第8話 水の混じった燃料
クロニカのために、三千百で二日休んだ。
そこから先は、日程表どおりに進んだ。三千三百、三千六百、三千九百と寝る高さを上げて、一日休む。四千二百に着いたのは、二度目の山に入って十一日目だった。
クロニカは、もう夕飯を残さなくなった。ブラフは新しい靴に文句ひとつ言わなかった。ガルドは相変わらず黙っていて、エコーは相変わらずよくしゃべった。
夜中のガルドのことは、誰にも言っていなかった。
◇
四千二百の夕方、新しい油の壺の栓を抜いた。
燃料の壺は、出発のときから、ガルドとエコーが分けて背負っている。俺が手に取るのは、使う日だけだった。
この寒さだと、油は固まりかける。だからいつも、火のそばで温めてから注ぐ。いつものように壺を火のそばに置いて、炉に傾けた。
油は、思っていたよりずっと早く尽きた。
「……もう終わりか?」とブラフが言った。
壺の口から、鍋をかき回す細い木べらを差し込んだ。半分も入らないうちに、こつりと硬いものに当たった。
壺をさらに温めて、残りの油を注ぎ切る。底には、白い氷が、壺の形に張りついていた。
水だった。
「残りの壺、全部、見せてください」と俺は言った。
八つあった壺のうち、二つはもう使い切っていた。残りの六つに、一つずつ木べらを差し込んだ。
五つが、途中で止まった。そのうちの一つは、底に細いひびが入っていた。中の水が凍って膨らんだのだ。ひびは細く、凍っているうちは漏れなかったらしい。
油を七割がた抜いて、そのぶん水を入れたのだ。水は油より重い。ほんの少し重くなるだけで、背負っていても、まず気づかない。
氷を除けば、残りの油は使える。でも、五つの壺に残っているのは、合わせても一壺半ほどだった。
抜かれた油は、どこにもなかった。
使い切った二壺だけが、無事だった。どの壺から使うかは、背負っている二人が、荷の上にあるものから渡してくれていた。
偶然だろうか。
◇
誰も、しばらく口をきかなかった。
「村で、詰めるときに混ざったんじゃないのか」とエコーが言った。
「違います」と俺は言った。「壺は全部、俺が詰めて、俺が封をしました。酒場の主人が、封ありと帳面に書いています。出発の朝にも、俺がもう一度確かめました」
俺は、水が入っていた壺の一つを手に取って、口のところを灯りに近づけた。
封の蝋が、二重になっていた。
一度溶かして、栓を抜いて、また溶かして塞いだ跡だ。上の蝋の縁が、下の蝋と少しずれている。
「村を出たあとです」と俺は言った。「山に入ってから、誰かが開けて、油を抜いて、水を入れて、封をし直した。抜いた油を入れる器も要ったはずです」
全員の目が、ゆっくりと動いた。
隊の中の、誰か。
六人しかいない。
「なあ」
エコーが言った。いつもの軽い声だった。
「ガルド。記録官殿を下ろした晩、天幕を抜けて、どこに行ってた?」
ガルドが、顔を上げた。
「俺は見てたぜ。夜中に、荷物の岩のほうへ歩いていくのを」
俺は、エコーを見た。
あの夜、天幕の外を見ていたのは、俺だけじゃなかったらしい。
「……見回りだ」とガルドが言った。
「見回りで、荷物の岩陰まで?」
「そうだ」
ガルドは、それ以上何も言わなかった。言い訳もしなかった。腕を組んで、エコーを見返しただけだった。
サナが、不安そうに俺を見た。クロニカは、帳面を開いたまま、ペンを止めていた。
エコーも、あの夜のことを、今まで七日間黙っていた。
俺と同じだ。
「今は、誰がやったかより、水のほうが先です」と俺は言った。
手帳には、あの夜のことが書いてある。でも、ガルドが出ていたのは、ほんの短いあいだだった。五つの封を溶かして、三壺を超える油を抜いて、水を入れて、また塞ぐには、火も時間も足りない。一晩で全部やったとも限らない。それを今ここで言い合っても、山の上で隊が割れるだけだ。
「この先、雪を溶かして水を作るには、燃料が要ります。まともな壺が一つと、取り戻せる油が一壺半、それに獣脂がひと箱。残りの日程を考えると、半分も持ちません」
「戻るしかないってことか」とエコーが言った。「村まで、取りに?」
「それも考えています」
四千二百から村まで、下りるだけなら二日。燃料を詰め直して、また順応しながら戻ってくれば、十日は遅れる。
そのあいだに、誰かがまた何かをするかもしれない。
◇
「なあ」
ブラフが、手を上げた。
「オレの火じゃ、駄目か」
皆が、ブラフを見た。
「いや、わかってるよ。上だと弱いんだろ。四千八百で、針の先みたいになったし」
ブラフは、自分の指先を見つめた。
「でもさ。燃料って、要は火だろ。オレのは弱いけど、燃料は食わねえ」
