第19話 正午
夜の稜線は、白と黒しかなかった。
月明かりの雪が白い。雪のない岩が黒い。その境目を、獣脂の灯りが、足もとだけ黄色く照らす。
右側、東へ落ちる斜面は、見えなかった。見えないほうがいい。見えたら、足がすくむ。
「稜線の、てっぺんを歩かないでください」と、出発してすぐ、全員に言った。「てっぺんから、西へ三歩下がったところを歩きます。俺の足跡から、外に出ないで」
「てっぺんのほうが、平らだぞ」とラッシュが言った。
「平らに見えるところは、雪の庇です」
俺は、ピッケルの先で、東のほうを指した。
「この山は、西から風が吹く。風が、稜線の雪を東へ押し出して、空中に張り出させる。下には、何もない。上から見ると、ただの平らな雪です。踏めば、庇ごと東の壁へ落ちます」
ラッシュは、しばらく東の暗がりを見ていた。
「……三歩、西だな」
「三歩、西です」
後ろで、エコーの声がした。
「稜線から西へ三歩。案内人の足跡から外に出るな」
復唱だった。ガルドの綱の組にも、聞こえるように。
◇
二時、七千七百。
四時、七千八百。
五時半、空の東の端が、うっすら明るくなった。灯りを消した。
六時、七千九百。
二時間に百メートルしか上がらない。それでも、遅くはなかった。この高さでは、それが普通の速さだ。
十歩歩いて、止まる。息を、八回吸う。また十歩。
ガルドが、一度、膝をついた。サナがすぐに隣へ行って、肩に手を置いた。魔法は使わなかった。使っても、この息苦しさは治らない。ガルドの水袋の口を開けて、水を飲ませただけだった。
「……行ける」とガルドが言った。
「つま先とかかと」とサナが言った。
ガルドは立ち上がって、雪の上を、十歩、まっすぐ歩いてみせた。
俺は、手帳に書いた。
「六時二十分、七千九百。晴れ。風、西、強まる。ガルド殿、膝をつく。歩行、まっすぐ」
字が、少しだけ、斜めになっていた。
◇
九時十分。
塔の前に、着いた。
近くで見ると、塔は思っていたより大きかった。黒い石を積み上げた、細く高い塔だった。どの石も、角が削れていない。風も雪も、ここだけは避けて通ったみたいだった。
門が、開いていた。
門の向こうは、雪のない、黒い石の庭だった。その真ん中に、誰かが立っていた。
人の形をしていた。人より、頭二つ大きい。鎧なのか、肌なのか、わからない黒いものに覆われていた。顔は、なかった。顔があるはずのところに、冬の夜空みたいな暗がりがあった。
「――また、来たか」
声が、した。
どこから聞こえたのかわからなかった。耳のすぐ横からのようでもあり、山の下のほうからのようでもあった。
「二十年ぶりだ。前のは、門の百歩手前で、背を向けた」
ラッシュの肩が、動いた。
「背を向けた者を、追う気にはならなかった。山が、片づけてくれるからな」
暗がりの奥で、何かが、かすかに光った。
「わたしが何者か、と聞いた男もいた。百年前にも、その前にも。答えてやろう。わたしは、引き返せなかった者の行き着く先だ。この山で、そういう者を、ずっと見てきた。見ているうちに、こうなった」
暗がりが、ラッシュのほうを向いた。
「お前は、三日で来ると言った口だな。匂いでわかる」
「……ひと月、かかった」とラッシュが言った。
魔王は、少しのあいだ、黙っていた。
暗がりが、ゆっくりとこちらを向いた。
「お前たちは、どこまで来る」
◇
俺は、門の外に残った。
最初から、そう決めていた。俺は戦えない。戦えない荷物持ちは不要だ、と酒場で言われた。それは、本当のことだった。
ただ、山の上では、戦えない人間にしかできない仕事がある。
時計を見ること。空を見ること。皆の顔を見ること。
エコーが、俺の隣に立った。俺とラッシュを繋いでいた綱をほどいて、輪にまとめて肩にかけていた。いつでも投げられるように。
「九時十五分」と俺は言った。
「九時十五分」とエコーが言った。
ラッシュが、聖剣を抜いた。
鞘から出た刃は、白かった。雪の白でも、月の白でもない。朝の光を集めて、自分で光っているような白だった。
ガルドが、盾を構えて、ラッシュの左に立った。サナが、その二人の後ろについた。
魔王が、動いた。
◇
速かった。
黒い腕が、横に薙いだ。ガルドの盾が、それを受けた。金属が鳴る音が、薄い空気の中で、奇妙に小さく聞こえた。ガルドの体が、三歩、後ろへ滑った。
ラッシュが、その隙に踏み込んだ。
聖剣が、魔王の脇腹を打った。黒いものが、火花のように散った。
魔王は、よろめきもしなかった。
もう一方の腕が、ラッシュを打った。ラッシュは石の庭を転がって、門の柱にぶつかって止まった。
「ラッシュ!」
サナが駆け寄って、手をかざした。青い光が、ラッシュの額の傷をふさいでいく。
