第3話 支点は二つ
三日目、山の上半分は朝から雲に隠れていた。
下のほうは、昼まで風が弱かった。俺はそのうちに三千八百まで上がって、天幕を張り直した。昨日より五百高い。俺の体でも、今日はここまでにしておく。
昼過ぎ、雲が降りてきた。
一時間もしないうちに、三千八百も吹雪になった。天幕の布が風に煽られて、ばたばたと鳴った。張り綱を一本ずつ確かめて、石を重しに乗せていく。
しゃがむたびに、左の膝が痛んだ。おととい、霙の岩ですりむいたところだ。たいした傷じゃないと思っていた。でも、ズボンをめくってみると、すりむいたまわりが赤く腫れて、熱を持っていた。
薬師の軟膏を塗って、布を巻き直した。今の俺にできるのは、それくらいだ。
「十五時、三千八百。吹雪。西の風、強。視界、十歩」
手帳にそう書いて、上を見た。何も見えなかった。
親父の手帳には、四千八百の張り出した岩の下が、討伐隊の野営地のひとつとして書いてある。この道を誰かに教わったのなら、勇者たちもそこにいるはずだ。この風の中では、一歩も動けない。
動けないのは、まだいい。
動こうとするのが、一番まずい。
◇
四日目の朝、雪はやんでいた。
夜明け前の三時に、天幕を出た。天幕も鍋も置いていく。背負子に積むのは、ザイルとピッケル、水袋と薬、予備の靴、獣脂の灯り、それに二冊の手帳だけだ。上まで登って、日が暮れる前にここへ戻ってくる。高く登って、低く寝る。
それでも、褒められたペースじゃなかった。
でも、のんびり登っていたら、たぶん間に合わない。
四千八百の張り出した岩の下に着いたのは、朝のうちだった。息が上がって、頭の奥が重い。膝も熱い。無理をしたつけは、たぶん後で来る。
誰もいなかった。
雪の上に、三人分の座った跡。そこから、新しい足跡が上へ延びている。二つは靴の跡で、一つは、片方がサンダル、片方が布を巻いた足の跡だった。サンダルをなくした足に、また何か巻きつけたらしい。
あの状態で、まだ登ったのか。
足跡を追って、雪の斜面を登った。
五千メートルの手前で、斜面が緩んで、広い雪原に出た。
雪原の下は、氷河だ。氷河には、割れ目がある。割れ目の上に雪が積もると、蓋をされたみたいに見えなくなる。
俺は足を止めて、ピッケルの柄で足元の雪を突いた。固い。一歩進んで、また突く。
まだ低い朝の日差しが、斜めから雪原を照らしていた。こういう光のときは、雪面のわずかなくぼみに影ができる。
雪原の向こうに、三つの人影が見えた。
先頭はラッシュだった。その少し先に、雪面が細く沈んだ筋が、まっすぐ横切っていた。
「止まって!」
叫んだ。
ラッシュが振り向いた。
そして、そのまま一歩、前に出た。
足元が消えた。
◇
雪の下に隠れていたクレバスだった。
ラッシュは腰まで落ちて、両手で縁の雪にしがみついていた。腰に下げていた聖剣が、鞘ごと滑り落ちていく。だいぶたってから、ずっと下のほうで、カーンと小さな音がした。
深い。
「ラッシュさん!」
サナが駆け寄ろうとした。
「来るな!」
俺は叫んだ。
「そこも割れてます! 二歩下がって、絶対に動かないで!」
サナが凍りついたように止まった。その足元から、雪がさらさらと崩れて、細い割れ目の口がのぞいた。サナは真っ青になって、二歩下がった。
ブラフは、少し後ろで雪の上に座り込んでいた。立ち上がろうとして、立ち上がれないでいる。布を巻いた足に、もう力が入らないんだ。
俺は走った。
走りながら、ピッケルで雪を突く。突き抜けたら、そこは割れ目だ。固いところだけを選んで、ラッシュに近づいていく。
喉が焼けるようだった。五千メートルの空気は、吸っても吸っても足りない。
「離すな! 手を離さないで!」
ラッシュの指が、縁の雪をかきむしっていた。掴んでいる雪が、少しずつ崩れている。
「く、そ……っ」
あと十歩。
あと五歩。
割れ目の五歩手前に、黒い岩が一つ、雪原から背中みたいに突き出していた。俺はそこで足を止めた。
