第4話 全部、書いてあるので
村までは、二日かかった。
ブラフに肩を貸して、雪が消えるところまで下りた。草が出てきたあたりで、ブラフは一度だけ「頭が軽い」と言った。それきり、ほとんど口をきかなかった。
ラッシュは、最後まで何も言わなかった。
村に着いたのは、六日目の夕方だった。
◇
宿の台所を借りて、盥に湯を張った。
自分の手を入れて、熱くも冷たくもない、ぬるいと感じるくらいに水で割る。熱すぎる湯は、感覚のない足には毒だ。火傷をしても、本人は気づかない。
「入れてください。両足とも、ゆっくり」
ブラフが、白く硬くなった足先を湯に沈めた。
しばらくは、何も起きなかった。
それから、ブラフの顔がゆがんだ。
「いっ……いてえ、いてえいてえいてえ!」
「温まってきた証拠です。抜かないで」
「無理無理無理、なんだこれ、焼けてる、焼けてるって!」
「焼けてません。ぬるま湯です」
凍った足を温め直すときは、ひどく痛む。わかっていても、見ているほうもつらい。湯がぬるくなるたびに、俺は少しずつ湯を足した。
サナが、ブラフの足に両手をかざした。
詠唱すると、光がふわりと広がった。山の上で消えかけていた光が、ここでは指先から肘まで、柔らかく包むように伸びていく。
「……出る」とサナが言った。「ちゃんと、出る」
凍傷は、怪我だ。空気が薄いのとは違って、回復魔法がちゃんと効く。
サナは、その夜ずっとブラフのそばを離れなかった。
明け方、ブラフの足の指は、十本とも赤みを取り戻していた。
それからサナは、台所の隅で手帳をつけていた俺のところへ来て、黙って俺の膝に手をかざした。腫れていた膝から、熱が引いていく。焼けた手のひらも、同じようにしてくれた。
「これくらいは、させてください」
俺は、礼を言うのが少し遅れた。
傷は治った。それでも、山で無理をした体の芯の重さだけは、魔法でも抜けなかった。
◇
その朝のうちに、村のギルド出張所に呼ばれた。
勇者の帰還は、ギルドに報告することになっている。山で何があったのかを記録して、王都に送るためだ。出発のときも、所長は規定どおり、早馬で王都に知らせを出していた。勇者一行が荷も持たずに三日で山頂を目指していることも、酒場の主人から聞いて書き添えたそうだ。
出張所の所長は、リブラという女性だった。銀縁の眼鏡をかけていて、いつも天秤みたいに背筋を伸ばして座っている。俺がガイドとしてギルドに登録したときも、この人が書類を見た。子どものころから、俺はこの人が少し苦手だった。
狭い部屋に、ラッシュとサナとブラフ、俺、それから酒場の主人が呼ばれていた。戸口のそばには、なぜかあの白髪の老人も立っていた。所長はちらりとそちらを見ただけだった。
「では、勇者殿。報告を」
ラッシュが、一歩前に出た。
「我々は、標高五千メートルを越えたところで撤退した。原因は、元荷物持ちのケルンだ」
俺は思わず顔を上げた。
「この男は、追放を逆恨みして、我々の装備を持ち去った。テントも防寒具もなく、やむなく撤退を決めた」
「待ってください」とサナが言いかけた。
「黙ってろ」
ラッシュは、サナのほうを見もしなかった。
「それだけじゃない。こいつは山の中まで我々をつけ回した。五千の雪原で、俺の聖剣を奪おうとして揉み合いになり、聖剣は割れ目に落ちた。天候が崩れることも、こいつは知っていて黙っていた」
部屋が、しんとした。
「こいつはあの臆病者アンカーの息子だ。親子そろって、勇者の道を阻む血筋なんだ」
リブラ所長の目が、俺に向いた。
二十年前も、こうだったんだろうか。
親父も、こうやって指をさされて、何も言わなかったんだろうか。
俺は、言うことにした。
◇
「所長。俺はガイドなので、山に入るときは記録をつけています。何時に、どこにいて、何を見たか」
手帳を差し出した。リブラ所長は、黙ってページをめくった。めくる手が、途中で止まった。
「……一時間ごと。時刻、高さ、天気、見たもの」
「仕事なので」
「出発前夜、酒場にて追放。給金は聖剣の手入れ代と相殺、銀貨三枚を受領。翌朝、勇者一行出発。パーティの装備は、すべて宿に残置」
「残置?」とラッシュが言った。
「酒場のご主人の帳面と照らし合わせてください」
主人が、分厚い帳面を開いて机に置いた。
