第16話 七千二百
近くで見ると、石は思っていたより小さかった。
どれも、片手で持てるくらいの大きさだった。七千二百の斜面には、大きな石はない。あるのは、雪の下から掘り出せる、凍った小石だけだ。
それを、人ひとり分の長さに、低く、隙間なく積んである。
一人で、一晩で。
背負っては、もう登れず、下ろせず。
親父の手帳の字を、俺は思い出していた。
◇
墓の頭のほうに、平たい石が一枚、立ててあった。
表面に、何か刻んである。風に二十年削られて、線がほとんど消えかけていた。
「クロニカさん」
クロニカが、石の前にしゃがんだ。手袋を外して、指先で線をなぞる。すぐに指が白くなった。それでも、もう片方の手に替えて、なぞり続けた。
「ピッケルの先で、引っかいた字です」とクロニカは言った。「深さが、ばらばらです。一度に刻んだんじゃなくて、何度も同じ線をなぞって、深くしてある」
「読めますか」
「読めます」
クロニカは、手袋をはめ直してから、言った。
「グラート。七千二百にて。……それから、もう一行。これは、字が小さいです」
クロニカは、石に顔を近づけた。
「よく、背負わせてくれた」
風の音が、少し遠くなった気がした。
よく、背負わせてくれた。
背負われた人に向けた言葉だった。親父は、背負った人に礼を言っていた。
◇
エコーは、墓の前に立ったまま、動かなかった。
ガルドが、その少し後ろに立っていた。サナとブラフは、何も言わずに雪の上に膝をついた。ラッシュは、離れたところで、背負子を下ろしたまま立っていた。
「……足が速いのは、親父ゆずりだって言われた」とエコーが言った。誰に話しているのでもない声だった。「親父が山へ行ったのは、俺が五つのときだ。覚えてるのは、肩車してもらったことと、走るのが速かったことだけだ。かけっこで、一度も勝てなかった」
エコーは、墓の石の一つに手を置いた。
「七千二百で、親父は、背負われたのか」
「はい」と俺は言った。「親父の手帳には、そう書いてありました」
「速い男が、背負われたのか」
エコーは、笑ったような、泣いたような顔をした。
それから、雪を掘りはじめた。手袋のまま、黙って。拳ほどの石を一つ掘り出すと、墓のいちばん上に、そっと乗せた。
一つ乗せると、また掘った。もう一つ乗せた。
「エコーさん。体が冷えます」
「わかってる」
三つ目を乗せたところで、ガルドがエコーの肩をつかんだ。
「もういい。三つで、十分だ」
エコーは、しばらく動かなかった。それから、ガルドの手を振りほどかずに、立ち上がった。
ガルドが、自分でも石を一つ掘り出して、乗せた。サナが乗せた。ブラフが乗せた。クロニカが乗せた。俺も、乗せた。
ラッシュだけが、まだ、離れたところに立っていた。
エコーが、ラッシュのほうを見た。
「……置けよ」
ラッシュの肩が、小さく動いた。
「俺に、そんな」
「お前、六千からずっと、そういう顔してるだろ」とエコーは言った。「知らなかった、って顔だ。俺もだ。知らなかった同士だ。置けよ」
ラッシュは、しばらく足もとを見ていた。
雪を掘って、石を一つ乗せた。
◇
その夜、七千二百で天幕を張った。
誰も、ほとんど食べなかった。七千を越えると、腹は減っているのに、口に入れたものが喉を通らない。俺は皆に、甘い干し果物を一つずつ配って、目の前で食べるまで見ていた。
「ケルン、お前、母ちゃんか」とブラフが言った。
「案内人です」
「母ちゃんだろ、それ」
ブラフは文句を言いながら、干し果物を三回に分けて噛んだ。
夕方の記録をつけるために、天幕の外へ出た。
西の空に、細い雲が出ていた。刷毛で掃いたような、高い、白い筋だ。夕日を受けて、端のほうがかすかに赤い。
親父の手帳の、天気の頁の最初のほうに書いてあった。
西の空の高いところに、掃いたような雲が出たら、二日か三日で崩れる。
手帳を開いて、自分の字で書いた。
「十八時、七千二百。晴れ、風弱し。西の空高く、筋雲。崩れは、二日か三日のうち。早ければ、山頂へ向かう日の昼すぎ」
明日、七千六百。一日休んで、その次の夜中に、山頂へ向かう。
山頂へ向かう日の午後に、嵐が来る。
正午に引き返せば、間に合う。正午を過ぎれば、間に合わない。
◇
天幕に戻ろうとしたとき、エコーが、雪の上に座っていた。墓のほうを向いて。
「冷えますよ」
「……もう一つ、話していないことがある」とエコーは言った。
俺は、隣にしゃがんだ。
「酒場の男は、最後にこう言った。案内人の息子は、七千六百の石の山に必ず寄る。そこで足を止めさせるな。石には、指一本触らせるな、と」
「石に」
「そのときは、親父の汚名をすすぐ証拠を消しに行くのを止めろって意味だと思った」とエコーは言った。「でも、違うんだな。消したかったのは、あいつのほうだ」
エコーは、膝の上で、手袋の指を一本ずつ握った。
「王都で、全部話す。顔は見えなかった。でも、声と、手は覚えてる。酒の杯を持つ指が、白くて長かった。インクで、中指の横が黒くなってた。書く人間の手だった」
「書きます」と、後ろでクロニカの声がした。
いつのまにか、天幕の入口に、石墨を持ったクロニカが立っていた。
「今の話、もう一度、最初からお願いします。一字も落としたくないので」
エコーは、少しだけ笑った。
「記録官殿は、本当に何でも書くんだな」
「書かないと、忘れるので」
それは俺の台詞だった。
◇
寝る前に、ラッシュが俺の天幕に顔を出した。
「明日、七千六百だろ」
「はい」
「包みは、俺が掘る」
俺は、ラッシュの顔を見た。
「そう言われたからじゃない」とラッシュは言った。「俺が掘らなきゃ、俺は一生、あの男の言ったとおりに動いたままだ。掘って、そのまま、お前に渡す。皆の前でだ」
「わかりました」
「……それと」
ラッシュは、何か言いかけて、天幕の布を握った。
「七千二百の墓。あれ、お前の親父が一人で積んだんだよな」
「はい」
「一晩で」
「たぶん」
ラッシュは、長いこと黙っていた。
「俺は、お前を三年、荷物持ちだと思ってた」とラッシュは言った。「荷物持ちの息子だと思ってた」
それだけ言って、ラッシュは自分の天幕へ戻っていった。
俺は、灯りを消して、横になった。
天幕の布の向こうで、風が少しずつ強くなっていた。西からだった。
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