第12話 六千
ガルドが戻ってくるまでの三日、四千八百で待った。
ラッシュの頭痛は、二日目の朝には引いていた。三日目には、黙って一番重い荷を担いで、天幕のまわりを一周してみせた。
「……三十キロくらいか」とラッシュが言った。
「三十二キロです」
「なんでわかる」
「三年間、担いでいたので」
ラッシュは、何も言わずに荷を下ろした。
◇
ザイルは、毎晩調べる。
親父に叩き込まれたことの一つだ。端から端まで、指で撫でていく。毛羽立ち、ほつれ、濡れて凍ったところ。山でいちばん信用していい道具は、ザイルだ。だから、いちばん疑ってかかる。
ガルドが戻る前の晩も、いつものように、二本のザイルを膝の上に広げた。
一本は、隊の新しいザイル。もう一本は、俺が三年前から使っている、自分のザイルだ。
自分のザイルの、真ん中より少し先で、指が止まった。
手触りが、違う。
灯りを近づけた。三本の束を撚り合わせた縄の、そのうちの一本が、きれいに切れていた。刃物で、浅く、斜めに。切った跡の上から、雪をこすりつけて毛羽を寝かせてある。外から見ただけでは、まずわからない。
ここに人の重さが一気にかかれば、残りの二本だけでは持たない。
俺は、しばらくザイルを握ったまま動けなかった。
このザイルを使うのは、俺だ。いつも、自分の腰に結ぶのは、このザイルだった。
隊の誰でも、知っている。
ラッシュが来て、二日目の晩だった。ラッシュも、このザイルのことは三年前から知っている。
そして、ガルドのいない日だった。前の晩に調べたときは、何ともなかった。ザイルは昼のあいだ、荷の岩陰に巻いて置いてある。その日の昼、荷の番は、エコーが自分から引き受けてくれていた。それでも、昼と夜のあいだに岩陰に近づけたのは、ガルドを除く全員だ。
◇
次の朝、ガルドが戻ってきた。
三千三百まで使いの男を下ろし、荷運びの二人に託して、三千三百で一晩、四千二百でもう一晩寝て、登り直してきたのだという。
「あの男は、三千三百で生き返った」とガルドは言った。「村までは、荷運びが背負って下りる」
ザイルが切られたのは、ガルドがいなかった日だ。
俺は、そのことを誰にも言わなかった。
クロニカにだけ、切れたザイルを見せた。あの日、クロニカは昼からずっと俺の天幕にいて、燃料と日程の計算をしていた。夜も、夜更けまで一緒だった。岩陰へ行くところを、俺は一度も見ていない。夜中や明け方のことまでは、わからない。それでも、この隊で一番確かなのはクロニカだった。
「……誰が」
「わかりません。あの晩ここにいたのは、ガルドさん以外の全員です」
クロニカは、切り口を指でなぞった。それから、帳面を開きかけて、やめた。
「書きません」と言った。「これは、書いたら読まれる」
切られたところだけを切り取って、背負子の底にしまった。短くなった残りは、もう一組に回す。代わりに、隊の新しいザイルを、自分の腰に結ぶことにした。
誰が見ても、いつもと違うザイルだとわかる。
見て、顔色を変える人間がいるかもしれない。
リブラ所長が持たせてくれた二つの油の壺も、念のため、皆の前で開けて確かめた。封は、所長の印のままだった。中身も、油だけだった。これで、七千六百までは持つ。
◇
五千百、五千四百、五千七百と、寝る高さを上げていった。五千七百で一日休んでから、六千へ向かう。
五千を越えると、ブラフの火が目に見えて弱くなった。五千四百では、ろうそくより小さい火を、両手で包むようにして守らないと、雪が溶けなかった。五千七百で、ブラフは火を出すのをやめた。
「……もう無理だ」と言った。「出ることは出るんだけど、鍋が温まらねえ」
「十分です」と俺は言った。「ここまで、ブラフさんの火で来ました」
そこから先は、残りの油だけで水を作る。
六千に近づくほど、皆、食べなくなった。食べ物の味がしない、とサナが言った。夜は眠りが浅い。寝ているあいだに、息が止まったようになって、それから急に大きく吸う。高い山では、誰にでも起きることだ。
五千七百の最初の晩、クロニカが飛び起きた。
「ケルンさん、ブラフさんの息が、止まって」
「大丈夫です。止まって、また吸うのを繰り返してますよね」
「……はい」
「高い山では、寝ているあいだ、息がそうなるんです。慣れれば、少しずつ落ち着きます。苦しそうに咳きこんだり、唇が紫になったら、すぐ起こしてください」