岩から縁までの五歩を、ピッケルで突いて確かめた。固い。
ピッケルの柄にザイルの端を結んで、岩の後ろの雪に横にして埋めた。
一つ目の支点。
ザイルを、岩の根元に一回巻きつけた。
二つ目の支点。
人を繋ぐなら、支点は一つじゃ足りない。親父の口癖だ。
ザイルの先に輪を作って、自分の胴に通した。確かめた五歩の上を、縁まで這う。縁には背負子を寝かせて敷いた。ザイルが雪に食い込まないように。
目の前で、ラッシュが肘を縁の雪に埋めて耐えていた。歯を食いしばった顔が、真っ白だった。
「ラッシュさん、輪を投げます。頭からくぐって、脇の下に通して。両腕とも。通したら、手を離していいです」
「お前……なんで……」
「話は後で聞きます。通して!」
輪を自分の胴から外して、投げた。輪がラッシュの肩に落ちた。ラッシュは片手を縁から離して、震える手で輪をくぐり、脇の下まで下ろした。もう片方の腕も通した。
輪を外した瞬間、俺を繋ぐものは何もなくなった。確かめた五歩の上だけを、ゆっくり這って岩まで戻り、岩の後ろに出たザイルを両手で握った。
その瞬間、ラッシュがしがみついていた縁の雪が、ごそりと崩れた。
ラッシュの体が、腰から胸まで沈んだ。
ザイルが、一気に張った。
落ちる勢いに引っ張られて、握った手ごと、ザイルが岩の上を走った。踏ん張った左の膝に、鋭い痛みが走る。膝ががくんと抜けて、雪の上に崩れた。手袋ごしに、手のひらが焼けた。
岩に巻いた一回と俺の手だけでは、止まらなかった。
岩の後ろでたるんでいたザイルが、一瞬で消えた。
ぴん、と張った。
雪に埋めたピッケルが、ぎしりと鳴った。雪の中で少しずれて、そこで止まった。
岩だけでは止まらなかった。ピッケルだけだったら、たぶん抜けていた。
支点は二つ。
親父の言うとおりだった。
◇
「サナさん! 俺の踏み跡だけを辿って、こっちへ! ほかの雪は踏まないで!」
サナが、俺の足跡を一歩ずつ辿って、這うようにして来た。ブラフも、座ったまま、その跡の上をいざって来た。
「確かめた五歩の上で、ラッシュさんにつながってるザイルを握って。岩のほうへ引いてください。ブラフさんも、手だけでいいから」
「せーので、引きます。せーの!」
二人が引いた。たるんだ分を、俺が岩の後ろでたぐり込む。二人が手を休めるあいだは、岩と俺の手で止める。それで抜けても、後ろのピッケルが受け止める。
「せーの!」
膝が痛い。息が吸えない。焼けた手のひらに、ザイルが食い込む。
ラッシュも、縁に肘をかけて、自分の体を引き上げようともがいていた。その体が、背負子の上を滑って、少しずつ雪の上に戻ってくる。胸、腰、膝。
最後に、ラッシュは自分の足で縁を蹴って、雪の上に転がり出た。
しばらく、誰も何も言わなかった。
ラッシュは雪の上に仰向けになって、空を見ていた。
「……聖剣、落とした」
「そうですね」
「女神の加護つきだったんだぞ」
「加護つきでも、割れ目の上は歩けなかったみたいですね」
ブラフが、変な声で笑った。笑いながら、泣いていた。
俺は膝をさすりながら、ブラフのところへ這っていった。布を巻いた足を見る。巻いた布の上から触っても、ブラフは何も感じないようだった。
「下りましょう。今すぐです」
「でも、魔王が――」とラッシュが言いかけた。
「ブラフさんの足、このままだと指がなくなります」
ブラフの顔から、さっきの笑いが消えた。
サナがすぐにブラフの足に手をかざした。詠唱する。
光は出なかった。
もう一度唱えた。指先が、ほんの少し光って、消えた。
「……出ない。どうして、出ないの」
山に入ってから何十回もかけ続けた魔力は、もう底をついていた。
サナは、ブラフの足に手を当てたまま、声を上げて泣きだした。
ラッシュだけが、雪の上に座ったまま、黙って俺を睨んでいた。
◇
雪に埋めたピッケルを掘り出し、背負子を拾った。帰りも、割れ目の帯を突きながら戻らなければならない。
下りは、上りよりずっと時間がかかった。
