第7話 高く登って、低く寝る
出発までに、三日かけた。
ブラフの足には、まだ皮の薄いところが残っていた。サナが毎晩、魔法をかけ直した。俺の体の芯に残っていた重さも、三日寝て、ようやく抜けた。
その三日で、計画を立てた。
酒場のテーブルに親父の手帳と自分の手帳を並べて、毎日どこで寝るかを一つずつ決めていく。三千までは早く。三千を超えたら、寝る高さは一日に三百ずつ。三日上げたら、一日休む。
書き上げた日程表を見て、クロニカが目を丸くした。
「……ひと月、ですか」
「ひと月近く、です。天気が崩れたら、もっと延びます」
「王都は、急いでいます」
「山は、急いでくれません」
クロニカは少し黙ってから、日程表を自分の帳面に書き写した。一字も違えずに。
その晩、皆に一つだけ、覚えてもらった。つま先とかかとをくっつけて、まっすぐ十歩歩く。頭の痛い夜は、寝る前にこれをやる。まっすぐ歩けなかったら、その場で下ろす。
「酔っぱらいの確かめ方じゃねえか」とブラフが言った。
「似たようなものです。山の上では、皆、少し酔ってるので」
◇
荷造りは、宿の二階でやった。
燃料は、油の壺が八つと、獣脂を固めたものがひと箱。高い山では、雪を溶かして水を作るのも、料理も、全部これでやる。壺は一つずつ栓をして、蝋で封をした。いちばん重い荷なので、ガルドとエコーが分けて背負うことになった。
俺は、いつものように、親父の懐中時計を首から下げた。一時間ごとの記録には、これがいる。
酒場の主人が、例の帳面に「油の壺、八つ。封あり」と書きつけた。それ、書くんだ、とはもう思わなかった。この村では、書く。
◇
出発の朝、油の壺の封を、一つずつ確かめた。全部、俺がつけたときのままだった。
村の入口に、杖をついた人影が立っていた。
ハーケンだった。
村人の何人かが、驚いた顔で振り返った。この人が自分から村人の前に立つのを、見たことがある者は少ないらしい。
ハーケンは、俺の前まで来ると、懐から何か取り出した。
鉄の杭だった。先が尖っていて、頭に輪がついている。岩の割れ目に打ち込んで、ザイルをかけるための金具だ。
「わしの名前の由来だ」とハーケンは言った。「親がこれで食っとった。二十年、使っとらん」
「いいんですか」
「七千を越えたら、雪より岩が多くなる。支点は、一つじゃ足りんのだろう」
親父の口癖だった。
俺は、杭を受け取って、背負子の一番取り出しやすいところに差した。
「行ってきます」
ハーケンは何も言わずにうなずいて、杖をついて谷のほうへ帰っていった。
振り返ると、宿の二階の窓に、ラッシュの顔があった。こっちを見下ろしている。
あの朝、俺が立っていた窓だ。
目が合うと、ラッシュは窓から離れた。
◇
一日目は、二千八百で天幕を張った。
前のときと同じ場所だ。分かれ道の下の、平らな草地。すぐそばを細い沢が流れていて、雪を溶かさなくても水が汲める、最後の野営地になる。
「まだ登れるだろう」とガルドが言った。息ひとつ乱れていない。
「登れます。でも、寝るのはここです」
「なぜだ」
「寝る高さは、ゆっくりしか上げられないんです。昼に登るのはかまわないんですけど」
ガルドは何か言いかけて、黙った。それから、荷を下ろして、黙々と天幕の杭を打ちはじめた。
「なるほどなあ」とエコーが言った。「寝る高さは、ゆっくり、か。覚えとこう」
ブラフは、さっきから十歩ごとに自分の足元を見下ろしていた。
「……あったけえ」
「靴ですからね」
「靴って、すげえな」
エコーは、人の言ったことをよく口に出して繰り返した。そうやって覚えるのだと言っていた。
「七千六百ってのは、何があるんだ?」
エコーは、夕方から何度も、水袋を提げて沢へ下りていった。よく働く人だと思った。
夕飯の豆を配っているときに、エコーが言った。
俺は、手を止めた。
「どこで聞いたんですか」
「どこって」エコーは笑った。「記録官殿の帳面に書いてあったろう。案内人の親父さんが、先代の勇者と別れた場所だって」
