第20話 雪庇
嵐は、塔を離れて十分もしないうちに、稜線に乗った。
まず、音が来た。遠くで、山全体が低く唸るような音。それから、風。西から、横殴りに。雪の粒が、顔に砂みたいに当たった。
前が、見えなくなった。
自分のピッケルの先が、やっと見える。その先は、白い。上も下も、右も左も、同じ白だった。
登りの足跡は、風が消していた。
「止まらないで」と俺は言った。「止まると、冷えて動けなくなる」
「止まるな!」とエコーが後ろで叫んだ。
◇
白の中で、道を探す方法は、いくつかある。
風の向きを、頬で覚える。登りのとき、風は左の頬に当たっていた。下りなら、右だ。斜面の傾きを、足の裏で覚える。西へ三歩下がったところは、わずかに右へ傾いている。左へ傾いたら、稜線のてっぺんへ寄りすぎている。
それでも、白の中では、自分がまっすぐ歩いているのかどうか、わからなくなる。
七千九百を過ぎたあたりで、足が止まった。
岩が、あるはずだった。登りのとき、右手に見た、黒い大きな岩。そこから、稜線は少し左へ曲がる。
岩が、見えなかった。
通り過ぎたのか、まだなのか。
「エコーさん」
「ここだ」
「登りのとき、俺が何て言ったか、覚えてますか。七千九百のあたりで」
少し間があった。風の音だけがしていた。
「右手に黒い岩。岩を過ぎたら、稜線は左へ曲がる。左へ曲がっても、てっぺんに寄るな。西へ三歩。そこから三十歩で、雪の段がある。段は、横向きに下りろ」
エコーの声は、少しも迷っていなかった。
「全部、覚えてるんですか」
「お前は、登りのあいだ、四十二回、何か言った。全部、復唱した」とエコーは言った。「伝令は、聞いたことを、聞いた順に覚える。帰り道は、逆の順に言えばいい」
俺は、目を閉じて、息を吸った。
「岩は、まだです。もう少し下。続けてください。次は何ですか」
「岩の手前、二十歩。右足の下に、固い雪の段差。そこで一度、ピッケルを刺して確かめろ」
二十歩下りた。右足の下が、固くなった。
ピッケルを刺した。
その先に、黒い岩が見えた。
◇
岩を過ぎて、稜線が左へ曲がったところだった。
後ろで、ラッシュが叫んだ。
「上だ!」
振り返った。
白い嵐の中に、黒いものが立っていた。
稜線のてっぺんだった。俺たちの、すぐ上。三歩東。胸の傷から黒い霧を流しながら、白い雪の上に、まっすぐ立っていた。
平らな、雪の上に。
「伏せて! ピッケルを刺して!」
叫ぶのと、エコーの声が重なった。
「伏せろ! ピッケル!」
俺は、斜面にピッケルを突き立てて、その上に体をかぶせた。綱の後ろで、エコーが同じようにする気配がした。真ん中のラッシュが、剣の柄に手をかけたまま、雪に伏せた。
魔王が、腕を振り上げた。
黒い腕が、ラッシュに向かって振り下ろされた。
その腕が届く前に、魔王の足もとで、音がした。
低い、重い、腹に響く音。
雪の庇が、割れる音だった。
◇
割れ目は、稜線のてっぺんを走らなかった。
それよりも、ずっと西だった。
庇は、上から見えるよりも深く、山の内側まで食い込んでいる。それは知っていた。だから三歩下がった。それでも、足りなかった。
ラッシュの伏せていた雪が、魔王の足もとの雪と一緒に、東へ傾いた。
ラッシュの体が、白の中へ、滑り落ちた。
綱が、張った。
腰に、がつんと来た。ピッケルの柄が、手の中できしんだ。
止まった。
後ろで、エコーが、低くうめいた。綱は、エコーのピッケルにも同じように張っていた。
二つの支点。
一つが抜けても、もう一つが、同じように抜けないように。前と後ろ、離れたところに。
俺の支点と、エコーの支点で、ラッシュは、崩れた庇の縁の下に、ぶら下がっていた。
◇
「ラッシュさん!」
「……生きてる」
下から、声がした。縁から、四、五メートル下。
「足は、つきますか」
「斜面だ。急だが、雪がある。アイゼンが、効く」
「ピッケルは」
「ある」
そこまで言って、ラッシュの声が途切れた。
「――ケルン」
「はい」
「下に、あいつがいる」
俺は、ピッケルを押さえたまま、縁の向こうをのぞいた。
白い中に、黒い影が見えた。
ラッシュの、さらに下。崩れた雪と一緒に東の壁へ落ちかけて、岩の出っ張りに片腕と片足をかけて、しがみついていた。
そして、もう片方の腕で、ラッシュの背負子をつかんでいた。
綱が、また、ぐん、と重くなった。
ピッケルの柄が、雪の中で、指一本ぶん、沈んだ。
「エコーさん!」
「持ってる!」とエコーが叫んだ。「まだ、持ってる!」
まだ。
一人分なら、二つの支点で持つ。でも、魔王の重さは、一人分じゃない。
◇
「ケルン」とラッシュの声がした。
静かな声だった。
「この背負子の紐、切ったら、お前らは持つか」
答えは、わかっていた。
でも、言えなかった。