ブラフは自分では歩けなかった。俺とラッシュが両脇から肩を貸して、サナが後ろで支えた。ラッシュは一言も口をきかなかったけど、ブラフの腕を離すこともしなかった。
四千八百で、ブラフの足の布をほどき、残っていたサンダルも脱がせた。指先が白く、硬くなっていた。サンダルを履いていたほうの足も、似たようなものだった。両足ともだ。
俺の予備の靴を履かせた。拾ったほうのサンダルを見せると、ブラフは「今さら履けるかよ」と首を振った。俺は二つまとめて、背負子にくくりつけた。山に物を置いていくと、親父に怒られる。
「こするなよ」と俺は言った。
「なんで」
「こすると、もっと傷みます。火にも当てないで。乾いた布で包んで、靴の中で冷やさないようにする。今は、それだけです」
本当は、ぬるい湯に浸けて温めるのが一番いい。でも、明日もまだ雪の上を歩く。温めたあとにもう一度凍ったら、そのほうがずっとひどいことになる。ちゃんと温めるのは、村に着いてからだ。
日が暮れる少し前に、三千八百の俺の天幕に着いた。
着くなり、ブラフが言った。
「……あれ。頭、痛くねえ」
サナが、はっと顔を上げた。ラッシュも、こめかみから手を離していた。
千二百メートル下りただけだ。回復魔法を何十回かけても治らなかった頭痛が、それだけで消えていた。
最初から、そう言っていた。
◇
焼けた手のひらと膝に、軟膏を塗り直した。手帳の字が、少し震えた。
一人用の天幕に、三人をなんとか押し込んだ。俺は外の岩陰で、雪洞を掘って夜を越すことにした。
小鍋で豆を煮て配った。
「……固え」とブラフが言った。
「山の上なんで」
わかったのかどうか、ブラフは黙って豆を噛んだ。それから、ばつが悪そうに、俺の水筒を差し出してきた。
「返す」
「中身、空ですね」
「……悪い。その、豆も。毎回固いとか言って、悪かった」
夜が更けてから、サナが天幕から出てきて、俺の雪洞の入口に座った。
しばらく黙っていた。それから、この四日間に何があったのかを、ぽつりぽつりと話しはじめた。頭痛のこと。雪を食べたブラフのこと。四千メートルで、回復魔法をやめられなかったこと。
全部話し終えてから、サナは膝を抱えて言った。
「誰かに言わないと、自分のしたことを、なかったことにしてしまいそうで」
俺は何も言わずに、手帳に書きとめた。
「サナ、聞き取り。一日目から四日目」
書き終えてから、その手帳をサナに渡した。読んで、間違いがなければ名前を書いてほしいと頼んだ。
サナは長いこと読んでいた。それから、最後の行の下に、自分の名前を書いた。少し震えた字だった。
手帳を返しながら、サナは少しだけ笑った。
「ケルンさんは、本当に何でも書くんですね」
「村の人間なので」
◇
夜中に、一度目が覚めた。
天幕の入口が少し開いていて、中から、かすかな明かりが漏れていた。
のぞくと、ラッシュが起きていた。サナとブラフは眠っている。ラッシュは、俺が持ち帰った獣脂の小さな灯りをともして、一枚の紙を広げていた。火は、ブラフに点けさせたらしい。ここまで下りれば、あいつの火も少しは戻る。
地図だった。
古い紙じゃない。新しい羊皮紙に、細い線でヴァルテン山の道が描きこまれている。麓の村、分かれ道、大岩。そこから上へ、線は迷わず延びていた。
俺が知らない字だった。ラッシュの字でもない。
線のいちばん上、山頂の少し手前に、小さな丸印がひとつ、つけてあった。
その横に、数字が書いてある。
「七六〇〇」
ラッシュが顔を上げた。目が合った。
ラッシュは、何も言わずに地図を畳んで、懐にしまった。そして灯りを吹き消した。
暗闇の中から、小さな声がした。
「……余計なことしやがって」
俺は雪洞に戻って、手帳を開いた。暗くて、字はほとんど見えなかった。
それでも、書いた。
「勇者、地図を所持。描いた者、不明。七千六百に印」
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