第5話 八つ目の石
谷の奥の小屋までは、村から歩いて一時間かかった。
川沿いの細い道を上がっていくと、岩壁の陰に、石を積んだ低い小屋が一軒だけ建っていた。煙突から、細い煙が上がっている。
戸を叩いた。
しばらく返事がなかった。もう一度叩くと、中から、杖が床を打つ音が近づいてきた。
戸が、少しだけ開いた。
「……何の用だ」
「ケルンです。アンカーの息子の」
「知っとる」
老人は――ハーケンは、戸を閉めようとした。俺は戸の隙間に、親父の手帳を差し込んだ。
「石が、八つありました」
戸が止まった。
「大岩の東のケルンです。親父の手帳には、七つと書いてある。でも、八つあった。八つとも、同じくらい苔をかぶっていました」
長い沈黙のあとで、戸が開いた。
◇
小屋の中は、薄暗くて、薪の匂いがした。
ハーケンは炉端に腰を下ろすと、右足を投げ出した。靴の先が、妙に平たい。
「二十年前の山で、右足の指を全部持っていかれた」とハーケンは言った。「女神の加護があるのは、勇者とその一行だけだ。案内人や荷運びには、そんなものはない。お前もだ」
知っていた。知っていたけど、あらためて言われると、サナに治してもらったばかりの膝のあたりが、少し冷えた。
「報告書を見ました。ギルドの棚で。報告者のところに、あなたの名前があった」
「見とった。字は読めんが、自分の名前の形だけは覚えとる」
「書いたんですか」
ハーケンは、炉の火を見たまま、首を横に振った。
「わしは、字が読めん」
俺は、しばらく何も言えなかった。
この村の人間は、何でも書く。天気も、風も、宿の勘定も。そういう村で、この人だけは書けなかったのか。
「山から戻って、ひと月ほどたった頃だ。王都から、男が一人来た。村には寄らずに、まっすぐこの谷の小屋へな。討伐隊の記録係だった男だ。わしらと一緒に、生きて帰ってきた」
「もう一人の生還者ですか」
「そうだ。わしらは『書き屋』と呼んどった。本人は、ラクナと名乗っとった。本当の名かどうかは知らん。若くて、色の白い男だった。山では、ずっと帳面に何か書いとった」
ハーケンは、自分の手のひらを見下ろした。
「書き屋は、報告書を持ってきた。王都に出すものだ、生き残った隊員の名前で出したほうが重みがある、と言った。それから、わしの前で読み上げた」
「何と、書いてあったんですか」
「アンカーが、わしらを背負って下ろしてくれたこと。勇者様が、自分で残ると決めたこと。……書き屋は、そう読み上げた」
ハーケンの声が、低くなった。
「わしは、それでいいと言った。そして、名前のところに、印をつけた」
炉の火が、ぱちんとはぜた。
「それが嘘だとわかったのは、半年後だ。アンカーがギルドを追われた。勇者を見捨てた案内人だと言われてな。わしは、何がどうなっとるのかわからんかった。わしの名前で出た報告には、アンカーが恩人だと書いてあるはずだった」
「でも、書いてあったのは、逆のことだった」
「そうだ」
ハーケンは、目を閉じた。
「わしは、アンカーのところへ行った。わしが王都へ行って、あれは嘘だと言う、と言った。そうしたら、アンカーは首を振った」
――お前の名前で出た報告を嘘だと言えば、お前が偽りの報告をしたことになる。字が読めなかった、では済まんぞ。
「アンカーは、そう言った。だから黙っていろ、と。自分は、何と言われてもかまわん、と」
俺は、膝の上で拳を握った。
親父が、死ぬまで何も言わなかった理由。
言い訳をしなかったのは、言えば、この人が罪をかぶるからだった。
「わしは、黙った」とハーケンは言った。「二十年、黙った。わしはもともと谷の者だ。それでも前は、ときどき村に下りとった。黙っとるうちに、それも怖くなった。アンカーが死んだと聞いたときも、墓にさえ行けなかった」
