今まで七日間黙っていた。


 俺と同じだ。


「今は、誰がやったかより、水のほうが先です」と俺は言った。


 手帳には、あの夜のことが書いてある。でも、ガルドが出ていたのは、ほんの短いあいだだった。五つの封を溶かして、三壺を超える油を抜いて、水を入れて、また塞ぐには、火も時間も足りない。一晩で全部やったとも限らない。それを今ここで言い合っても、山の上で隊が割れるだけだ。


「この先、雪を溶かして水を作るには、燃料が要ります。まともな壺が一つと、取り戻せる油が一壺半、それに獣脂がひと箱。残りの日程を考えると、半分も持ちません」


「戻るしかないってことか」とエコーが言った。「村まで、取りに?」


「それも考えています」


 四千二百から村まで、下りるだけなら二日。燃料を詰め直して、また順応しながら戻ってくれば、十日は遅れる。


 そのあいだに、誰かがまた何かをするかもしれない。


   ◇


「なあ」


 ブラフが、手を上げた。


「オレの火じゃ、駄目か」


 皆が、ブラフを見た。


「いや、わかってるよ。上だと弱いんだろ。四千八百で、針の先みたいになったし」


 ブラフは、自分の指先を見つめた。


「でもさ。燃料って、要は火だろ。オレのは弱いけど、燃料は食わねえ」


 俺は、少し考えた。


 ブラフの火は、空気を食う。高いところほど弱くなる。でも、四千二百なら、四千八百よりはましだ。


「試してみましょう」


 小鍋に雪を詰めた。ブラフが、鍋の底に両手をかざした。


「……ファイア」


 指先に、ろうそくほどの火が灯った。


 縮みはしなかった。ただ、風が吹くたびに、炎が横に流れて消えかける。


「石、積もうぜ」


 エコーだった。言うより先に、もう手頃な石を拾い集めている。鍋のまわりに、膝の高さの風よけができた。


 炎が、まっすぐ立った。ブラフは目を閉じて、息をゆっくり吐いた。火は小さいまま、鍋の底を舐めつづけた。


「騎士は野営が仕事みたいなもんでな」とエコーが笑った。


 助かった。素直にそう思った。


 五分たった。


 十分たった。


 鍋の雪が、少しずつ沈んでいく。


 三十分後、小鍋の底に、水が溜まっていた。


「……できた」とブラフが言った。自分でいちばん驚いた顔をしていた。


 二回目も、できた。三回目の途中で、ブラフの肩が上下しはじめた。額に汗が浮いている。魔力は、使えば減る。サナの魔法と同じだ。


「休み休みで、一日に鍋で四、五杯が限界ですね」と俺は言った。「六人分の水には足りません。足りない分は、取り戻した油で補います」


「やるよ」とブラフが言った。「どうせ、オレは戦えねえし」


 どこかで聞いた台詞だった。


「戦えない魔法使いは、不要じゃないです」と俺は言った。「水を作れる魔法使いは、山では、勇者より役に立ちます」


 ブラフは、鼻の頭をかいた。


「……サンダルで登った奴が言われる台詞じゃねえな」


 サナが、吹き出した。クロニカも、帳面で口元を隠していた。ガルドの口の端が、ほんの少しだけ動いた気がした。


   ◇


 計画を立て直した。


 水は、ブラフの火と、取り戻した油で作る。まともなひと壺と獣脂は、ブラフの火が弱って使えなくなる高さのために取っておく。六千を越えたら、ブラフの火はたぶん役に立たない。そこから先は、燃料が持つあいだに登って、持たなくなる前に引き返す。


「引き返す、か」


 ガルドだった。


「魔王が目の前にいても、か」


「目の前にいても、です」


 ガルドは、しばらく黙っていた。それから、短く言った。


「……悪くない」


 クロニカが、それを書いた。


   ◇


 その夜、皆が眠ってから、俺は水の入っていた壺を一つ、天幕の中に持ち込んだ。


 灯りを近づけて、二重になった封を、もう一度よく見た。


 上の蝋の中に、小さな、青黒いしみがあった。


 爪の先で、そっと削ってみた。


 蝋が欠けて、しみの部分だけが、指先に残った。


 インクだった。


 山の上では、インクは凍る。だから俺は、手帳を石墨の芯で書いている。サナは字を書くとき、いつも俺の石墨を借りる。ガルドとエコーとブラフが字を書くところは、見たことがない。


 この隊で、インクを使っているのを見たことがあるのは、一人だけだった。


 毎晩、胸の内ポケットにインク壺を入れて温めて、帳面に何でも書きつけている人。


 でも、と思った。


 インクは、盗める。


 一日目の夜を思い出した。クロニカは焚き火のそばで、遅くまで帳面を書いていた。途中で沢へ手を洗いに行ったとき、インク壺は火のそばの石の上に置いたままだった。あのとき火のまわりにいた誰でも、手を伸ばせば届いた。


 それに、もう一つ。


 壺に入れるには、凍っていない水が要る。三千を越えた雪の上では、水は燃料かブラフの火で雪を溶かさないと手に入らない。そんなことをすれば、夜でも誰かが気づく。


 でも、一日目の二千八百の草地なら、すぐそばに沢が流れていた。


 あの夜は、夕飯のあと、皆が沢で鍋を洗ったり、明日の水を汲んだりしていた。焚き火も夜更けまで燃えていた。壺を抱えて沢へ下りても、火のそばで蝋を溶かしても、紛れるにはいちばんいい夜だ。


 細工は、たぶん一日目の夜だ。


 三壺を超える油を、どこかに捨てたのなら、あの草地に跡が残っているかもしれない。帰り道で確かめられる。


 ガルドが荷の岩陰へ行ったのは、四日目の夜だった。


 外に置いてあったほかの壺も、一つずつ天幕に持ち込んで、封を灯りに透かした。底にひびの入ったあの壺の蝋に、親指を押しつけた跡が、うっすら残っていた。


 大きな親指だった。


 クロニカの指の倍はある。俺の指よりも、ひと回り大きい。


 明日の朝、全員の手を見よう。


 俺は、隣の天幕のほうを見た。


 布の向こうで、かすかに、ペンの走る音がしていた。


 その音が止まった。


 それから、紙を、ゆっくりと裂く音がした。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

「おもしろい」「続きが読みたい」と思っていただけたら、ブックマークと、下の☆☆☆☆☆からの評価で応援していただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。