第1話 銀貨三枚
「ケルン、お前クビな」
出発前夜の酒場で、勇者ラッシュはエールを飲み干してから言った。三杯目だった。明日から最終決戦なのに。
「えっと、理由は」
「戦えない荷物持ちは不要なんだよ。あと、お前がいると縁起が悪い」
縁起。
三年一緒に旅をして、言われたのは初めてだった。縁起が悪いと思っていたなら、もっと早く言ってほしかった。三年分の干し肉を仕込む前に。
魔法使いのブラフが、その干し肉をかじりながら笑った。
「だってお前、あのアンカーの息子だろ? 二十年前、先代の勇者様を山に置き去りにして逃げ帰った臆病者のガイド」
酒場の何人かがこっちを見た。この村では、この話になるとだいたいいつもこうなる。
隅の席で一人で飲んでいた、杖をついた白髪の老人だけは、顔を上げなかった。見かけない顔だった。ただ、杯を持つ手が少し止まったのが見えた。
親父は二十年前、先代勇者グロリオスの討伐隊を案内した。帰ってきたのは親父と隊員が二人だけで、勇者は戻らなかった。
やがて「ガイドが勇者を見捨てた」という話が王都から流れてきた。誰が最初に言い出したのかは、誰も知らない。親父はギルドを追われ、死ぬまで、そのことを一言も話さなかった。
「親父のことは関係ないでしょう」
「あるね。明日、俺たちは先代が届かなかった場所に行く。臆病者の血はいらない」
「ラッシュさん、言いすぎです」
聖女サナが小さく言ったけど、ラッシュは聞いていなかった。サナはそれ以上は何も言わず、自分の杯に目を落とした。
「……わかりました。じゃあ、三年分のお給金を」
「ああ、それな」
ラッシュは、テーブルに銀貨を三枚置いた。
「お前の給金は、聖剣の手入れ代と相殺した。これが残りだ」
聖剣の手入れは、毎晩俺がやっていた。
油を引いて、刃こぼれを確かめて、鞘の革を拭く。ラッシュは一度も自分でやったことがない。たぶん、どこに油を引くのかも知らない。
その手入れ代を、手入れをしていた本人の給金から引いたらしい。斬新な計算だと思う。
銀貨は十枚で、やっと金貨一枚になる。三年働いて、金貨一枚の三割だ。ギルドに預けてある金貨五十枚の支度金には、一枚も手をつけないくせに。
「……ヴァルテン山には、何日で登るつもりですか」
「三日だ。魔王城まで一直線」
山頂は、標高八千メートルある。
三千を超えたら、寝る高さは一日に三百メートルずつ。それが山の決まりだ。本当なら、ひと月近くかけて登る山を、三日で登るつもりらしい。
「無理です。高い山は、少しずつ登って体を慣らさないと、頭が割れるように痛くなります。そうなったら、下りるしかない。最悪、死にます」
「ほら出た」とブラフが言った。「親父譲りの『引き返せ』だ」
「死なねえよ」とラッシュが鼻で笑った。「勇者の一行には女神の加護がある。体の出来が、そこらの人間とは違うんだよ」
「頭痛なら、私の回復魔法で治せますから」とサナがとりなすように笑った。
治らない。
回復魔法は、傷を塞ぐ。毒も消すし、呪いも祓う。でも、薄い空気を濃くしてはくれない。かけた直後は楽になっても、息が足りない限り、痛みはすぐに戻ってくる。
と説明しようとしたら、ラッシュがもう立ち上がっていた。
「魔王を倒したら凱旋式だ。お前の名前はどこにも出ない。最初からいなかったことにしといてやるよ」
三人は出ていった。
最後にブラフが振り返って、「水筒、借りてくぞ」と俺の水筒を持っていった。
それは返してほしい。
◇
「災難だったね」
酒場の主人が、空いた杯を片づけながら言った。それから、カウンターの奥の棚から分厚い帳面を一冊抜き出した。
この村では、五十年前から毎日の天気を帳面につけている。山とともに生きる村だから、晴れも雨も、風の向きも、雪の量も、誰かが必ず書き残す。今は酒場の主人の当番だ。
俺が記録をつける癖も、たぶんこの帳面を見て育ったからだと思う。
「この時期は、晴れが続く年が多いね。明日の朝も風はなさそうだ」
「午後から崩れますよ」
「なんでわかるんだい」
「夕方、山頂に笠みたいな雲がかかってました。あれが出ると、だいたい天気は下り坂です」
「崩れるなら、西からだね。この山の嵐は、たいていそうだ」
主人は帳面に「ケルン曰く、午後崩れる」と書き足した。それ、書くんだ。
気づくと、隅の席は空になっていた。
◇
翌朝、酒場の二階にある宿の窓から、出発する三人を見送った。
ラッシュは聖剣と軽鎧だけ。サナは白い法衣。ブラフはサンダル。
サンダル。
一度目をこすった。サンダルだった。
標高八千メートルに、サンダル。
さすがに途中で気づくだろう、と思いかけて、やめた。これまで、ブラフが途中で何かに気づいたことは一度もない。
振り返ると、部屋の隅に、パーティの荷物がそっくり残っていた。大きなテントも、毛布も、大鍋も、三人分のアイゼンも。
俺が背負っていたから、俺の荷物だと思ったのかもしれない。
クビになったんだから、もう関係ない。
関係ないんだけど。
背負子の底には、古い革の手帳が入っている。親父の山行記録だ。ルートと、親父が積んだケルンの位置が、全部書いてある。その隣に、俺自身の記録をつける手帳がもう一冊。俺はこの村で生まれて、子どものころは親父に連れられて、四千メートルあたりまで何度も登った。
ただ、親父の手帳の最後のページだけは、まだ開いたことがない。親父が死んでから、なんとなく怖くて。
「……散歩くらいなら、誰にも怒られないよな」
◇
支度には一時間かかった。
宿を出る前に、主人に声をかけた。
「俺の私物だけ持っていきます。ザイルとピッケルとアイゼン、一人用の天幕と小鍋、水袋、燃料と食料、獣脂の灯り、予備の靴と、薬です。ほかは全部勇者様の荷物なので、預かっておいてください」
「テントまで置いてったのかい」
「テントまでです」
主人は呆れた顔で、持ち出した物と残した物を、一つずつ帳面に書きつけてくれた。
この村の人は、何でも書く。
戸口を出ると、白髪の老人が立っていた。昨夜、酒場の隅にいた人だ。
「アンカーの息子か」
「……そうですけど」
老人は、俺の背負子を見て、それからヴァルテン山を見上げた。
「上で親父の石を見つけたら、数えてみろ」
「石?」
「数が合わんはずだ」
それだけ言って、老人は背を向けた。
◇
村は標高千八百メートルにある。
昼過ぎ、森が切れて、標高二千五百メートルの岩と草の斜面に出た。見上げると、ずっと上のつづら折りの道に、三つの人影が小さく見えた。
一人が、道端にしゃがみ込んでいる。
目を凝らした。ブラフだった。サンダルを脱いで、足の裏をさすっている。その横でラッシュが何か怒鳴っていて、サナはおろおろと二人を見比べていた。
まだ、三千にも届いていない。
山頂までの標高差は、あと五千メートル以上ある。
俺は、ため息をひとつついてから、空を見上げた。
山頂の笠雲が、朝より厚くなっていた。
午後から崩れる。帳面に書かれたとおりになりそうだ。
……石の数、か。
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