第2話 回復魔法が効かない
午後二時。風が変わった。
さっきまで頬に当たっていた乾いた風が、急に湿って冷たくなった。山頂の笠雲はいつの間にかほどけて、灰色の雲が、西の肩から斜面をずり落ちるように降りてくる。
十分後には、霙になった。
帳面に書かれたとおりになった。主人に教えたら、たぶんまた何か書き足すと思う。
濡れた岩で、一度足を滑らせた。とっさに手をついて、左の膝を少しすりむいた。霙の岩は、乾いた岩とは別物だ。わかっていても、こうなる。
岩陰に入って、手帳を開いた。
「十四時、二千六百。霙。西の風、強まる」
一時間ごとに、時刻と高さと天気を書く。親父に叩き込まれた習慣だ。山で何かあったとき、最後に頼りになるのは、記憶じゃなくて記録だと親父は言っていた。
三千の少し手前で、道は二つに分かれる。左へ巻いていくのが東の尾根、まっすぐ雪渓を詰めていくのが大岩の道だ。
その日は、分かれ道の下の二千八百で天幕を張った。
村から千メートル上げた計算になる。三千を超えるまでは、このくらいなら体はついてくる。その先は、地元育ちの俺でも一日五百が限界だ。
霙は夕方には雪に変わって、天幕の布をさらさらと叩いた。
俺は天幕のまわりの雪をかき集めて小鍋に詰め、火にかけた。溶けた水を水袋に移して、また雪を詰める。水筒はブラフに持っていかれたから、明日の分の水も、こうやって作っておくしかない。
◇
その頃、勇者たちに何が起きていたのか。それは、あとになってサナから聞いた。
一日目の夕方、三人は三千二百メートルにいた。
村から、一日で千四百メートル。そこで寝ようとしたのだから、無理もない。
「……なあ」とブラフが言った。「頭、痛くね?」
「気のせいだ」
そう答えたラッシュも、さっきからこめかみを押さえていた。
三人は、崖の窪みに身を寄せていた。テントはない。毛布もない。霙で濡れた服が、日が落ちるにつれて体の熱を吸い取っていく。
ブラフのサンダルは、昼過ぎに片方の紐が切れていた。今は、ちぎった袖を足に巻きつけて、どうにか履いている。
「サナ、頼む」
サナが両手を合わせて詠唱した。温かい光が三人を包む。
「……お」とブラフが顔を上げた。「治った。治ったわ。さすが聖女様」
十歩も歩かないうちに、ブラフはまたこめかみを押さえた。
「……戻ってきた」
「え?」
サナはもう一度詠唱した。光が広がって、頭痛が引いて、しばらくすると、また戻ってきた。
「おかしいです。毒なら消せるし、呪いなら祓えるのに……」
「呪いだな」とラッシュが言った。「魔王の結界だ」
「でも、呪いなら祓えるはずなんですけど……」
「強い呪いなんだ。もう魔王城が近いってことだろう」
まだ、三千二百だった。
「なあ、水ある?」とブラフが言った。「水筒、空なんだけど」
ブラフが持っていった俺の水筒は、昼前に空になっていた。ほかの二人の水筒も、ほとんど残っていない。水を汲むのは、いつも俺の仕事だった。誰も、どこで汲めばいいのか知らなかった。
「雪でも食ってろ」とラッシュが言った。
ブラフは岩のくぼみに溜まった雪をすくって、口に入れた。
三口目で、歯が鳴りはじめた。
雪は、口の中で溶かすだけで体の熱を奪う。たいした量の水にもならない。山では、雪は火にかけて溶かしてから飲むものだ。
三人とも、それを知らなかった。
◇
二日目の朝、天幕の外は薄く白くなっていた。
登るにつれて雪は深くなり、分かれ道に着くころには、くるぶしまであった。夜のうちに積もった、湿った重い雪だ。踏むと、靴が柔らかく沈む。
分かれ道で足を止めた。昨日の足跡は、夜の雪に埋もれて消えていた。勇者たちがどちらへ行ったのかはわからない。
俺は、大岩の道を選んだ。二十年前、討伐隊が通った道だ。親父の手帳の、討伐隊の記録にあるのは、こっちの道だ。石の数を確かめるなら、ここを行くしかない。
三千二百メートルで、崖の窪みに、誰かがうずくまっていた跡を見つけた。
雪の上に、三人分の座った跡。窪みの雪が、手ですくったように削れている。そこから新しい雪の上を、三人分の足跡が上へ続いていた。
勇者たちも、この道に来ていた。
そして、サンダルが片方。紐が切れて、布の切れ端が絡みついていた。
もう片方は、たぶん、まだ履いている。
脱げたのに気づかなかったんだろうか。だとしたら、その足はもう、感覚がなくなりかけている。
俺はサンダルを拾って、背負子の横にくくりつけた。少し、足を速めた。
