第15話 七千
同じ時刻を、二回書く。
それだけのことだ。疲れていれば、村でもやる。宿の勘定を二回つけて、親父に笑われたこともある。
でも、ここは六千三百だった。
空気が薄いと、体より先に、頭が鈍る。鈍った頭は、自分が鈍っていることに気づかない。親父の手帳の七千から上の字が乱れていたのは、指が凍えていたからだけじゃない。
俺は、二行並んだ十五時を、しばらく眺めていた。
「頭は、痛いですか」とクロニカが聞いた。
「少し」
「少し、と書いておきます」
「書かなくても」
「書きます。ケルンさんが、そう教えたので」
◇
夜中に目が覚めた。
頭の奥が、鈍く脈を打っていた。こめかみに指を当てると、心臓と同じ速さで痛みが来る。
水を飲んだ。薬を一つ飲んだ。それから、もう一度眠ろうとして、眠れなかった。
朝になっても、痛みは引いていなかった。
天幕を出ると、サナが待っていた。
「ケルンさん。そこに立って、つま先とかかとをくっつけて、まっすぐ十歩、歩いてください」
「……誰に習ったんですか、それ」
「ケルンさんにです。村を出る前の晩に、皆に教えてくれましたよね」
そうだった。
雪の上に、まっすぐ線を引くように、歩いた。
一歩、二歩。三歩目で、体が少し右へ流れた。四歩目で戻した。五歩目で、また流れた。
十歩、歩ききった。歩ききったけど、線の上ではなかった。
サナは、黙って俺を見ていた。
「下ろします」とサナが言った。
「大丈夫です。一晩休めば」
「山の上では、あなたの言うことを聞く。そういう条件でしたよね」とサナは言った。「あなたは、ふらついたらすぐ下ろせ、と言いました。三千六百で、私が記録官さんを下ろそうと言ったとき、あなたは、すぐにうなずいた」
「……」
「回復魔法では、これは治りません。私が、いちばんよく知ってます」
サナの声は、少しも震えていなかった。三千八百の天幕で、ブラフの指を前に泣きそうな顔をしていた人と、同じ人だとは思えなかった。
「下ろすのは、何メートルですか」とサナが聞いた。
俺は、答えた。
「……六千まで。一晩寝て、治っていなければ、五千七百まで」
「誰と」
「ガルドさんと」
ガルドは、もう背負子をほどいていた。
◇
下りる前に、隊の決まりを紙に書いた。
俺が戻るまで、誰も六千三百より上に行かない。水は一人一日二リットル半。本当はもっと要るが、燃料で作れるのは、それが精一杯だ。食べられなくても、何か口に入れる。頭が痛い者、息が苦しい者は、すぐ記録官に言う。記録官は、一時間ごとに全員の顔を見る。
「これを、一時間ごとに読み上げてください」
クロニカは、紙を受け取って、うなずいた。
「わかりました」
それから、俺は背負子の底から、細い棒を一本取り出した。木の軸に、黒い芯が通っている。
「これ、使ってください」
「石墨……」
「六千から上は、インクが凍ります。ゆうべ、ペン先を息で温めてましたよね。ここから上は、それでも出なくなる」
「でも、これはケルンさんの」
「親父の芯の残りを、削り直したものです。俺のは、もう一本あるので」
クロニカは、石墨を両手で受け取った。ペンを帳面の間にしまって、石墨で一行書いた。
七が、まっすぐ下に抜けていた。
「書きやすいです」とクロニカは言った。
◇
六千まで、ガルドと下りた。
三百下りただけで、息が楽になった。頭の脈も、少し遠くなった。
六千の雪の棚で、ガルドが天幕を張った。手際がよかった。四千八百で、使いの男を担いで三千三百まで下りた人だ。
夜、ガルドが、天幕の入口に座って、上を見ていた。
「エコーのことか」と俺は聞いた。
「……ああ」
ガルドは、しばらく黙っていた。
「伝令は、聞いたことをそのまま運ぶのが仕事だ。足し算も引き算もしない。あいつは、それが騎士団で一番うまかった」
「……」
「だから、酒場で聞いたことを、そのまま信じた。疑うってことを、俺たちは教えなかった」