「ええ、ええ。テントに毛布に大鍋に、アイゼンが三人分。全部うちの二階にありますよ。ケルンさんが持っていったのは、自分の小さい天幕と小鍋と水袋、ザイルとピッケルとアイゼン、獣脂の灯り、予備の靴と薬、食料と燃料だけ。ほら、ここに書いてあります」
ラッシュの顔が、少し引きつった。
それから、ラッシュは主人の帳面を指さした。
「なら、その帳面に、天気のことも書いてあるはずだ。こいつは知ってたんだ」
主人は帳面を何枚かさかのぼって、指で一行を叩いた。
「ケルン曰く、午後崩れる」
「ほら見ろ!」とラッシュが叫んだ。「知っていて、黙っていたんだ!」
リブラ所長が、俺を見た。
「ケルン。勇者殿に伝えたのか」
「高山病のことは言いました」と俺は言った。「聞いてもらえなかったので、天気までは言えませんでした」
「ああ、それなら」と主人が口をはさんだ。「ケルンさんが話してる途中で、勇者様たち、さっさと出ていきましたからね。勘定も払わずに」
部屋の空気が、一瞬止まった。
「エール三杯分が三人前、まだいただいてません」
誰かが吹き出した。
ラッシュの顔が、赤くなった。
リブラ所長は、眉ひとつ動かさずに羽根ペンを走らせた。たぶん、エールの件も書いた。
◇
リブラ所長は、手帳に目を戻した。
「四日目、九時、五千。雪原にて、勇者が割れ目に転落。ザイルにて救助。聖剣、勇者の腰より外れ、亀裂内に落下」
「でたらめだ!」とラッシュが叫んだ。「そんなもの、あとからいくらでも書ける!」
「そうですね」と俺は言った。「だから、これを見てください」
手帳の別のページを開いた。
「サナ、聞き取り。一日目から四日目」
三千八百の雪洞で、サナが話したことが全部書いてある。頭痛のこと。雪を食べたブラフのこと。回復魔法をやめられなかったこと。
その最後の行の下に、震えた字で、名前が一つ書いてあった。
「最後の行は、サナさんの字です。読んで、間違いがないと確かめてから、自分で書いてくれました」
リブラ所長は、サナを見た。
「聖女殿。これは、あなたの字に間違いないか」
サナは、一度だけラッシュのほうを見た。それから、所長に向き直った。
「間違いありません」
声は、震えていなかった。
「ケルンさんは、出発の前に、無理だと言ってくれました。頭が痛くなったら下りるしかない、とも。聞かなかったのは、私たちです。揉み合いなんてありませんでした。ケルンさんが止まれと叫んだのに、ラッシュさんは一歩前に出て、自分で割れ目に落ちました。……それから、私は酒場で、ケルンさんが追い出されるのを止めませんでした」
「サナ、お前……」ラッシュの声が上ずった。「所長、こいつは丸め込まれてるんです! 山の上で、こいつと二人きりで何を吹き込まれたか――」
「二人きりじゃねえよ」
ブラフだった。
包帯を巻いた両足で、ふらふら立ち上がる。
「オレは、布一枚向こうの天幕の中にいた。全部聞こえてた。だいたい、ラッシュ、お前も同じ天幕で寝てただろ。全部ほんとです。オレら、ケルンに助けられました。あいつがいなかったら、オレの足の指は、たぶん今ごろ一本もない」
そこで、俺は背負子から一つ、物を取り出して机に置いた。
サンダルが、一足。片方は紐が切れて、布の切れ端が絡みついている。
「三千二百の野営地で拾ったものと、四千八百で脱がせたものです。勇者一行の装備がこれだったことの、証拠品です。両方そろってます」
「それ出すのかよ!」とブラフが叫んだ。
部屋のあちこちで、とうとう笑いがこぼれた。戸口の老人まで、肩を震わせていた。
ラッシュだけが、真っ赤な顔で立ち尽くしていた。
◇
リブラ所長は、手帳を閉じて、長いため息をついた。
「勇者殿の訴えは、退ける。ケルンが装備を持ち去った事実も、聖剣を奪おうとした事実も、記録からは一切出てこない。むしろ、記録が示しているのは逆のことだ」
所長は、羽根ペンを取った。
「ギルドに、勇者の称号を剥ぐ権限はない。それは王のお決めになることだ。ただし、本日の調書は、すべて王都に送る。虚偽の訴えがあったことも、そのまま書く。王の裁定が出るまで、ギルドは勇者殿に一切の依頼を出さない」
ラッシュが、膝から崩れるように椅子に座り込んだ。
「それから」と俺は言った。「これを」
