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追放された山岳ガイド、サンダルで標高八千メートルに挑む勇者パーティを見送る【連載版】  作者: 朝霧ナギ


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第13話 こだま

 六千の朝は、音がしなかった。


 風もない。鳥もいない。天幕の布に霜がついて、触るとさらさら落ちた。


 俺は、自分の手帳を最初から読み直していた。


 二度目の山の、一日目から。


   ◇


 一時間ごとに、時刻と高さと天気を書く。それから、見たものを書く。誰が何をしていたかも、気づいたことは全部。


 親父に、そう教わった。山で何かあったとき、最後に頼りになるのは、記憶じゃなくて記録だ。


 一日目の夜のページを開いた。


「二十時、二千八百。晴れ、風弱し。夕食後、沢にて鍋洗い、サナ殿、ブラフ殿。水汲み、エコー殿」


「二十一時。焚き火、まだ燃える。記録官殿、火のそばで帳面。途中、沢へ手を洗いに」


「二十二時。エコー殿、沢へ、三度目」


 三度目。


 あの夜、明日の水を汲むのに、水袋を三度も沢まで運ぶ必要はなかった。俺の水袋と鍋で、六人分は足りていた。


 十一日目の夜、俺はインクのしみと親指の跡に気を取られて、一日目のページを読み返さなかった。ザイルが切られた日も、切り口に気を取られて、その日のページを読み返さなかった。記録をつけていても、読み返さなければ、ただの紙だ。


 次に、ザイルが切られた日のページを開いた。


「十四時、四千八百。晴れ。俺と記録官殿、天幕にて燃料と日程の計算。荷の岩陰の番、エコー殿。自分から申し出る」


 自分から。


 ページを閉じた。


 それから、ラッシュの告白を書いたページを開いた。燃料の細工をした者と、書状を書いた者は、同じとはかぎらない。


 一人は、ラッシュを七千六百へ行かせようとした。


 もう一人は、俺を七千六百へ近づけまいとした。


   ◇


 朝飯のあと、ガルドとクロニカに、手帳を見せた。


 ガルドは、ページを三度読み直した。それから、天幕の外で荷をまとめているエコーのほうを見た。


「……俺が話す」とガルドが言った。


「俺が話します」と俺は言った。「案内人の仕事です。山の上で、誰を連れていって、誰を下ろすかを決めるのは」


 ガルドは、しばらく俺を見ていた。それから、うなずいた。


「隣にいる」


   ◇


 エコーは、背負子の紐を締めているところだった。


「よう、ケルン殿。今日は六千三百だったか」


「エコーさん。水袋を、見せてもらえますか」


 エコーの手が、止まった。


 ほんの一瞬だった。それから、いつもの笑顔に戻った。


「水袋? なんでまた」


「一日目の夜、沢へ三度行きましたよね。水を汲むには、多すぎる」


 エコーは、何も言わなかった。


 俺は、エコーの背負子の横にくくりつけてある水袋を、手に取った。


 栓を抜く。


 水の匂いじゃなかった。


 油の匂いが、まだかすかに残っていた。何度も雪ですすいだんだろう。それでも、革に染みた油の匂いは、そう簡単には抜けない。


「三壺を超える油を、どこかへ運ばなきゃならなかった」と俺は言った。「抜いた油を入れる器が要る。水袋なら、誰も怪しまない。沢へ三度行ったのは、水を汲むためじゃなくて、油を捨てて、壺に入れる水を汲むためだ」


 エコーは、笑顔のまま、俺を見ていた。


「ザイルが切られた日の昼、荷の岩陰の番を自分から申し出たのも、エコーさんです。手袋をしたまま封をしたから、蝋に指の跡はなかった。インクは、記録官殿が沢へ手を洗いに行ったとき、火のそばの石の上から」


「……全部、書いてあるのか」とエコーが言った。


「全部、書いてあります」


 エコーの笑顔が、ゆっくりと消えた。


   ◇


「最初に使った二壺は」と俺は言った。「一つはエコーさんが渡してくれた。もう一つはガルドさんの荷から。エコーさんは、自分の荷の一番上に、細工をしていない壺を置いていたんですね。最初の数日で気づかれないように」


「野営地では、荷をほどいて、壺は岩陰にまとめて置く」とエコーは言った。声が、平らになっていた。「次の朝、詰め直すときに、どれをどっちが背負うかは選べた。細工をしなかった三つのうち一つを、俺は自分の荷の一番上に入れた。ガルドの荷の一番上に無事なのが来たのは、運が良かっただけだ」


 隣で、ガルドが拳を握った。


「なぜだ」とガルドが言った。低い声だった。「お前は、騎士団でいちばん足の速い伝令だった。いちばん正直な伝令だった」


 エコーは、ガルドのほうを見なかった。


 代わりに、俺を見た。


「俺の親父の名前を、知ってるか」


「……いいえ」


「グラートだ」


 息が、止まった。


 記録院の原本の、隊員の名簿。隊員グラート、七千二百にて没。


「二十年前の討伐隊の隊員だ。俺がガキのころに山へ行って、帰ってこなかった」とエコーは言った。「七千二百で死んだ、とだけ聞いた。どうやって死んだのかは、誰も教えてくれなかった」


「それで」


「記録官殿の護衛に決まった晩だ。王都の酒場で、男に声をかけられた。記録院の書記だと名乗った。暗い隅の席で、顔はよく見えなかった。色が白かったのだけは、覚えてる。……今思えば、俺を護衛に推したのも、そいつの口添えだったのかもしれない」


