第18話 グロリオスの手記
石を、順番どおりに積み直した。
下ろしたのと逆の順で。九つ目に、俺の石。積み終えると、ラッシュが、雪の上に残っていた小さな石を一つ拾って、十番目に乗せた。
何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。
◇
手記は、クロニカの天幕で読んだ。
七人入るには狭すぎた。でも、誰も外にいるとは言わなかった。膝を抱えて、肩をくっつけあって、灯りを真ん中に置いた。息だけで、天幕の中が少し暖かくなった。
「全部、声に出して読みます」とクロニカは言った。「途中で止めません。止めたら、たぶん、続けられないので」
◇
「五千。アンカー、雪の割れ目を、ピッケルで突いて探す。一歩ごとに。遅い、と記録係が言う。俺も、そう思った。そのとき思ったことを、恥じる」
「六千。インクが凍った。アンカーに石墨を借りる。返しそびれている」
「六千五百。シュルントが落ちた。アンカーが綱を張っていた場所の、外だった。綱の外へ出るなと、アンカーは朝に三度言った。シュルントは、聞かなかった。俺も、止めなかった」
「同じ夜。記録係が、俺の天幕に来て言う。ここで引き返せば、シュルントの死は無駄になる。勇者の名は記録に残らない、と。俺は、それを誰かに言ってほしかったのだと思う」
クロニカの声が、少しだけ止まった。
「記録係の名を、ここに書いておく。記録院の若い書記、パリム。山の記録には、ラクナという筆名で名を残すと言う。記録に残るのは筆名でいい、本当の名は、記録を書く者には要らない、と。妙なことを言う男だ」
誰も、身じろぎしなかった。
クロニカは、ページをめくった。指は、震えていなかった。震えないように、帳面の端を、強く押さえていた。
「七千二百。落石。グラートが頭を打つ。アンカーが背負う。夜、グラート、死す。アンカーが一人で外に出て、石を積む。朝まで、石の音がしていた。俺は天幕で、眠った。眠れたことを、恥じる」
エコーが、膝の上で両手を組んだ。
「七千四百。西から嵐。記録係が、夜のうちに一人で外へ出て、下ろうとした。暗い中で、足をくじいた。アンカーが探しに出て、背負って戻った。記録係は、一晩中、泣いていた」
「七千六百。嵐、続く。二日、動けず」
「アンカー、一度目。引き返しましょう、と言う。嵐の前に」
「アンカー、二度目。記録係の足を見て、言う。この足では、上には行けない。下ろさなければ、死ぬ」
「アンカー、三度目。今朝。晴れた。アンカーは、晴れたからこそ下りましょう、と言った。次に崩れたら、もう下りられない、と」
「俺は、聞かなかった。アンカーに命じた。ハーケンと記録係を連れて、下りろ。俺は、一人で行く」
「記録係には、この帳面を置く場所を言っておく。アンカーが迎えに戻ったら、あいつに伝えろ、と。帳面は二つあれば確かだと、アンカーがいつも言うので。一つは記録係の帳面、もう一つはこれだ。俺が戻らなければ、アンカーがこれを掘り出し、記録係が、どちらも王都へ届ける。あいつは記録係だ。書くのが仕事だ」
灯りの芯が、じじ、と小さく鳴った。
二つあれば確か。
支点は、二つ。
親父は、勇者にもそう言っていたのだ。そして勇者は、二つ目の支点を、記録係に預けた。
その支点が、二十年、外れていた。
アンカーが迎えに戻ったら、あいつに伝えろ。
親父は、記録係を背負って村まで下りて、一人で山へ戻った。記録係は、そのとき、村にいた。親父が支度をするのを、見ていたはずだ。
親父は、聞かされなかったのだ。
だから、七千六百で、いちばん上に石を一つ乗せて、帰った。
◇
手記は、そこで何ページか、空いていた。
次の字は、それまでよりずっと乱れていた。線が細く、ところどころ、紙に穴があくほど強く押しつけてある。
「城の門まで、百歩だった。門の前に、黒いものが立っていた」
