第11話 書状
聖剣を拾って二日目の昼、下から人が登ってきた。
四千八百の岩の上から、最初に見つけたのはサナだった。
「ケルンさん。誰か、来ます」
雪の斜面を、三つの人影がゆっくり登ってくる。先頭の二人は、村の若い荷運びだった。大きな荷を背負っている。その後ろに、黒い外套の男が一人。
さらにその後ろに、もう一人。
遠くからでも、歩き方でわかった。三年間、一番後ろから見てきた背中だ。
「……ラッシュさん」
◇
黒い外套の男は、岩陰に着くなり、雪の上に膝をついた。
顔が土色だった。息が浅く、速い。唇が紫がかっている。
「王都より……記録官殿に……書状を……」
男は、懐から封書を取り出そうとして、手を滑らせた。
サナが駆け寄って、男の額に手を当てた。それから、俺を見た。
「村から、何日で」と俺は聞いた。
「四日だそうです」とサナが言った。「荷運びの子に聞きました」
王都から馬車で来て、そのまま四日で千八百から四千八百まで。三千も上げている。
荷運びの二人は、村の若者だった。王の使いに金貨を積まれて、三千から上へは登らないという村の慣わしを破ってきたらしい。三千から上の道は、ラッシュが地図を見ながら先に立って案内したという。二人とも、頭が痛いと言ってこめかみを押さえていた。子どものころから三千の手前までは羊を追って登っている若者たちだが、これが限界だろう。
背負ってきた荷は、王都から届いた防寒具と、油の壺が二つだった。油は、村を出るときにリブラ所長が持たせてくれたのだという。山の上でいちばん先に足りなくなるものを、あの人はよく知っている。
使いの男は、王宮でラッシュを連れていくよう口頭で命じられ、村の宿でラッシュを拾ってきたのだという。
「下ろします」と俺は言った。「今日のうちに、三千三百まで。この人は、ここに一晩もいちゃいけない」
「俺が行く」
ガルドだった。もう、荷をほどきはじめていた。
「この男を三千三百まで下ろす。そこから先は、荷運びの二人に村まで任せる。三日で戻る」
「ガルドさん一人で、上り直すんですか」
「一晩下りただけなら、体は慣れたままだ。そうだろう」
「……そうです」
「エコーは足は速いが、人は担げん」とガルドは言った。
ガルドは、俺の返事を待たずに、黒い外套の男の腕を肩に回した。
男は、運ばれながら、震える手で封書をクロニカに差し出した。
「この書状と、ラッシュ殿を連れていけと……誰に命じられたんですか」とクロニカが聞いた。
「王宮で……書状を渡してくださった、書記の方に……」
名前を聞く前に、男の首ががくりと垂れた。気を失っただけだった。サナが脈を確かめて、うなずいた。
村まで下りれば、話を聞けるかもしれない。俺は、手帳に書きとめた。
◇
クロニカは、岩陰で封書を開いた。
封蝋には、王家の紋章があった。クロニカは、それを灯りに透かして、しばらく見ていた。
「本物です」と言った。「王家の封蝋に、間違いありません」
それから、読み上げた。
「元勇者ラッシュを、荷運びとして記録官の隊に加えよ。聖剣の回収、ならびに魔王討伐に功あらば、その罪を減ずる」
皆の目が、岩の端に座り込んでいるラッシュに向いた。
ラッシュは、真っ白な顔で、こめかみを押さえていた。四日で三千上げてきたのだ。女神の加護がまだ残っていなければ、あの使いの男と同じことになっていた。
「……聖剣は」とクロニカが言った。
「もう拾いました」と俺は言った。
クロニカの膝の上で、毛布にくるまれた聖剣が、こつんと鳴った。
ラッシュが、それを見た。それから、俺を見た。
「……拾ったのか」
「割れ目の、四十歩下でした」
ラッシュは、何か言いかけて、口を閉じた。
「功が一つ減りましたね」とブラフが言った。
「ブラフ」とサナが小声でたしなめた。
「いや、だって」
ラッシュは、聞こえないふりをしていた。
◇
ラッシュには、二日休ませることにした。
頭痛がひどく、夕飯をほとんど残した。それでも、翌朝には自分から水汲みの石を運んでいた。誰にも言われていないのに。
ブラフの火で溶かした雪を、ラッシュが水袋に移していく。その手つきを見ながら、ブラフが言った。
「お前、それ、前はケルンの仕事だったよな」
「……知ってる」
「どこで汲めばいいか、知らなかったよな」
「知ってるって言ってるだろ」
ラッシュは、水袋の口をきつく縛った。
その夜、俺はラッシュの天幕の前に立った。
「ラッシュさん。地図を、見せてください」
返事はなかった。
「書状には、荷運びとして隊に加えよとあります。隊に入れるかどうかは、山の上では俺が決めます。そういう条件で、引き受けているので」
布の向こうで、しばらく何も音がしなかった。
それから、天幕の入口が少しだけ開いて、畳んだ羊皮紙が突き出された。
「……見るだけだ」
◇
クロニカの天幕で、灯りの下に地図を広げた。
新しい羊皮紙だった。細い線で、ヴァルテン山の道が描いてある。麓の村。分かれ道。大岩。四千八百の張り出した岩。五千の雪原。
三千八百の天幕で見たときは、灯りの下で一瞬だったから、気づかなかった。
七千を越えたところで、線は一度、途切れていた。
そこから先は、別の筆で描き足したように、線が少し太い。その先に、丸が一つ。
「七六〇〇」
クロニカは、地図の端から端まで、時間をかけて見ていった。記録官の目だった。
「この字は、記録院の書記の手です」と、やがて言った。「書記は、誰が書いても同じ形になるように教え込まれます。記録院には四十人いますから、字だけで誰かを決めるのは難しい」
「じゃあ、わからないんですか」
「普通なら」とクロニカは言った。
クロニカは、さっきの書状を、地図の横に並べた。
「ここを見てください」
地図の「七六〇〇」の「七」。
書状の末尾の日付、「十七日」の「七」。
どちらも、最後の払いが、わずかに上へ跳ねていた。
「書記は、こう書きません」とクロニカは言った。「払いは、まっすぐ下へ抜くように教わります。跳ねるのは、癖です。教わる前から、その人の手に染みついている癖」
クロニカは自分の帳面を開いて、一字書いてみせた。払いは、まっすぐ下へ抜けていた。
「私の七は、跳ねません」
それから、クロニカは村で読み上げた、最初の書状も取り出した。勇者の任を停めよと書かれた、王の書状だ。
「こちらの七も、跳ねていません。別の書記の手です。……この書状が書かれた日は、書記長が王都を留守にしていたと聞きました。それで、用意に手間取ったそうです」
俺は、二つの「七」を見比べた。
同じ形だった。
地図を描いた手と、王家の封蝋を押された書状を書いた手が、同じだった。
クロニカは、灯りを見つめたまま、しばらく動かなかった。地図を畳もうとした指が、かすかに震えていた。
「……ラッシュ様をこの隊に入れるようにと書いた人が、ラッシュ様に、七千六百への地図を渡した」
天幕の外で、風が鳴った。
隣の天幕から、ラッシュの咳が聞こえた。
あの書状が、この山の上まで、ラッシュを運んできた。
七千六百の丸印のほうへ。
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