クロニカは、ブラフの寝息をしばらく聞いていた。それから、自分の胸に手を当てた。
「私も、なってましたか」
「なってました」
◇
五千七百から六千のあいだに、雪の斜面を斜めに横切るところがある。
足もとの雪は固く、下はずっと先まで、何もない白だ。滑れば、止まるところがない。
ここだけは、ザイルで繋いで渡った。俺が先頭で、真ん中にラッシュ、最後にクロニカ。もう一組は、ガルドとエコーとサナとブラフ。
「体重は、足の真上に。斜面に寄りかからないで。一歩ずつ、アイゼンを全部の歯で雪に噛ませてください」
五千を越えてから、毎朝、全員にピッケルで滑落を止める練習をさせていた。今日はそれを使う日かもしれない、と思った。
斜面の半ばで、ラッシュの足もとが崩れた。
声もなかった。ラッシュの体が横倒しになって、斜面を滑り出した。
俺は、反射でピッケルを雪に突き立てて、その上に体を覆いかぶせた。
ザイルが張る。腰に、がつんと重さが来た。
止まった。
後ろで、クロニカも同じようにピッケルを突き立てていた。二人分の支点で、ラッシュは斜面の途中にぶら下がっていた。
ラッシュは、しばらくそのまま動かなかった。それから、自分でアイゼンを蹴り込んで、這い上がってきた。
息を整えてから、ラッシュは、俺の腰のザイルを見た。
「……そのザイル、いつもと違うな」
俺は、少し迷った。切られたのは、ラッシュが来て二日目の晩だ。
でも、さっき滑ったときのラッシュの顔は、作った顔じゃなかった。自分が切ったザイルなら、俺の腰にないことは、とっくに気づいている。
「いつものザイルは、四千八百で、誰かに切られていました」
ラッシュの顔から、色が引いていった。
「切られてた……?」
「真ん中より少し先です。今みたいに、ラッシュさんが滑って、俺が止めていたら」
俺は、それ以上言わなかった。
ラッシュは、白い斜面の下を見た。何もない白が、ずっと続いていた。
◇
その夜、六千の天幕で、ラッシュが俺の横に座った。
皆が寝静まってから、だった。
「……あの地図をくれた奴のことだ」とラッシュは言った。
俺は、何も言わずに待った。
「王都の宿に、男が来た。お前を追い出す、ひと月前だ。頭巾をかぶってて、顔は見せなかった。声は、穏やかだった」
「何て言われたんですか」
「七千六百。大きな岩の陰に、案内人が登るときに積んだ石の山がある。その下に、革の包みが埋まっている。それを拾ってこい、と。拾ってくれば、魔王を倒せなくても、勇者の名は守ってやる、と」
ラッシュは、膝の上で拳を握った。
「それと、もう一つ言われた。案内人には、絶対に見せるな、とな。あの案内人は、隊から外せ、とも」
ラッシュは、そこで一度言葉を切った。
「でもな。外せとは言われた。銀貨三枚を置いたのは、俺だ。どうやって外すかを選んだのは、俺だ」
行かせたいのか。止めたいのか。
答えは、両方だった。
勇者は、七千六百へ行かせたい。でも、その包みを、案内人には見せたくない。
勇者でなければいけない理由も、たぶんある。女神の加護だ。加護のある一行なら、三日で七千六百まで駆け上がっても、生きて包みを拾えると踏んだのだろう。加護のない案内人が順応しながら登れば、何週間もかかる。そのあいだに、誰が何を見つけるかわからない。
案内人より先に、勇者に拾わせたかった。だから、俺を外させた。
それでも俺が山に入ってきたから、今度は、燃料に細工をして、ザイルを切った。
いや、と思い直した。燃料の細工は、ラッシュが隊に加わる前、一日目の夜だ。もし燃料が尽きて隊が村へ引き返していたら、ラッシュを書状でこの隊に送りこんでも、山の上で合流することはできなかった。書状を書いた者にとって、燃料の細工は邪魔だったはずだ。
燃料に細工をした者と、書状を書いた者は、同じとはかぎらない。
「……俺は、あんたを殺す連中の、手先だったってことか」とラッシュが言った。
「ラッシュさんは、知らなかったんですよね」
「知らなかったで、済むかよ」
ラッシュは、それきり黙った。
天幕の外に出ると、空が晴れていた。
月明かりの中に、七千の稜線が、白く、くっきりと浮かんでいた。その上のどこかに、七千六百がある。
親父が、最後に石を積んだ場所。
そして、誰かが二十年間、誰にも見られたくなかったものが、埋まっている場所。
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