俺は、少し考えた。
ブラフの火は、空気を食う。高いところほど弱くなる。でも、四千二百なら、四千八百よりはましだ。
「試してみましょう」
小鍋に雪を詰めた。ブラフが、鍋の底に両手をかざした。
「……ファイア」
指先に、ろうそくほどの火が灯った。
縮みはしなかった。ただ、風が吹くたびに、炎が横に流れて消えかける。
「石、積もうぜ」
エコーだった。言うより先に、もう手頃な石を拾い集めている。鍋のまわりに、膝の高さの風よけができた。
炎が、まっすぐ立った。ブラフは目を閉じて、息をゆっくり吐いた。火は小さいまま、鍋の底を舐めつづけた。
「騎士は野営が仕事みたいなもんでな」とエコーが笑った。
助かった。素直にそう思った。
五分たった。
十分たった。
鍋の雪が、少しずつ沈んでいく。
三十分後、小鍋の底に、水が溜まっていた。
「……できた」とブラフが言った。自分でいちばん驚いた顔をしていた。
二回目も、できた。三回目の途中で、ブラフの肩が上下しはじめた。額に汗が浮いている。魔力は、使えば減る。サナの魔法と同じだ。
「休み休みで、一日に鍋で四、五杯が限界ですね」と俺は言った。「六人分の水には足りません。足りない分は、取り戻した油で補います」
「やるよ」とブラフが言った。「どうせ、オレは戦えねえし」
どこかで聞いた台詞だった。
「戦えない魔法使いは、不要じゃないです」と俺は言った。「水を作れる魔法使いは、山では、勇者より役に立ちます」
ブラフは、鼻の頭をかいた。
「……サンダルで登った奴が言われる台詞じゃねえな」
サナが、吹き出した。クロニカも、帳面で口元を隠していた。ガルドの口の端が、ほんの少しだけ動いた気がした。
◇
計画を立て直した。
水は、ブラフの火と、取り戻した油で作る。まともなひと壺と獣脂は、ブラフの火が弱って使えなくなる高さのために取っておく。六千を越えたら、ブラフの火はたぶん役に立たない。そこから先は、燃料が持つあいだに登って、持たなくなる前に引き返す。
「引き返す、か」
ガルドだった。
「魔王が目の前にいても、か」
「目の前にいても、です」
ガルドは、しばらく黙っていた。それから、短く言った。
「……悪くない」
クロニカが、それを書いた。
◇
その夜、皆が眠ってから、俺は水の入っていた壺を一つ、天幕の中に持ち込んだ。
灯りを近づけて、二重になった封を、もう一度よく見た。
上の蝋の中に、小さな、青黒いしみがあった。
爪の先で、そっと削ってみた。
蝋が欠けて、しみの部分だけが、指先に残った。
インクだった。
山の上では、インクは凍る。だから俺は、手帳を石墨の芯で書いている。サナは字を書くとき、いつも俺の石墨を借りる。ガルドとエコーとブラフが字を書くところは、見たことがない。
この隊で、インクを使っているのを見たことがあるのは、一人だけだった。
毎晩、胸の内ポケットにインク壺を入れて温めて、帳面に何でも書きつけている人。
でも、と思った。
インクは、盗める。
一日目の夜を思い出した。クロニカは焚き火のそばで、遅くまで帳面を書いていた。途中で沢へ手を洗いに行ったとき、インク壺は火のそばの石の上に置いたままだった。あのとき火のまわりにいた誰でも、手を伸ばせば届いた。
それに、もう一つ。
壺に入れるには、凍っていない水が要る。三千を越えた雪の上では、水は燃料かブラフの火で雪を溶かさないと手に入らない。そんなことをすれば、夜でも誰かが気づく。
でも、一日目の二千八百の草地なら、すぐそばに沢が流れていた。
あの夜は、夕飯のあと、皆が沢で鍋を洗ったり、明日の水を汲んだりしていた。焚き火も夜更けまで燃えていた。壺を抱えて沢へ下りても、火のそばで蝋を溶かしても、紛れるにはいちばんいい夜だ。
細工は、たぶん一日目の夜だ。
三壺を超える油を、どこかに捨てたのなら、あの草地に跡が残っているかもしれない。帰り道で確かめられる。
ガルドが荷の岩陰へ行ったのは、四日目の夜だった。
外に置いてあったほかの壺も、一つずつ天幕に持ち込んで、封を灯りに透かした。底にひびの入ったあの壺の蝋に、親指を押しつけた跡が、うっすら残っていた。
大きな親指だった。
クロニカの指の倍はある。俺の指よりも、ひと回り大きい。
明日の朝、全員の手を見よう。
俺は、隣の天幕のほうを見た。
布の向こうで、かすかに、ペンの走る音がしていた。
その音が止まった。
それから、紙を、ゆっくりと裂く音がした。
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