 色の白い、記録院の書記。


「そいつが教えてくれたよ。お前の親父は、七千二百で動けなくなった。案内人のアンカーが、見捨てて置いていった。その息子のケルンという男が、王命で同じ山に入ることになるだろう。親父の汚名をすすぐために、都合の悪いものを全部消しに行く。止められるのは、お前だけだ、ってな」


 エコーは、自分の手を見下ろした。


「封は、皆が寝たあと、焚き火の熾きで蝋を溶かして塞いだ。インクは、記録院から来た人間に疑いが向くように、わざとつけた。油を運んだ水袋は、自分用にしか使っていない。……殺すつもりはなかった、とは言わない。ザイルを切ったとき、お前が落ちてもいいと思った」


   ◇


 誰も、しばらく口をきかなかった。


 俺は、背負子から親父の手帳を取り出した。


「クロニカさん」


 クロニカが、顔を上げた。


「前に、崩れた字を読むのは記録官の仕事だと言いましたね。……七千二百のところを、読んでもらえますか」


 クロニカは、手帳を両手で受け取った。


 七千から上のページは、凍えた指で書いた字だった。俺には、数字と、いくつかの言葉しか拾えない。


 クロニカは、ページを灯りに近づけて、長いこと見ていた。指で、一字ずつ線をなぞる。帳面に、一字ずつ写していく。


 やがて、顔を上げた。


「読みます」


 クロニカの声は、少しだけ震えていた。


「『七千二百。落石。グラート、頭を打つ。息あり。背負う』」


 エコーが、顔を上げた。


「『七千二百、夜。グラート、息を引き取る。背負っては、もう登れず、下ろせず。石を積む。グラートの妻と子の名を、手帳に書き留める。必ず伝える』」


 クロニカは、次の一行を指でなぞった。


「その下に、名前が二つあります。……奥様のお名前と、もう一つ」


 クロニカは、エコーを見た。


「エコー、と」


 エコーの膝が、雪の上に落ちた。


   ◇


 置いていったんじゃなかった。


 親父は、グラートを背負った。息を引き取るまで、そばにいた。動かせなくなった体の上に、石を積んだ。そして、残された家族の名前を、手帳に書いた。


 必ず伝える、と。


 でも、伝えられなかった。山から戻った親父は、勇者を見捨てた案内人になっていた。誰も、親父の話を聞かなかった。


 あの親父のことだ。書いて、送ったのかもしれない。王都の記録院に、グラートの家族へ伝えてくれ、と。


 届かなかったのか。誰かが、止めたのか。


「ハーケンさんも、七千二百では親父のそばにいたはずです」と俺は言った。「村に戻ったら、話を聞いてください」


 親父は、そのあとも勇者について、七千六百まで登った。グラートを、石の下に残して。


 どんな気持ちで登ったのか。手帳には、書いていなかった。


「……知らなかった」とエコーが言った。雪の上で、両手をついたまま。「俺は、何も、知らなかった」


 知らなかったで、済むかよ。


 ゆうべ、ラッシュが言った言葉だった。


 ラッシュは、少し離れた岩に座って、黙ってこっちを見ていた。それから、自分の手元に目を落とした。同じ言葉を、ゆうべ自分に向けたばかりの顔だった。


   ◇


「記録します」とクロニカが言った。帳面を開いて、静かに。「エコー殿の話も、アンカーさんの手帳も。裁くのは、王都です。ここでは、私は書くだけです」


「下ろせ」とガルドが言った。「こいつを、ここから下ろせ。俺が連れていく」


「下ろしません」と俺は言った。


 ガルドが、俺を見た。


「一人で下ろせば、六千から下は誰も付き添えない。ガルドさんが付き添えば、隊から騎士がいなくなる。それに、エコーさんは、その書記の顔を見ている」


 俺は、エコーの前にしゃがんだ。


「荷は、これまでどおり背負ってもらいます。燃料の壺は、もう触らせません。ザイルは、毎晩、ガルドさんと俺で調べます」


 エコーは、顔を上げなかった。


「……なぜだ」と、かすれた声で言った。「俺は、お前を殺そうとした」


「山で、人を置いていかないのが、うちの家業なので」


 親父がそうだった。七千二百でも、七千六百でも。


 エコーは、雪に額をつけたまま、長いこと動かなかった。


   ◇


 その夜、クロニカが一人で、天幕の外に座っていた。


 膝の上に、ラッシュの地図と、王の二通目の書状を広げている。地図は、六千の夜の告白のあと、ラッシュが自分から記録官に預けたものだった。灯りの小さな光の中で、クロニカの指が、何度も同じところをなぞっていた。


 地図の「七六〇〇」の、「七」。


 払いが、わずかに上へ跳ねている。


「冷えますよ」と俺は声をかけた。


 クロニカは、びくりと肩を揺らした。それから、地図を手のひらで覆った。


「……なんでもありません」


 なんでもない人は、あんな顔をしない。


 色の白い、記録院の書記。


 クロニカは、記録院から来た。


 あの跳ねる「七」を、クロニカは、前にもどこかで見たことがあるのかもしれない。


 俺は、何も聞かずに、自分の天幕へ戻った。


 聞けば、答えなければならなくなる。


 まだ、そのときじゃない気がした。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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