第17話 七千六百
七千二百から七千六百まで、四百メートルを、一日かけて登った。
四百は、村なら朝飯前に登る高さだ。ここでは、一日かかる。
十歩歩いて、立ち止まる。ピッケルにもたれて、息を吸う。吸っても、吸っても、胸の底まで届かない。また十歩。前を行くガルドの背中が、少しも近づかない。振り返ると、さっき出てきた天幕が、まだすぐ下に見える。
ラッシュとサナとブラフは、俺たちより少し楽そうだった。加護の残っている人の歩き方だ。それでも、ラッシュはもう軽口を叩かなかった。
昼すぎに、ブラフが一度、雪の上に座り込んだ。
「……ちょっと、休憩」
「どこか痛みますか」
「痛くはない。ただ、なんで俺、こんなとこにいるんだろうって、急に思った」
「それは、高山病じゃないです」
「じゃあ何だよ」
「正気です」
ブラフは、雪の上で少し笑って、それから立ち上がった。
◇
七千六百は、大きな岩の陰にあった。
稜線から少し下がった、雪の棚。北と西を、家ほどもある黒い岩がふさいでいて、そこだけ風が弱い。天幕を張れる平らな場所は、四張りぶんくらいしかない。
二十年前も、ここに天幕を張ったのだ。
岩の根元に、ケルンが二つあった。
一つは、道しるべの積み方だった。腰くらいの高さの、細い塔。下から順に、だんだん小さな石を乗せていく。親父の積み方だ。三千から、ずっと見てきた。
もう一つは、七千二百で見たのと同じ積み方だった。低く、平たく、人ひとり分の長さ。七千二百のものより、少しだけ大きかった。
平たい石が一枚、頭のほうに立ててある。
クロニカが、しゃがんで、指でなぞった。
「グロリオス」
それだけだった。七千二百の石のような、二行目はなかった。
◇
道しるべのほうのケルンを、数えた。
八つ。
七つは、親父が登りに積んだ。八つ目は、迎えに戻ったときに乗せた。
親父は、ここまで戻ってきた。一人で。
ここで勇者を見つけて、間に合わなかったことを知って、隣に石を積んだ。そして、自分の道しるべに、八つ目の石を乗せた。
それから、下りた。
どんな気持ちで下りたのか。手帳には、一行しか書いていない。戻った。間に合わなかった。石を積んだ。
俺は、背負子から石を一つ取り出した。
村の、親父の墓の横で拾った石だった。出発の朝に、背負子の底に入れておいた。三千からずっと、足す石は、その場で拾ってきた。でも、ここの分だけは、村から持ってきたかった。
九つ目に、乗せた。
石は、少しだけ傾いて、それから落ち着いた。
「……親父」
声に出したのは、それだけだった。
後ろで、誰も何も言わなかった。
◇
グロリオスの墓にも、皆で石を乗せた。
ラッシュは、最後に乗せた。先代の勇者の墓に、勇者でなくなった男が、石を一つ。
乗せてから、ラッシュは立ち上がって、道しるべのケルンのほうを向いた。
「ここだな」
「はい」
大きな岩の陰に、案内人が登るときに積んだ石の山がある。
ラッシュが聞いた言葉と、目の前のものが、同じだった。
「皆、見ててくれ」とラッシュは言った。
◇
掘る前に、俺は一つだけ頼んだ。
「上から一つずつ、下ろしてください。下ろした順に、雪の上に並べて。あとで、同じ順に積み直します」
「……わかった」
ラッシュは、九つ目の石を、両手で下ろした。俺がさっき乗せた石だ。雪の上に置く。
八つ目。親父が迎えに戻ったときの石。
七つ目。六つ目。五つ目。
石は、下へいくほど大きくなる。四つ目と三つ目は、ラッシュが両手で抱えて、やっと動かせる重さだった。凍りついていて、ピッケルの柄で根元を叩いて、少しずつ浮かせた。残った二つは、抱えても、びくともしなかった。
「急がなくていいです」と俺は言った。「七千六百で汗をかくと、夜に凍えます」
「……わかってる」
一番下の二つは、大岩の根元の、平たい岩の上に据えてあった。
その、大岩に面した側に、拳ほどの小石がいくつも詰めてあった。ほかの石と違って、凍った雪で、隙間なく固めてある。
ラッシュが、ピッケルの先で、小石を一つずつかき出した。
奥に、暗い隙間があった。一番下の石と、大岩の根元とのあいだ。手が一本、やっと入るくらいの。
ラッシュは、手袋の手を、隙間に差し入れた。
しばらく、探るように動かしていた。それから、動きが止まった。
引き出されてきたのは、黒い、油を染ませた布だった。
布にくるまれた、四角いもの。麻紐で、十文字に縛ってある。紐は、凍って固くなっていた。
ラッシュは、それを両手で持ち上げた。
しばらく、持ったまま動かなかった。
「案内人には、絶対に見せるな」とラッシュは言った。誰に言うともなく。「そう言われた」
膝をついたまま、両手で、俺に差し出した。
「だから、見せる」
◇
包みは、思っていたより軽かった。
俺は、それを開けなかった。
「クロニカさん」
クロニカが、顔を上げた。
「記録は、記録官に」
クロニカは、包みを受け取った。両手で、雪にも触れさせないように。
「開けるところを、全員で見てください」とクロニカは言った。声が、かすれていた。「開けた者、立ち会った者、時刻と場所。全部、書きます」
七千六百、大岩の陰、十六時十分。立ち会った者、七名。
クロニカは石墨でそう書いてから、皆に帳面を回した。一人ずつ、名前を書いた。ブラフは、手袋のまま書いて、字がひどく大きくなった。ラッシュは、自分の名前の横に、何も肩書きを書かなかった。エコーは、少し迷ってから、名前だけ書いた。
帳面が戻ってくると、クロニカは、紐をほどいた。
凍った麻紐は、指ではほどけなかった。俺が小刀を渡した。クロニカは、紐の結び目から指一本離れたところを、切った。
「結び目は、残しておきます」とクロニカは言った。「誰が結んだのか、あとで調べられるかもしれないので」
油布を、一枚ずつ開いていく。
三重に巻いてあった。いちばん内側の布をめくると、革の表紙の帳面が一冊、出てきた。
それと、もう一つ。
指の長さくらいの、細い棒。木の軸に、黒い芯が通っている。芯は、根元近くまですり減っていた。
俺は、それを知っていた。
俺が今使っているのと、同じ形だ。俺がクロニカに渡したのと、同じ形だ。村の、うちの家で、親父が削っていたのと、同じ。
「……親父の石墨です」
◇
クロニカは、帳面の表紙を開いた。
最初のページには、一行だけ書いてあった。
石墨の、太い、角ばった字だった。親父の字じゃない。
クロニカは、声に出して読んだ。
「アンカーへ」
それから、少し間を置いて、続けた。
「お前は、必ずここに石を足しに来る。だから、ここに置く」
俺は、雪の上に並べた石を見た。
八つ目の石。
親父は、ここに来た。石を足しに。
足したのは、いちばん上だった。
いちばん下は、見なかった。
大岩の側に回りこめば、上の石を一つも下ろさなくても、手の届くところだったのに。
知らなければ、誰も、石の根元に手を差し入れたりはしない。
親父は、この石の山の前に立っていた。二十年前に、たぶん、今の俺と同じ場所に。
そして、上に一つ乗せて、帰ったのだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「おもしろい」「続きが読みたい」と思っていただけたら、ブックマークと、下の☆☆☆☆☆からの評価で応援していただけると、とても励みになります。