クロニカが、少し困った顔をした。
「すみません。日程表の横に、書いていました」
「……先代の勇者が、最後にいた場所です」と俺は言った。
嘘ではなかった。
全部でもなかった。
その夜も、寝る前にザイルを端から端まで指で撫でた。毛羽立ち、ほつれ、濡れて凍ったところ。親父に叩き込まれた、毎晩の習慣だ。
◇
二日目は、三千百で寝た。
三日目、三千三百の大岩に着いた。
ケルンは、前に来たときのまま、九つの石で立っていた。
皆が天幕を張っているあいだ、クロニカだけが、石積みのそばに残っていた。
「これが、アンカーさんの」とクロニカが言った。
「七つが親父の石です。八つ目は、親父が先代の勇者を迎えに戻ったとき、自分で乗せた石。九つ目は、この前、俺が乗せました」
クロニカは、石を一つずつ数えた。それから帳面を開いて、何かを書きつけた。
「迎えに戻った、印」
書き終えてから、クロニカは足元の石を一つ拾って、俺を見た。
「乗せても、いいですか」
「どうぞ」
十個になった。
その日の夕方、雲の見方を教えた。
「西の肩に、雲が溜まりはじめたら気をつけてください。この山の嵐は、たいてい西から来ます。村の天気帳にも、五十年分、そう書いてあるそうです」
「たいてい、ですか」
「山に、必ずはないので」
クロニカは、それも書いた。
◇
四日目、三千六百。
三百上げただけだった。それでも、その夜、クロニカの様子がおかしくなった。
夕飯に手をつけない。顔が白い。何度もこめかみを押さえている。
「大丈夫です。少し、疲れただけで」
そう言って、クロニカは胸元からインク壺を取り出した。山の上ではインクが凍るから、歩くあいだは懐で温め、天幕では毛布にくるんで置いているのだ。帳面を開こうとして、手が止まった。字が書けないようだった。
サナが、クロニカの隣にしゃがんだ。
手をかざしかけて、やめた。代わりに、クロニカの額に手を当てた。それから、俺のほうを見た。
「ケルンさん」
サナの声は、落ち着いていた。
「下ろしましょう。今夜のうちに、五百。三千百まで」
俺は、少しだけ驚いた。
四千メートルで、魔法をやめられなかった人の声じゃなかった。
「暗いぞ」とガルドが言った。「朝まで待てんのか」
「待てません」とサナが言った。「頭痛だけじゃなくて、吐き気と、足元のふらつきがあります。これは、上で寝たら悪くなります。回復魔法をかければ一時は楽になります。でも、治りません」
サナは、俺を見た。
「そうですよね」
「そうです」と俺は言った。「下ろしましょう」
ガルドは、それ以上何も言わなかった。黙って、天幕をたたみはじめた。
灯りをともして、五百下りた。大岩を過ぎて、三千百まで。
三千百に着いた頃には、クロニカの顔に、少し赤みが戻っていた。
「……すみません」とクロニカは言った。「私のせいで、何日も」
「ここで二日休みます。それで済むなら、安いものです」
「でも」
「下りる判断ができる人が、山では一番強いんです」と俺は言った。「今夜、それをしたのはサナさんです」
サナが、天幕の陰で、小さく笑った。
◇
その夜、俺は眠りが浅かった。
夜中に、天幕の外で、雪を踏む音がした。
布の隙間からのぞいた。
月明かりの中を、大きな人影が一つ、天幕から離れていく。頬に古い傷のある横顔。
ガルドだった。
ガルドは、荷物を積んだ岩陰のほうへ歩いていった。そこには、油の壺が並べてある。
しばらくして、人影は戻ってきた。何も持っていなかった。
俺は手帳を開いて、暗がりの中で書いた。
「二度目の山、四日目、夜半。ガルド殿、天幕を出て、荷の岩陰へ。しばらくして戻る」
書いてから、手帳を閉じた。
見たことを、見たとおりに書いただけだ。
それが何を意味するのかは、まだ書かない。
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