◇
「八つ目の石のことを、教えてください」
ハーケンは、しばらく考えるような顔をしていた。それから、ゆっくり口を開いた。
「七千六百で、勇者様がアンカーに命じた。隊員を連れて下りろ、と。アンカーは三度、一緒に下りてくれと頼んだ。勇者様は聞かなかった」
七千六百。
ラッシュの地図の、丸印の数字だ。
「その前の日、七千二百で、グラートが落石にやられた。……あのことは、まだ話せん。思い出したくない」
ハーケンは、しばらく黙っていた。
「アンカーは、わしと書き屋を連れて下りた。書き屋は、上でもう足をくじいとった。下りは、ずっとアンカーが背負った。わしは自分の足で下りたが、指はもう駄目だった」
「それから」
「村に着いて、わしらを置いて、アンカーは一人で山に戻った。勇者様を迎えに」
ハーケンは、炉の火を見つめた。
「戻ってきたのは、十日ほどあとだ。下りてすぐ、体が山に慣れとるうちに戻ったんだろう。何も言わんかった。ただ、一度だけ、わしに言った。登るとき、通るケルンに一つずつ石を足した、と。迎えに戻った印だ、と」
八つ目の石。
あれは、親父が勇者を迎えに戻ったとき、自分で乗せた石だった。
「数が合わんはずだ、と言ったのは、そういうことだ」とハーケンは言った。「わしには、それしか言えんかった。字が読めんわしに残っとったのは、アンカーから聞いた、それだけだ」
◇
小屋を出る前に、ハーケンが俺を呼び止めた。
「わしのことは、誰に話してもかまわん。二十年、黙りすぎた」
それから、俺の手元を見た。
「その手帳」
親父の手帳だった。
「アンカーは、何でも書く男だった。最後のところも、書いてあるはずだ」
「……まだ、開いたことがないんです」
「開け」とハーケンは言った。「わしには読めん。お前が読め」
◇
村へ戻る途中、川のほとりの岩に腰を下ろした。
親父の手帳を開く。
二十年前の、討伐隊の記録。三千三百、大岩の東。四千八百、張り出した岩の下。五千、六千、七千。字はだんだん小さく、乱れていく。七千から上は、ほとんど読めなかった。凍えた指で書いたのだろう。数字と、ところどころの言葉しか拾えない。人の名前らしい字も、いくつかあった。
討伐隊の記録のあとには、何も書いていなかった。俺を連れて東の尾根に登った日のことも、一行もない。
最後のページを、めくった。
石墨の芯で書いた、震える字だった。ほかのページと違って、この一行だけは、一字ずつ押しつけるように書いてあった。
「七千六百。グロリオス様の命により、隊員を連れて下りる。必ず迎えに戻る」
その下に、こちらはインクで、一行だけ。山の上ではインクは凍る。村に戻ってから書いたのだ。
「戻った。間に合わなかった。石を積んだ」
俺は、長いことその字を見ていた。
戻った。
親父は、本当に戻っていた。
八つ目の石を乗せながら、たった一人で、七千六百まで。
そして、間に合わなかった勇者のために、石を積んだ。
川の音が、急に大きく聞こえた。
俺は、手帳を閉じなかった。最後のページを開いたまま、しばらくそこに座っていた。
◇
日が傾いて、村の入口まで戻ってきたときだった。
酒場の前に、人だかりができていた。
近づくと、見慣れない馬車が一台、止まっていた。黒塗りの車体に、王家の紋章。馬は泥だらけで、肩で息をしている。
馬車の扉が開いた。
降りてきたのは、俺と同じくらいの年の女だった。分厚い帳面を、胸に抱えている。
その後ろから、鎧の男が二人。
女は、集まった村人たちを見回して、よく通る声で言った。
「王都記録院の記録官、クロニカと申します。勇者ラッシュ様の一行は、どちらに」
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