「正午を、とうに過ぎていた。日が、西へ傾きはじめていた」
「アンカーの声が、聞こえた気がした。正午を過ぎたら、魔王が目の前にいても、引き返してください。村を出る前の晩に、酒場で、あいつはそう言った。皆が、笑った。俺も、笑った」
「引き返した。あれは、追ってこなかった。遅すぎた」
「七千六百まで、下りた。足が、もう動かない。指も、ほとんど動かない。この帳面を、石の根元の隙間から引き出して、これを書いている。書き終えたら、また押し込む。アンカーは、必ず迎えに来る。来れば、必ず、ここに石を足す」
ブラフが、鼻をすすった。サナが、ブラフの肩に手を置いた。
クロニカは、最後のページをめくった。
「アンカー」
「お前は、臆病者ではない」
「引き返す勇気がなかったのは、俺のほうだった」
「これを読んだ者は、王に伝えよ。案内人アンカーは、最後まで、正しかった」
その下に、名前があった。
グロリオス。
角ばった、太い字だった。最後の一画だけ、紙の端まで流れていた。
誰も、しばらく口をきかなかった。
◇
最初に動いたのは、ラッシュだった。天幕の入口の布を押しのけて、外へ出ていった。誰も止めなかった。
しばらくして、俺も外へ出た。ラッシュは、グロリオスの墓の前に立っていた。西の空の高いところで、刷毛で掃いたような雲が、夕日に赤く染まっていた。
「……正午を過ぎたら、魔王が目の前にいても」とラッシュが言った。「お前が、村で記録官に出した条件だ」
「親父の言葉です」
「知ってたら、笑わなかった。……いや、知ってても、たぶん、笑った。三日で着くと思ってたからな」
ラッシュは、墓の石を見下ろした。
「この人も、笑ったんだな。それで、百歩前で、引き返したのか」
日の沈んだあとの群青の空に、黒い塔がまだ見えていた。
「……俺は、引き返せるかな」
それは、俺に聞いたんじゃなかった。
◇
天幕に戻ると、クロニカが一人で、手記を写していた。
左に手記を開いて、右の帳面に、石墨で一字ずつ。行の頭を、指で押さえながら。
「今夜のうちに、ですか」
「今夜のうちに」とクロニカは言った。手を止めずに。「記録も、支点は二つです」
しばらくして、クロニカの手が、ある行の上で止まった。
記録院の若い書記、パリム。
クロニカは、その名前を、ゆっくり、一画ずつ写した。
「先生は、紙を燃やせない人なんです」と、クロニカは言った。「書き損じも、捨てません。全部、裏を使います。私に字を教えてくれた紙も、全部、先生の書き損じでした。記録院の書記は、書いたものは燃やすな、と最初に教わるんです。どんな記録でも、いつか誰かの役に立つから、と」
クロニカは、石墨を置いた。
「燃やせなかったんだと思います。だから、埋めたままにしておきたかった。誰の手も届かないところに。……ずっと、届かなければよかったのに」
誰に向けた言葉なのか、わからなかった。
たぶん、クロニカにも、わかっていなかった。
俺は、灯りの芯を少しだけ切って、その日の記録をつけた。
「二十時、七千六百。晴れ、風やや強し。西の空、筋雲、厚くなる。記録官殿、手記を写す」
クロニカの石墨の音は、夜中まで続いていた。
◇
次の日は、休む日だった。
朝、西の空の筋雲が、薄い膜のように広がりはじめていた。親父の手帳の、天気の頁にあるとおりだった。二十年前の頁にも、同じ空のあとに「七千四百。西から嵐」とあった。グロリオスの手記と、同じ日付だった。薄雲が空に広がって、夜、月のまわりに輪がかかったら、次の日のうちに崩れる。
昼前に、全員を集めた。
「今夜の零時に、ここを出ます。順調なら、朝の九時ごろに、城の前に着く。崩れるのは、たぶん明日の午後です。正午に引き返せば、嵐が来る前に、稜線を下りきれる」
「魔王が目の前にいても、だな」とラッシュが言った。
「倒しかけていても、です」
誰も、何も言わなかった。ゆうべ、皆で手記を聞いたあとだった。