一枚の紙を、机に置いた。
「山岳救助の費用です。ギルドの規定どおりに計算しました」
リブラ所長が、紙を手に取った。読みながら、声に出した。
「勇者一行を追って山に入った一日目から、六日目までの日当、危険手当つき。燃料、食料、薬、ザイルの損耗。貸した靴の損料。合計、金貨四十二枚。……危険手当は日当の十倍、遭難のおそれを告げた翌日から起算、と但し書きがあるな」
所長は顔を上げた。
「規定どおりだ。ケルンは、ギルドに登録したガイドだ。請求する権利がある」
それから、別の綴りを開いた。
「勇者殿は、出発の前にギルドへ支度金を預けておられたな。金貨五十枚」
ラッシュの顔から、血の気が引いた。
「この請求は、その支度金から支払わせる。残りは、金貨八枚」
所長は、俺を見た。
「ケルン。三年分の給金は、いくらの約束だった」
「年に金貨四枚です」
所長の眉が、初めて動いた。
「年に四枚? ふつうのガイドなら、十日足らずでもらう額だ。……ずいぶん安く使われていたな」
「三年で十二枚です。もらった銀貨三枚を引いて、金貨十一枚と銀貨七枚です」
「残りの八枚では、足りないな」
所長は、さらさらと書きつけた。
「差額の金貨三枚と銀貨七枚は、勇者殿のケルンへの借りとして、ギルドが記録する。払い終わるまで、消えない」
主人が、こらえきれずに吹き出した。
「あと、エール九杯分も」
「それは、宿と勇者殿のあいだで話をつけなさい」
ラッシュは、椅子の上で、自分の膝を見つめていた。
俺は、少しだけ迷ってから、言った。
「ラッシュさん。酒場で、俺のことを最初からいなかったことにしてやるって言いましたよね」
ラッシュが、のろのろと顔を上げた。
「できませんでした。全部、書いてあるので」
ラッシュは、口を開きかけて、閉じた。
握りしめた拳が、膝の上で震えていた。その懐には、あの地図が入っているはずだった。
地図のことは、言わなかった。誰が描いたのかわからないうちに口にすれば、描いた人間に気づかれるだけだ。所長が読んだのはサナの署名のところまでで、地図のことを書いたページは、その後ろにある。
◇
皆が出ていったあと、リブラ所長に呼び止められた。
「ケルン。少し残りなさい」
戸口の老人は、まだそこにいた。所長はそれを見ても、咎めなかった。
所長は、部屋の奥の棚から、古い綴りを一冊抜き出した。表紙が、黄ばんで角が丸くなっている。
「二十年前の、ギルドの除名記録だ」
綴りを開いて、一枚の紙を俺の前に置いた。
親父の名前があった。
「アンカー。ヴァルテン山討伐隊の案内人。勇者グロリオスを山中に置き去りにし、死に至らしめた責により、ギルドより除名する」
その下に、一行。
「王都記録院の報告に基づく」
「これを書き写したのは、私だ」とリブラ所長が言った。「まだ若い書記だった。王都から届いた報告書のとおりに書いて、当時の所長の判をもらいに行った」
俺は、顔を上げた。
「一度も疑わなかった。アンカーは、ここに呼ばれても、何も言わなかった。言い訳も、反論も、一言も」
所長は、俺の手帳に目をやった。
「今日のお前を見ていて、思った。記録というのは、書いた人間がいて初めて記録になる。あのとき私は、誰が書いたのかを、確かめもせずに判をもらいに行った」
綴りの紙には、報告書の写しが添えてあった。
山で何があったのか、細かく書いてある。七千メートルを越えたあたりから、急に記述が短くなる。そして、そこから先の数日分が、まるごとなかった。写しだから省いたのか。それとも、もとの報告書から、もう抜けていたのか。
最後に、報告者の名前があった。
「討伐隊員 ハーケン」
「ハーケン」と所長が言った。「生きて帰った隊員の一人だ。もう一人は、帰ってすぐに村を出ていったきりだと聞いている。ハーケンは、今もこの谷にいる」
所長の目が、俺の肩越しに、戸口へ向いた。
振り返った。
あの老人が、立っていた。
老人は、紙の上の自分の名前を、じっと見ていた。
杖を握る手が、震えていた。
俺と目が合った。老人は、逃げるように目を逸らして、背を向けた。
石を数えろと言ったのは、この人だった。
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