第14話 先生の七
六千を発つ前に、クロニカが俺の天幕に来た。
まだ暗かった。灯りの小さな火が、帳面を抱えたクロニカの顔を下から照らしていた。
「ゆうべは、聞かないでくれて、ありがとうございました」
「……いえ」
「でも、聞いてください。私が自分から話すと決めたので」
クロニカは天幕の中に膝をついて、地図を広げた。
七六〇〇の、七。払いが、わずかに上へ跳ねている。
「この七を書く人を、私は一人だけ知っています」
◇
「私は、記録院の門の前に置かれていた子どもです」
クロニカは、地図から目を離さずに言った。
「籠に入って、書き損じの紙にくるまれていたそうです。記録院は孤児院じゃないので、本当なら町の施療院に回されるはずでした。そのとき、若い書記が一人、拾って帰って、書庫の隅で育てると言い張ったそうです。北の地方への、長い出張から戻ってきたばかりの書記だったと聞きました」
「その人が」
「はい。字を教えてくれたのも、その人です。書き損じの紙の裏に、一字ずつ。私は、字を覚える前に、紙の匂いを覚えました」
クロニカは、指で、地図の七の払いをなぞった。
「七を習った日のことは、よく覚えています。先生は、自分で一字書いてみせて、それから言いました。『わたしの七は跳ねる。悪い癖だ。お前には移すな』と。それから、払いをまっすぐ下へ抜く書き方を、何度も何度も練習させられました」
――私の七は、跳ねません。
四千八百で、クロニカはそう言った。
自分の字を見せたのは、自分が違うと言うためじゃなかった。誰の癖なのか、そのときにはもう、わかっていたのだ。
「先生の名前は」
クロニカは、少しだけ黙った。
「パリム。今は、記録院の書記長です。王の書状の清書を、二十年近く任されています」
◇
俺は、手帳を開いた。
自分の字を、順番に読んでいく。四千八百の天幕で、クロニカが言ったこと。最初の書状が書かれた日、書記長は王都を留守にしていた。その晩には戻った、とも聞いたという。二通目の書状の七は跳ねていた。
そして、エコーの話。記録院の書記を名乗る、色の白い男。
「パリムさんは、色の白い人ですか」
「……はい。背が高くて、色が白くて。声は、穏やかです」
頭巾の男の声は、穏やかだった。ラッシュはそう言った。
「年は」
「四十を少し過ぎたくらいです」
二十年前に若かった男が、今そのくらいになる。
クロニカは、俺の手帳の上の字を、黙って目で追っていた。並べれば、俺が何を考えているのかはわかる。記録官なのだから。
「先生が、二十年前の討伐隊にいたという話は、聞いたことがありません」とクロニカは言った。「山の話をするのも、聞いたことがない。ただ」
「ただ」
「冬になると、左の足首をかばって歩きます。昔くじいたのが、寒いと痛むのだと」
書き屋は、上でもう足をくじいとった。下りは、ずっとアンカーが背負った。
ハーケンの声が、耳の奥でした。
「……それと、北の書庫には、絶対に入りませんでした。ヴァルテン山の記録がしまってある棚です。私が小さいころ、一度だけ、あの山の記録を読みたいと言ったことがあります。先生は、あそこは読まなくていい、と言いました。怒ってはいませんでした。ただ、それきり、その話はしてくれませんでした」
クロニカは、地図を畳んだ。
「今度の記録官に私を推したのも、先生です」
天幕の外で、誰かがアイゼンの紐を締める音がした。
「推されたとき、うれしかったんです。先生が、ようやく私を一人前と認めてくれたと思って」
クロニカの指先が、帳面の角を、きつく押さえていた。
「四千八百で、あの七を見たとき、すぐにわかりました。わかって、黙りました。ザイルが切られたことは書かなかったのに、あの七のことも書かなかった。前のは、書けば読まれるからです。あとのは、書けば先生が疑われるからです。理由が、違います」
クロニカは顔を上げた。
「記録官として、してはいけないことをしました」
◇
何か言うべきだと思った。
でも、うまい言葉は出てこなかった。俺は山の言葉しか知らない。
「親父は、二十年黙っていました」と、結局、俺は言った。「ハーケンさんをかばって。かばったせいで、親父は臆病者のまま死んだ。黙るのが悪いことだとは、俺には言えません」
「……」
「でも、クロニカさんは、十日足らずで話しました。親父より、ずっと早い」
クロニカは、少しだけ笑った。泣き出す前みたいな笑い方だった。
「比べる相手が、おかしいです」
「山では、比べる相手が親父しかいないので」
クロニカは、ふっと息を吐いた。白い息が、灯りの上で揺れた。
それから帳面を開いて、新しいページに書きはじめた。
「何を書いてるんですか」
「私のことです。四千八百にて、地図の七が書記長パリムの手であると気づきながら、記録せず。六千にて、案内人に申し出る」
