第21話 下りる
夜の嵐の中を下りるのは、親父に、絶対にやるなと言われていたことの一つだ。
見えない。冷える。疲れた足は、つまずく。一つ間違えれば、全員が死ぬ。
でも、息が溺れていく人を、朝まで七千六百に置いておくのは、それよりもっと確かに、人を殺す。
高い山の肺の病は、薬では治らない。魔法でも治らない。治す方法は、一つだけだ。
下りること。
「ブラフさんを、真ん中に。ガルドさんとラッシュさんで、両脇を支えてください。サナさんとエコーさんと記録官殿は、すぐ後ろ。俺が先頭です」
「道は」とガルドが言った。
「あります」
◇
大岩の陰を出ると、風が正面から来た。
灯りの火が、横に寝た。足もとの雪しか見えない。
十歩下りて、灯りを掲げた。
白い中に、小さな黒いものが見えた。
石だった。三つか四つ、雪の上に積んである。膝にも届かない、小さな石の山。
登りのときにも、見ていた。六千六百から上の稜線に、ぽつぽつと積んであった。数だけは、手帳に書いていた。なぜこんなに小さな石の山を、こんなに間を詰めて積んだのか、わからなかった。
今、わかった。
あれは、下りのための石だ。
見えない夜に、嵐の中で、次の一つが、灯りの届くぎりぎりの場所に見えるように。百歩ごとに。
親父は、登りながら、自分が見えない中を下りる日のことを考えていた。
自分と、自分が連れて下りる誰かのために。
「次の石まで、行きます」と俺は言った。「石から石へ。石の見えないところへは、行かない」
「石から石へ!」とエコーが叫んだ。
◇
石を、数えた。
一つ。灯りを掲げて、白の中を探す。見つけたら、そこまで下りる。二つ。
ブラフは、ガルドとラッシュに両側から抱えられて、一歩ずつ、足を出していた。息をするたびに、喉の奥が、ぜろぜろと鳴った。
「……ケルン」とブラフが言った。
「しゃべらないでください。息がもったいない」
「オレ、さ。サンダルで来たんだよな、最初」
「知ってます」
「あのとき、オレ、死んでたかもな」
「死んでません。ここにいます」
七つ。八つ。
サナが、二度、膝をついた。ラッシュも一度、膝をついた。加護が消えた体で、八千から下りてきた二人だった。自分の足で立ち上がって、また歩いた。
十一。十二。
クロニカは、一言もしゃべらずに歩いていた。帳面を、外套の内側に抱えて。石墨を握った手で、ときどき、外套の上から帳面を押さえていた。
十九。二十。
灯りの先に、低く、平たく積んだ石が見えた。
人ひとり分の長さの。
「七千二百です」
グラートの墓の横で、ブラフが、大きく息を吸った。
さっきより、喉の音が小さかった。
◇
七千二百で、天幕を一張りだけ張った。
全員が入れるわけがない。ブラフとサナとラッシュを中に入れて、残りの四人は、天幕の風下で、雪の壁を掘って、身を寄せた。
夜明けまで、二時間おきに、ブラフの息を聞いた。
三度目には、喉の音が、ほとんど聞こえなくなっていた。
四度目に、ブラフが、目を開けた。
「……腹、減った」
サナが、泣きながら笑った。
朝になって、嵐が抜けた。
◇
そこから先は、下りるたびに、体が軽くなった。
六千六百で、ブラフが自分の足で歩きはじめた。六千で、サナが、久しぶりに食べ物の味がすると言った。五千七百で、ラッシュが、俺の荷を半分よこせと言った。
「なんでですか」
「お前が、一番軽い荷を担いでるのを、見たことがない」
「三年間、見ませんでしたからね」
「……うるせえ」
ラッシュの背負子は、東の壁の下だ。七千六百から、ブラフの背負子を借りて担いでいた。ラッシュは、俺の背負子から天幕を一張り抜き取って、その借り物の背負子に縛りつけた。
五千四百の夕方。
燃料の壺は、もう空だった。雪を溶かす火がない。
ブラフが、天幕の前で、雪を入れた鍋に両手をかざした。
「……ブラフさん、無理しなくても」
「黙ってろ」
手のひらの下で、ぽっ、と小さな火がついた。
ろうそくくらいの火だった。それでも、鍋の底の雪が、じわりと溶けはじめた。