昼過ぎに、三千三百メートルに着いた。
大きな岩が、雪の斜面から船の舳先みたいに突き出している。その東側の陰に、膝くらいの高さの石の山があった。半分雪に埋もれて、残りは苔に覆われている。
ケルンだった。
親父の手帳を開く。二十年前の、討伐隊の記録のページだ。
「三千三百、大岩の東。ここで一泊。急ぐな」
その下に、小さな字で一行。
「石七つ積む」
子どものころ、親父に連れられて何度もこの山に登った。でも、使うのはいつも東の尾根だった。この大岩の道を、親父は一度も使わせてくれなかった。理由を聞いても、何も言わなかった。
だから、このケルンを見るのは初めてだった。
◇
二日目の昼、勇者たちは四千メートルを越えていた。
三人とも、足取りが重く、ふらついていた。ブラフは二度吐いた。ラッシュは何度も立ち止まり、そのたびに「止まるから体が冷えるんだ」と言って、また歩き出した。
サナは、歩きながら回復魔法をかけ続けた。
朝から、これで二十回目。
光は、最初のころの半分もなかった。頭痛が引いているのも、ほんの数十歩のあいだだけだ。魔力は、使えば減る。わかっていても、やめられなかった。
やめたら、三人とも本当に動けなくなる気がした、とサナは言っていた。
誰も「戻ろう」とは言わなかった。サナも、言い出せなかった。言えば、臆病者の息子と同じになる気がしたそうだ。
午後には、また雪になった。
その夜、四千八百メートル。三人は、張り出した岩の下に体を押し込んだ。
「ブラフ、火」
「わかってるよ……ファイア」
ブラフの指先に、ろうそくほどの火が灯って、すぐに縮んだ。
「は? なんで?」
もう一度唱えた。今度は、針の先くらいの火だった。
ブラフはしばらく、自分の指先を見つめていた。麓なら、焚き火を一瞬で起こせる火だ。それが、かじかんだ指一本温められない。
魔法の火は、ふつうの火よりずっと多く空気を食う。だから高い山では、真っ先に弱る。
サナが黙って、ブラフの手を両手で包んだ。三人は朝まで、そうやって身を寄せ合っていた。
ラッシュの言う加護だけは、本物だったのかもしれない。それがなければ、たぶんこの夜で終わっていた。
◇
三千三百の大岩の陰で、俺は天幕を張って、小鍋で豆を煮ていた。
この高さだと、湯は九十度に届く前に沸いてしまう。だから豆は、なかなか柔らかくならない。
前にブラフが「お前の豆、毎回固いんだよ」と文句を言っていた。山の上では、誰が煮ても固いんだよ。
まあ、パーティの大鍋は宿に置いてきたから、あいつらは煮ることもできないんだけど。
固い豆を噛みながら、親父の手帳を開き直した。
「石七つ積む」
俺は天幕を出て、ケルンの前にしゃがんだ。雪を手で払って、上から一つずつ、石を数えた。
一つ、二つ、三つ。
四つ、五つ、六つ、七つ。
八つ。
もう一度、下から数え直した。
八つだった。
八つとも、同じように苔をかぶっている。今朝ここを通った勇者たちが乗せたものじゃない。そもそも、あの三人がケルンに石を乗せるとは思えない。
親父と俺のほかに、村の人間は三千を超えるところまでは登らない。羊飼いも、この手前で引き返す。この大岩の道を知っているのは、親父と、二十年前の討伐隊だけのはずだ。
それなのに、勇者たちはこちらの道に来ていた。東の尾根のほうが、ずっと道がはっきりしているのにだ。
あの三人に、この道がわかるはずがない。山で道を選んできたのは、ずっと俺だ。
誰かが、この道を教えたんだ。
親父の手帳の字を、もう一度見た。親父の字は、いつも正確だった。数え間違えるような人じゃない。
だとしたら、親父がこの石を積んだあと、誰かがここを通って、石をひとつ乗せたことになる。
苔のつき方を見るかぎり、それもずいぶん昔のことだ。二十年前の討伐隊の、誰かかもしれない。生きて帰ったのは、親父と、ハーケンという名の隊員と、もう一人。ハーケンの名前だけは聞いたことがある。顔は知らない。
それとも、帰らなかった誰かか。
——数が合わんはずだ。
あの老人の声を思い出した。
俺は自分の手帳に書きつけた。
「三千三百、大岩の東。石八つ。親父の記録より一つ多い。一つ足す」
それから、足元の石をひとつ拾って、てっぺんに乗せた。親父に、ここまで来たと挨拶するつもりだった。
九つになった。
八つ目の石は、誰が積んだんだろう。
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