インクが、ペン先でもったりしていた。六千では、インクはもう凍りかけている。クロニカは、ペン先を息で温めながら、一字ずつ押し出すように書いていった。
「そこまで書かなくても」
「書きます。記録官が自分のことだけ書かなかったら、ほかの全部が信用されません」
◇
朝飯のあと、ラッシュに一つだけ聞いた。
「村を出るなと言われてましたよね。どうやって出たんですか」
ラッシュは、雪を溶かした鍋から顔を上げた。
「……使いの男が来たんだ。王の書状があるって。ラッシュ殿を連れて記録官のところへ急げ、と命じられてるって。宿の親父も、ギルドの所長も、それで何も言えなかった」
「急げ、と」
「ああ。あいつ、四日で上がるって言い張った。止めたんだぜ、これでも。俺は二日で四千八百まで上がって、ひどい目にあったからな」
ラッシュは、きまり悪そうに鼻をこすった。
「……止めたのは、そのときが初めてだ」
俺は手帳に書きとめた。
それから、四千八百の夜に書いた自分の字を、指でなぞった。
燃料に細工をした者と、書状を書いた者は、同じとはかぎらない。
読み違えていた。
あの書状は、ラッシュを隊に加えるためのものじゃない。村から出すための通行証だった。王の書状があれば、村に足止めされていた元勇者が、堂々と山に入れる。使いの男には、急げと命じておく。燃料が尽きて俺たちが村へ引き返していても、まだ山の上にいても、関係ない。加護の残っているラッシュは、地図を持って、誰より早く七千六百へ登れる。
隊が下りていれば、なおいい。七千六百には、誰もいない。
「同じ人です」とクロニカが言った。俺の手帳を、横からのぞいていた。「燃料も、ザイルも、書状も。案内人を遅らせて、勇者を急がせる。全部、同じほうを向いています」
「俺も、そう思います」
「なぜ、そこまでして」
俺は、天幕の外を見た。
白い斜面の向こうに、七千の稜線があった。
「二十年、勇者がこの山に来なかったからだと思います」と俺は言った。「七千六百に何かが埋まっていても、誰も行かなければ、埋まったままでよかった。でも、今度の勇者の案内人は、アンカーの息子だった。俺は、親父の石を数えながら登る。七千六百に着けば、親父が積んだ石の前で、必ず足を止める」
「だから、あなたを外させた」
「外したのに、俺が戻ってきた。だから、急がせた」
クロニカは、しばらく黙っていた。
「ラクナは、先生なんでしょうか」
「まだ、わかりません」と俺は言った。「わかってるのは、その人が、七千六百に埋まっているものを、二十年怖がってきたことだけです」
◇
六千三百までは、短い登りだった。
短いのに、長かった。一歩出すごとに、三回息を吸う。それでも足りない気がする。前を行くガルドの背中が、少しずつしか大きくならない。
ガルドは、ずっとエコーのすぐ後ろを歩いていた。見張りというより、壁みたいだった。
エコーは、一度も振り返らなかった。燃料の壺の代わりに、皆の天幕を二張り分、黙って背負っていた。
「なあ、ケルン」
ブラフが、息を切らしながら追いついてきた。靴を履いた足で、雪を一歩ずつ踏んでいる。
「オレ、気づいたんだけどさ」
「何をですか」
「サンダルって、楽だったんだよな。脱ぎ履きが」
「……」
「いや、だから、靴は偉いって話をしようとしてたんだよ。今」
サナが、後ろで小さく吹き出した。
六千を越えて誰かが笑ったのは、初めてだった。
◇
六千三百の雪の棚に、ケルンがあった。
親父の石だ。苔はない。この高さでは、苔も生えない。黒い石が、雪の中から頭を出していた。
数えた。
八つ。
ここまで、どのケルンも八つだった。七つは、親父が登りに積んだ。八つ目は、迎えに戻ったときに乗せた。
俺は、背負子から石を一つ出して、九つ目に乗せた。三千三百でクロニカが十個目を乗せてから、俺も、通るケルンには一つずつ足すことにしていた。
振り返ると、ラッシュが、俺の手元を見ていた。
何か言うかと思った。言わなかった。ラッシュは足もとの雪をしばらく掘って、拳くらいの石を一つ見つけると、黙って、俺の石の上に乗せた。
十。
夕方、天幕の中で、その日の記録をつけた。
時刻と、高さと、天気。誰が何をしたか。ラッシュが石を乗せたことも、書いた。
書き終えて手帳を閉じかけたとき、横で帳面を広げていたクロニカが、俺の手帳をのぞきこんだ。
「ケルンさん」
「はい」
「この十五時、二回書いてあります」
俺は、自分のページを見た。
「十五時、六千二百。曇り」
「十五時、六千三百。曇り、風やや強し」
同じ時刻が、二行並んでいた。
書いたことを、覚えていなかった。
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