山で、人を置いていかない。それが、うちの家業だ。七千二百でも、七千六百でも、親父はそうした。
下にいるのは、人じゃない。
でも、紐を切れと言うのは、案内人の言葉じゃない気がした。
「……持ちます」と、結局、俺は言った。「切ったら、持ちます」
「そうか」
ラッシュが、肩ごしに手をのばして、背負子に縛りつけた鞘から、剣を抜いた。
白の中で、聖剣が、光った。
魔王の、暗がりの顔が、ラッシュを見上げていた。
「――前の男は、背を向けた」と魔王が言った。風の中でも、はっきり聞こえた。「お前は、どうする」
「俺も、背を向けた」とラッシュが言った。「正午にな」
聖剣が、ラッシュの肩の、背負子の紐に振り下ろされた。右。左。
綱が、軽くなった。
黒い影が、ラッシュの背負子をつかんだまま、白の中へ、ゆっくりと離れていった。
声は、なかった。
ずっと下のほうで、雪が崩れる音が、長く、長く続いた。
◇
それから、ラッシュが、小さく声を上げた。
「……なんだ、これ」
「どうしました」
「体が、急に、重い」
サナの声が、後ろの綱の組から聞こえた。
「私も、です。急に、息が」
女神の加護は、勇者の一行に与えられたもの。いつまで続くのかは、誰にもわからない。
魔王が、いなくなったのだ。
加護は、役目を終えた。
「ラッシュさん。そこから、自分で登ってください」
「……引き上げてくれ」
「引き上げられません。聖剣を拾いに、割れ目の四十歩下へ下りたとき、俺も自分で登りました。ここから引っ張っても、縁に綱が食い込むだけです。俺とエコーさんは、綱を手繰って、ラッシュさんが落ちないように止めるだけです」
白の中から、荒い息の音が聞こえた。
「アイゼンを、全部の歯で、雪に蹴り込んでください。ピッケルを刺して、体を引き上げて、また蹴り込む。一歩ずつ。急がなくていい」
「……八千で、急がなくていいって、お前」
「急いだら、落ちます」
ラッシュは、何か言い返そうとして、やめたようだった。
アイゼンが雪を噛む音がした。
一歩。
綱を、手繰った。後ろで、エコーも手繰った。
二歩。三歩。
縁から、ピッケルの先が出た。それから、手袋の指。雪まみれの顔。
ラッシュは、縁を乗り越えて、雪の上に転がった。胸が、大きく上下していた。加護のない体で、八千の雪壁を、四メートル登ったのだ。
「……初めて、自分で登った気がする」とラッシュが言った。
「初めてです」と俺は言った。
ラッシュは、雪の上で、笑ったのか、咳きこんだのか、わからない音を立てた。
聖剣は、ラッシュの手に握られたままだった。鞘は、背負子と一緒に、東の壁へ落ちていった。
「……荷物、捨てちまった」とラッシュが言った。
「捨てていい荷物も、あります」と俺は言った。
時計を見た。十三時十分。手帳には、あとで書いた。
◇
そこから七千六百までは、エコーの声だけを頼りに下りた。
「雪の段、横向き」
「左に岩、手をつくな、浮いてる」
「十五歩、そのあと、斜面が右へ傾く」
エコーは、四十二回を、逆の順に、一度も間違えずに言った。
日が暮れかけたころ、白の中に、黒い大岩が見えた。
その陰に、天幕が二つ。片方は、半分つぶれていた。
天幕の前に、人影が一つ、立っていた。
クロニカだった。帳面を胸に抱えて、雪まみれで。
「……戻りました」と俺は言った。
「記録します」とクロニカは言った。声が、ひどく震えていた。「十七時四十分。山頂へ向かった五名、全員、戻る」
帳面を落とした。
「ケルンさん。ブラフさんが」
天幕の中で、ブラフが、横になっていた。
息が、速かった。浅く、速く、喉の奥で、ぜろぜろと鳴っていた。
唇が、紫だった。
「お昼を過ぎて、一時ごろから、急に」とクロニカが言った。「それまで、何ともなかったんです。急に、息が苦しいって」
十三時十分。
魔王が落ちて、加護が消えた頃だ。
加護は、山の空気を濃くしてくれるわけじゃない。息が苦しいのも、頭が痛いのも、加護のある一行は、俺たちと同じように味わってきた。加護がしていたのは、その先だ。体が壊れはじめても、死なないように、下から支えていた。
ブラフの肺には、たぶん、もっと前から、少しずつ水がたまりはじめていた。それを、加護が押しとどめていた。
支えが、急に外れた。押しとどめられていたものが、一度に出た。
ラッシュとサナが急に膝をつくようになったのも、同じだ。同じように登っても、高い山の肺の病に、なる体と、ならない体がある。ブラフは、なる側だった。
サナが、自分の荒い息をこらえながら、ブラフの胸に耳を当てた。
それから、俺を見た。
「下ろします」と俺は言った。「今すぐ。全員で」
外では、嵐が、まだ鳴っていた。
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