第10話 聖剣
四千五百で寝て、四千八百で寝た。
四千八百の張り出した岩の下は、前に勇者たちが二晩を過ごした場所だった。今度は天幕が三張りある。毛布もある。ブラフが、火を囲む石を積みながら言った。
「ここ、オレがサンダルで寝たとこだぞ」
「知ってます」
「よく生きてたな、オレ」
「加護のおかげですね」
「女神様、ありがとう」とブラフは雪の上で手を合わせた。サナが、少し笑った。
夜、残りの燃料を数えた。まともな油がひと壺、取り戻した油が一壺に少し欠けるくらい、獣脂がひと箱。ブラフの火と合わせて、六千を少し越えるあたりまでは持つ。そこから先は、計算しなおしだ。
一日休んでから、五千の雪原へ向かった。寝るのは、また四千八百に戻ってからだ。
目的は、一つだった。
「聖剣を、拾います」
◇
雪原は、前に来たときと同じように、まぶしく平らだった。
割れ目の場所は、手帳に書いてある。黒い岩も、まだそこに背中を出していた。
岩から五歩。雪面に、細く沈んだ筋が残っている。ラッシュが落ちた割れ目だ。あのとき崩れた縁の上に、新しい雪が薄く積もっていた。
「本当に降りるのか」とガルドが言った。
「降ります。国宝なので」
「国宝だからって、案内人が命を張る理由になるのか」
「ならないです」と俺は言った。「でも、王都に聖剣が戻らないと、ラッシュさんの罪がひとつ重くなります。それに、あれが雪の下にあるかぎり、この割れ目の場所を探しに、また誰かが登ってくるかもしれない」
ガルドは、それ以上何も言わなかった。
支度をした。
黒い岩の割れ目に、ハーケンからもらった鉄の杭を打ち込んだ。石で叩くたびに、澄んだ音が雪原に響く。最後のひと打ちで、音が高くなった。しっかり効いた音だ。
杭の輪にザイルを通して、岩の根元にも一回巻きつける。
一つ目の支点と、二つ目の支点。
「わしの名前の由来だ、だったか」とエコーが言った。「いい杭だな」
「借り物です。返さないと」
ザイルの先に、輪を二つ作った。腰と、太ももに通す。座るような形で吊られるので、長く下りても体が締めつけられない。
「下ろすのは、ガルドさんとエコーさんにお願いします。岩の後ろで、巻きつけたところを押さえて、少しずつ送ってください。止めてと言ったら止める。帰りは、俺が自分で登ります。たるみを取ってと言ったら、たるんだ分だけたぐってください」
「止めてと言ったら、止める。たるみを取ってと言ったら、たぐる」とエコーが言った。
伝令の復唱だ。今は、それがありがたかった。
縁には、また背負子を寝かせた。
クロニカが、帳面を胸に抱えたまま、少し離れたところに立っていた。
「時間を、計っていてもらえますか」と俺は言った。「降りてから半時間たっても上がってこなかったら、岩の巻きつけを外して、岩より前に出て、皆で引いてください。俺が何も言わなくても」
「半時間」とクロニカが繰り返した。「書いておきます」
◇
割れ目の縁から、足を出した。
背中を空に預ける。ザイルが張る。
「送って」
少しずつ、体が沈んでいく。
縁の雪が、目の前を上へ流れていった。白が、だんだん青くなる。
割れ目の中は、思っていたより静かだった。風の音が消える。自分の息と、ザイルのこすれる音だけが聞こえる。
壁は、氷だった。
青い、という言葉では足りない色をしていた。光が上から差し込んで、氷の中でほどけて、壁全体がうっすら光っている。きれいだった。きれいなものほど、山では人を殺す。
手袋の指で、氷の壁を軽く押さえながら下りていく。
四十歩分ほど下りたところで、割れ目が少し狭くなった。両側の壁が近づいて、その間に、氷の塊が挟まって棚のようになっている。
その上に、細長いものが横たわっていた。
「止めて」
ザイルが止まった。
鞘に入ったままの、剣だった。
柄に、金の飾りがついている。鞘の革は、俺が毎晩拭いていたときのままの色をしていた。
聖剣だった。
光ってはいなかった。
加護つきの剣でも、割れ目の底では、ただの冷たい鉄だった。
棚の氷は、どこまで固いかわからない。体重はかけずに、片手を伸ばした。指先が、柄に届いた。
握る。引き寄せる。
思っていたより、軽かった。三年間、毎晩手入れをしてきた剣なのに、自分の物のように握るのは初めてだった。
腰のザイルに、鞘の紐を結びつけた。
「たるみを取って!」
声が、氷の壁にはね返った。
アイゼンの前の歯を、氷の壁に蹴り込む。ピッケルを頭の上の氷に打ち込んで、体を引き上げる。また蹴り込む。
俺が登った分だけ、上でザイルがたぐられていく。足を滑らせても、落ちるのはたるんだ分だけだ。
壁はまっすぐではなく、少し傾いていた。それでも、途中で何度も止まって息を整えた。五千の空気で、四十歩分の氷の壁は長かった。最後のほうは、上の二人が少しずつ引いて手を貸してくれた。
青い光が、白に戻っていく。
縁から顔を出すと、まぶしさで目が開けられなかった。
誰かの手が、俺の腕を掴んで引き上げてくれた。
エコーの手だった。
「おかえり」とエコーが言った。「二十七分だ。記録官殿が数えてた」
「二十六分です」とクロニカが言った。帳面から顔を上げずに。
◇
聖剣は、クロニカが預かることになった。国宝なので、王都まで記録官が持ち帰る。
「重いですね」とクロニカが言った。
「三年間、俺はそれを毎晩手入れしてました」
「給金から、手入れ代を引かれながら」
「そうです」
クロニカは、聖剣を帳面と一緒に、大事そうに毛布でくるんだ。それから、帳面に何か書いた。たぶん、手入れ代のことも書いた。
四千八百に戻る途中、ガルドが一度だけ、俺の横に並んだ。
「下りるのは、怖くないのか」
「怖いです」
「それでも、下りるのか」
「怖いから、支点を二つ取るんです」
ガルドは、しばらく黙って歩いていた。それから、短く言った。
「……騎士も、似たようなものだ」
◇
◆
幕間 王都、記録院
王都の記録院には、四十人の書記がいる。
国じゅうから届く報告を写し、清書し、王宮の書庫へ納めるのが仕事だ。北のヴァルテン村から届いた書類も、その日の朝、ほかの地方の報告と一緒に院長室の机に積まれた。
ギルド出張所の調書の写しと、記録官クロニカからの、最初の報告。
記録院長のエルンストは、六十に手が届こうかという、小柄な老人だった。ギルドの調書を読み終えると、そばの書記に言った。
「ヴァルテンの所長殿に、礼状を。日付も、時刻も、証言の名前も、一つも抜けていない。こういう調書は、なかなか来ない」
「かしこまりました」
「クロニカの報告は、規則どおり王宮へ回してくれ。勇者の任が停められた件は、王のご判断を仰ぐことになる。王がご返事の書状をお書きになるなら、清書はいつものとおり、書記長に」
「書記長に、お伝えします」
書記が下がると、入れ違いに、背の高い男が戸口に立った。書記長だった。王の書状の清書を、二十年近く任されている。
「院長。北からの報告は、もうお読みに」
「読んだよ。君にも、あとで回す」
書記長は、静かに一礼して下がった。
エルンストは、机の上の次の束を手に取った。南の港町から届いた、船の積み荷の報告だった。
記録院の一日は、長い。
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