「――出た」とブラフが言った。「出た、出たぞ! 火!」
「出ましたね」
「オレの火!」
ブラフは、鍋を抱えて、天幕のまわりを一周した。誰も止めなかった。
その晩は、全員が、温かい湯を飲んだ。
◇
四千八百、四千二百、三千三百。
大岩の東のケルンで、俺は、石を足さなかった。
足すのは、登るときだ。親父がそうしていた。
かわりに、一つずつ、石を数えた。八つ、九つ、十。三千三百で、クロニカが乗せた十個目は、ちゃんと、そこにあった。
二千八百の沢で、皆で顔を洗った。冷たい水が、こんなにうまいとは思わなかった、とガルドが言った。ガルドが、そんなことを言うとは思わなかった。
エコーは、沢の水を、水袋に一杯だけ汲んだ。
それから、栓をして、中身を一度も捨てずに、背負子にくくりつけた。
◇
村の入口に、人が集まっていた。
リブラ所長がいた。酒場の主人がいた。村の荷運びの若者たちがいた。
その一番前に、杖をついた、白髪の老人が立っていた。
ハーケンだった。
谷の小屋から、一時間かけて下りてきたのだろう。二十年、自分から人の輪に入ろうとしなかった人が、人だかりの一番前に立っていた。
俺は、ハーケンの前に立った。
「七千六百まで、行ってきました」
ハーケンは、俺の顔を見た。それから、俺の後ろの、六人の顔を一人ずつ見た。
「……全員か」
「全員です」
ハーケンの杖の先が、少しだけ震えた。
「アンカーは、全員は連れて帰れなかった」とハーケンは言った。「お前は、連れて帰ったか」
「親父の石が、ありましたから」
ハーケンは、何も言わなかった。
エコーのほうを見た。
エコーが、一歩、前に出た。
「グラートの息子です」とエコーは言った。「七千二百の墓に、石を、乗せてきました」
ハーケンの顔が、ゆがんだ。
杖を地面に突いて、ゆっくりと、エコーの前まで歩いた。
「……わしが、話さんかったことだ」
ハーケンの声は、低く、かすれていた。
「七千二百で、上から石が落ちてきた。わしは、気づかんかった。凍えて、足もとしか見とらんかった。お前の親父が、わしを突き飛ばした。わしの代わりに、頭に受けた」
エコーは、動かなかった。
「わしは、二十年、それを話せんかった。わしが生きとるのは、グラートのおかげだ。それを話せば、わしが、グラートを殺したことになる気がした」
ハーケンは、杖を握りしめた。
「お前の親父は、最後に、わしに言った。アンカーに背負われながら。気にするな、足の遅いお前が悪いんじゃない、俺の足が速すぎただけだ、と」
エコーの肩が、震えた。
「……親父らしい」とエコーは言った。「かけっこで、一度も、手加減してくれなかった」
エコーは、背負子から水袋を外した。二千八百の沢で汲んだ水だった。
「七千二百までは、持っていけなかった」とエコーは言った。「だから、ここで」
エコーは、水袋の栓を抜いて、ハーケンの杖の足もとに、ゆっくりと水を注いだ。
山から流れてきた水が、村の土に、しみていった。
◇
その夜、酒場で、主人が言った。
「で、エールの勘定だがね」
「主人」とリブラ所長が言った。
「九杯だよ、九杯。忘れちゃいないだろうね、元勇者殿」
ラッシュは、しばらく黙っていた。
それから、懐から、小さな革袋を出して、卓の上に置いた。
中から、銀貨が何枚か、出てきた。
「……山の上で、ずっと、それだけ持ってた」とラッシュが言った。「使うところが、なかったからな」
主人は、銀貨を一枚ずつ数えた。
銀貨を袋に戻して、ラッシュのほうへ押し返した。
「今夜の分を、払ってもらおう。全員の分だ。九杯じゃ、足りないがね」
ラッシュは、何か言いかけて、やめた。
それから、顔をくしゃくしゃにして、主人に言った。
「……全員に、エールを」
酒場が、わっと鳴った。
俺は、隅の席で、手帳を開いた。
「二十一時、村。晴れ。全員、生還」
それだけ書いて、手帳を閉じた。
王都へ発つのは、三日後だった。
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