「山頂へ行くのは、五人です。俺と、ラッシュさん、サナさん、ガルドさん、エコーさん。記録官殿とブラフさんは、ここに残ってください」
「私も行きます」とクロニカが言った。すぐに。「魔王討伐を記録するのが、王から私に与えられた役目です」
「記録官殿の役目は、記録を王都に届けることだと思います」と俺は言った。「グロリオス様の二つ目の支点は、王都に届かなかった。今度は、届けないといけない」
クロニカが、口を開きかけて、閉じた。
「俺たちが明日の夕方までに戻らなかったら、次の朝、二人で下りてください。俺たちを待たずに」
ブラフが、雪の上に座り込んだ。
「それ、二十年前と同じじゃねえか。下りろって命じて、上に行って」
「同じじゃないです」
「何が違うんだよ」
「俺は、正午に引き返すので」
ブラフは、俺の顔を、長いこと見ていた。それから、ため息をついた。
「……オレ、記録官殿と二人きりで、一日待つのか。一時間ごとに、顔を見られながら」
「決まりなので」とクロニカが言った。
「だよなあ」
サナが、くすっと笑った。
◇
午後、エコーが、俺の天幕に来た。
「明日、お前と同じ綱に入れてくれ」
外にいたガルドが、天幕の布をばさりとめくった。
「ならん。こいつは、お前の綱を切った男だ」
「だからです」とエコーは言った。ガルドのほうを見ずに。「俺が切った綱の代わりを、俺が持つ。それができなきゃ、俺は王都で、何を話しても嘘になる」
誰と誰を同じ綱で繋ぐかを決めるのは、案内人の仕事だ。体の大きさと、足の速さと、疲れ方と。それから、信用。
「俺が先頭。真ん中にラッシュさん。最後がエコーさん」と俺は言った。「エコーさんは、この隊でいちばん耳がいい。俺が後ろへ何か叫んだら、一度で聞き取る」
ガルドは、しばらく黙っていた。
「……復唱しろよ」とガルドは言った。エコーに。「案内人の言ったことを、全部。間違えるなよ」
「間違えない」とエコーは言った。「それだけは、一度も間違えたことがない」
◇
夜、まるい月が出た。そのまわりに、白い、大きな輪がかかっていた。
俺は、天幕の外で、獣脂の灯りに火を入れた。
エコーが、俺の綱の端を自分の腰に結んで、結び目を俺に見せた。正しい結び方だった。
クロニカが、二つのものを持ってきた。
一つは、毛布にくるんだ聖剣だった。
「王都まで、記録官が持ち帰ることになっています。でも、山頂までは、記録官の判断で、お預けします」とクロニカはラッシュに言った。「持って帰ってきてください。それも、記録するので」
ラッシュは、聖剣を両手で受け取って、鞘ごと背負子に縛りつけた。
もう一つは、薄い帳面だった。ゆうべの写しだ。どの七も、まっすぐ下に抜けていた。
「原本は、ここに。写しは、上へ」とクロニカは俺に言った。「ここが嵐で吹き飛ばされても、上の写しが残ります。上で何かあっても、ここの原本が残ります。支点は、離して取るものなんですよね。一つが抜けたとき、もう一つが同じように抜けないように」
俺は、写しを手帳と一緒に油布で包んで、懐に入れた。
ラッシュが、腰に、俺の綱を結んだ。
「……三年、お前の後ろを歩いてたんだな」
「後ろを歩いてたのは、俺です。荷物持ちは、一番後ろなので」
ラッシュは、何か言いかけて、やめた。
零時。
「いってらっしゃい」とクロニカが言った。
「正午な」とブラフが言った。「正午だぞ、ケルン。過ぎたら、オレ、記録官殿と二人で、山頂まで迎えに行くからな。靴履いて」
「来ないでください」
「行くからな!」
俺は、少しだけ笑って、前を向いた。
見送るのは、慣れていた。三年間、勇者の一行を、村の入口で、山の途中で、何度も見送ってきた。
見送られるのは、初めてだった。
月の輪の下に、黒い塔が立っていた。
俺は、最初の一歩を、雪に踏み込んだ。
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