「……効く」とラッシュが言った。
「傷には、効きます」とサナが言った。「息は、自分でしてください」
ラッシュは、笑ったのかもしれない。立ち上がって、また剣を構えた。
「十時」と俺は言った。
「十時!」とエコーが、門の中へ向けて叫んだ。
◇
ガルドは、三度目の打ち合いのあとで、膝をついた。
傷は、なかった。ただ、息が続かなかった。盾を持ち上げようとして、腕が上がらない。八千で、加護のない体で、重い盾を三度振り上げた。それだけで、限界だった。
「下がってください、ガルドさん」
ガルドは、首を振った。
「……盾を、置くな、と、教わった」
「山の上では、俺の言うことを聞く条件です」
ガルドは、しばらく俺をにらんでいた。それから、盾を引きずって、門の外まで下がってきた。
雪の上に座り込んで、俺の手帳をのぞいた。
「……書いてるのか、今」
「書いてます」
「何と」
「十時二十分。ガルド殿、盾を置かずに下がる」
ガルドは、苦しそうに、少し笑った。
◇
十一時。
ラッシュとサナだけになっていた。
ラッシュの動きは、はじめより遅くなっていた。加護があっても、八千は八千だ。剣を振るたびに、肩で息をしている。それでも、魔王の黒い体には、少しずつ傷が増えていった。肩に一つ。脇腹に二つ。そこから、黒い霧のようなものが、細く漏れていた。
「十一時半」
「十一時半!」
ラッシュが、大きく踏み込んだ。
聖剣が、魔王の胸を斜めに走った。
魔王が、初めて、後ろへ一歩下がった。
黒い霧が、胸の傷から、どっと噴き出した。魔王の膝が、わずかに沈んだ。
「――効いてる!」とラッシュが叫んだ。「サナ、もう一度だ、あと一太刀で――」
俺は、時計を見た。
十一時五十八分。
西の空を見た。
稜線の向こうに、灰色の壁が立ち上がっていた。ゆうべ月にかかっていた輪の、その先にあったもの。思っていたより、早い。午後と読んだ嵐は、もう、稜線のすぐ向こうまで来ていた。
十二時。
「正午です」
声が、思ったより小さかった。八千では、大声も出ない。
隣で、エコーが息を吸った。
「正午! 引き返す!」
伝令の声だった。門の中の石の庭に、まっすぐ届いた。
ラッシュの足が、止まった。
聖剣を振り上げたまま。魔王の、黒い胸の傷の前で。
◇
「ラッシュさん」
ラッシュは、振り返らなかった。
「あと一太刀だ」
「わかってます」
「倒せるんだ、今なら。ここで背を向けたら、俺は」
「ラッシュさん」
俺は、門の外から言った。
「百歩です」
ラッシュの背中が、こわばった。
城の門まで、百歩だった。正午を、とうに過ぎていた。
おととい、七千六百の天幕で、皆で聞いた言葉だ。
グロリオスは、百歩手前で引き返して、それでも遅すぎた。俺たちは今、門の中にいる。百歩の、その先まで来ている。ここから引き返して、やっと、グロリオスが引き返すべきだった時刻に間に合う。
「勇者に戻りたいんじゃなかったんですか」と俺は言った。
「……戻りたいさ」
「なら、引き返してください」
ラッシュは、聖剣を振り上げたまま、動かなかった。
魔王が、暗がりの顔で、ラッシュを見ていた。
風が、門の外から吹きこんできた。西からの、冷たい、湿った風だった。
ラッシュが、剣を下ろした。
肩ごしに、背負子に縛りつけた鞘へ、刃を戻した。
それから、背を向けた。
魔王に、背を向けて、門の外へ、歩いてきた。
「サナ、来い」とラッシュは言った。かすれた声だった。「引き返す」
サナが、ラッシュの後を追った。
ラッシュは、門の外で、自分の腰に、俺の綱を結び直した。手が、震えていた。寒さで震えているのか、そうじゃないのか、わからなかった。
「……結べたか」とラッシュが言った。
俺は、結び目を見た。
「結べてます」
◇
門の中から、声がした。
「――二人目だ」
振り返った。
魔王が、石の庭の真ん中に立っていた。胸の傷から、黒い霧を流しながら。
「二十年前の男は、百歩手前で背を向けた。お前たちは、刃が届くところで背を向けた」
暗がりの顔が、わずかに傾いた。
「前の男は、追わなかった。追わずとも、山が片づけた」
黒い足が、一歩、前へ出た。
「だが、この傷をつけた者を、山にくれてやる気はない」
俺は、西の空を見た。
灰色の壁が、もう稜線にかかっていた。
「下ります」と俺は言った。「全員。西へ三歩。俺の足跡から、外に出ないで」
「西へ三歩! 足跡から外に出るな!」とエコーが叫んだ。
俺たちは、塔に背を向けた。
後ろで、門の石が、ゆっくりと鳴った。
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