ガルドは、自分の大きな手を見下ろした。
「俺は、四千八百で、自分の親指の跡のことを、お前に責められると思っていた。責められなかった。だから、あいつのことも、責めるなと言うつもりはない」
「責めてません」
「わかってる」とガルドは言った。「それが、こたえるんだ」
◇
朝、頭はまだ少し重かった。
雪の上を、つま先とかかとをくっつけて、十歩、歩いた。まっすぐだった。
「もう一晩だ」とガルドが言った。
「まっすぐでした」
「一度だけな」とガルドは言った。「三千百で、お前は記録官殿を二日休ませた。一晩で戻せるなら、お前はそうしていたはずだ」
そのとおりだった。
次の朝、頭は痛くなかった。十歩、歩いた。まっすぐだった。昼にもう一度、歩いた。まっすぐだった。
ガルドが、それを黙って見てから、背負子を担いだ。
「戻るぞ、案内人」
六千三百に戻ると、クロニカが、天幕の前で紙を読み上げていた。
「――記録官は、一時間ごとに全員の顔を見る。以上です。ブラフさん、顔」
「さっき見たろ」
「一時間たちました」
「わかったよ」
ブラフが、天幕から顔だけ出した。それから、俺に気づいた。
「ケルン! 助けてくれ、この人、本当に一時間ごとに来るんだ。夜中もだぞ」
「決まりなので」
「お前が書いたんだろ!」
クロニカは、俺の顔をまっすぐ見た。一時間ごとに全員の顔を見る人の目だった。
「顔色、戻りましたね」
「戻りました」
「では、書いておきます」
◇
次の日、六千六百へ。その次の日、七千へ。
一日三百から四百。七千から上では、寝る高さを上げるより先に、上にいる日数を減らすことを考える。体は、もう慣れない。慣れるより先に、少しずつ削れていく。上にいるだけで、毎日、何かが減っていく。
燃料の勘定は、クロニカがやった。
「高いところのために取っておいた最後の一壺と獣脂は、六千までで使い切りました。リブラ所長の壺は、残りが一つと少しです。七千で一晩、七千二百で一晩、七千六百で二晩。山頂へ向かう日の水は、前の晩に作っておく。下りに一晩分。……それで、ちょうどです」
「ちょうど、ですか」
「ちょうどです。余りは、ありません」
「なら、それで行きます」
俺は、クロニカの数字を自分でも一度、計算し直した。
合っていた。
計算し直したのは、クロニカの数字を疑ったからじゃない。自分の頭を疑ったからだ。
◇
六千六百から七千のあいだに、小さな石の山が、いくつもあった。
膝にも届かない、三つか四つの石。親父の積み方だった。百歩ごとくらいに、間を詰めて積んである。道しるべにしては、近すぎる。なぜなのか、わからなかった。数だけ、手帳に書いた。
七千の稜線に出たのは、昼過ぎだった。
風が、いきなり来た。西からだ。体ごと持っていかれそうになって、ピッケルを雪に突いた。
稜線の向こうが、見えた。
ずっと上のほう、白い雪の頂の上に、黒いものが立っていた。
塔だった。
黒い石を積み上げたような、細い塔。窓はない。雪も積もっていない。そこだけ、山が欠けたように黒かった。
「……あれが」とサナが言った。
「魔王城だな」とラッシュが言った。
三日で着く、と言っていた場所だ。
ラッシュは、それきり何も言わなかった。黙って、塔を見上げていた。三日で着くと言った自分のことを、思い出している顔だった。
俺は、塔から目を下ろした。
稜線を少し登った先、雪の斜面のふくらみに、石が積んであるのが見えた。
ほかのケルンより、ずっと大きい。人ひとり分ほどの長さに、低く、平たく積んである。
道しるべの積み方じゃなかった。
あれは、墓の積み方だ。
エコーが、俺の横に立っていた。いつのまにか、ガルドの前に出ていた。
「……あれか」とエコーが言った。
「七千二百です」と俺は言った。
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