最終話 道しるべ
春になって、村の酒場の隣に、小屋が一つ建った。
石を積んだ、低い小屋だ。ハーケンの谷の小屋を真似て、壁を厚くした。戸の上に、板を一枚打ちつけた。
ヴァルテン山案内人小屋。
字は、リブラ所長が書いた。銀縁の眼鏡を光らせながら、三日かけて。
「所長、それ、一日で書けませんでしたか」
「書けた」と所長は言った。「三日かけたかったんだ」
◇
小屋には、毎朝、人が来た。
村の若い荷運びたちが、ザイルの結び方を習いに来る。教えるのは、ハーケンだった。字は読めない。でも、結び目は、指が全部覚えていた。
「輪を作って、くぐらせて、引く。違う、こうだ」
ハーケンは、平たい右の靴で床を打ちながら、若者たちの手を、自分の手で直していった。二十年、人を避けていた人だとは思えなかった。
ラッシュは、毎朝、一番重い荷を担いで、村の裏の坂を三往復した。誰にも言われていないのに。
エコーは、ラッシュの後ろを歩いた。俺が坂の上から何か言うと、エコーが一度で復唱して、ラッシュに伝えた。
「ラッシュ、重心が後ろだ、と案内人が言っている」
「聞こえてるよ!」
「伝令は、聞こえていても伝える」
ガルドが一度、王都から馬で来た。エコーの様子を見に来たのだと、本人は言わなかった。坂の下から、三往復を黙って見ていた。
帰り際に、エコーに一言だけ言った。
「三年たったら、伝令の席が一つ、空いている」
エコーは、何も答えなかった。ただ、ガルドの馬が見えなくなるまで、坂の上に立っていた。
◇
サナは、村に残った。施療院の手伝いをしながら、小屋に来ては、俺の手帳と親父の手帳を自分の帳面に書き写している。
夏の初めに、ブラフが一度だけ来た。底の厚い、新しい山の靴を履いていた。王都で一番高いやつだ、と三回言った。
「でも、山は、もういいや」とブラフは言った。「オレは王都で魔法の先生になる。火の出し方より先に、火が出ないところがあるって教える」
「私も、村の子たちに教えてます」とサナが言った。「回復魔法は、高山病には効かない。でも、魔法使いは、下りろ、とは言えるって」
「お前の名前、授業で出していいか」とブラフが俺に言った。
「出さないでください」
「出すからな!」
◇
夏の盛りに、王都から、馬車が一台来た。
黒塗りの車体ではなかった。ふつうの、乗合の馬車だった。
降りてきたのは、分厚い帳面を胸に抱えた女だった。見覚えのある帳面だった。表紙の角が、七千六百の雪で、少し波打っている。
クロニカは、集まってきた村の人たちを見回してから、わざとらしく背筋を伸ばした。
「王都記録院の記録官、クロニカと申します」
初めてこの村に来た日と、同じ名乗りだった。一字も違えずに。
「知ってます」と俺は言った。
「決まりなので」とクロニカは言った。「本日より、ヴァルテン山付きの記録官を命じられました。山に入る者、山から下りる者を、すべて記録します。……案内人小屋は、どちらに」
「目の前です」
クロニカは、小屋の戸の板を見上げて、それから俺の顔を見て、少しだけ笑った。
「エルンスト院長に、お願いしたんです。山の記録は、山で書くのがいちばん正確だと」
「院長は、何て」
「書いてあるとおりにせよ、と」
クロニカは、帳面を開いた。最初のページに、もう何か書いてあった。
「本日、ヴァルテン山麓の村に着任。晴れ、風弱し。西の空に雲なし」
石墨の字だった。
七が、まっすぐ下に抜けていた。
◇
その年の秋、若い冒険者の一行が、村に来た。
四人組だった。剣を背負った少年と、杖を持った少女と、弓の男と、大きな盾の女。魔王城の跡を、一目見てみたいのだという。
酒場で、少年が言った。
「三日で、山頂まで行けますか」
酒場が、一瞬、静かになった。
俺は、少年の足もとを見た。
革のサンダルだった。
「……まず、靴を買いましょう」と俺は言った。「それから、ここに座って、話を聞いてください。山頂まで八千メートルあります。三千を超えたら、寝る場所は、一日に三百メートルくらいしか上げちゃだめです」
「三百?」と少年が言った。「それじゃ、何日かかるんですか」
「ひと月です」
「ひと月!」
少年は、仲間の顔を見回した。仲間たちも、顔を見合わせていた。
ラッシュが、立ち上がった。少年の肩に、手を置いた。
「聞いとけ」とラッシュは言った。「こいつの話は、全部聞いとけ。三日で行くって言った奴を、俺は一人知ってる。そいつは、聖剣を割れ目に落とした。仲間は、サンダルを片方なくした」
「……その人、どうなったんですか」
「荷運びになった」
少年は、ぽかんと口を開けた。
クロニカが、隣の席で、帳面に何か書いていた。
「何を書いてるんですか」
「若い冒険者の一行、三日で山頂へ行けるかと問う。元勇者ラッシュ殿、答える。荷運びになった、と」
「書かなくていい!」とラッシュが叫んだ。
酒場が、わっと鳴った。
◇
ひと月後、俺は、その四人を連れて、山に入った。
靴を履かせた。小鍋と、水袋と、燃料と、食料を持たせた。一人用の天幕と、予備の靴と、薬と、獣脂の灯り。ザイルと、ピッケルと、アイゼン。
一番後ろを、ラッシュとエコーが歩いた。重い荷を背負って。クロニカが、俺の少し後ろを歩いた。一時間ごとに、帳面に何か書きながら。
三千の少し手前の、分かれ道で、俺は大岩の道を選んだ。親父が、子どもの俺には一度も使わせなかった道だ。
三千三百、大岩の東。
ケルンが、そこにあった。
苔をかぶった、七つの石。親父が登りに積んだもの。八つ目は、親父が迎えに戻ったときのもの。九つ目は、俺が、勇者の一行を一人で追いかけた日に乗せた。十個目は、クロニカが乗せた。
少年が、ケルンを見上げた。
「これ、何ですか」
「道しるべです」
「なんで、石を積むんですか」
俺は、背負子の底から、石を一つ取り出した。村を出るときに、小屋の前で拾った石だった。
「帰り道のためです」と俺は言った。「見えないときに、次の石が見えるように。自分と、自分が連れて帰る誰かのために」
十一個目に、乗せた。
少年が、足もとの石を一つ拾って、俺の顔を見た。
俺は、うなずいた。
十二。
クロニカが、帳面に書いていた。俺は、のぞかなくても、何と書いたのかわかった。
時刻と、高さと、天気。誰が何をしたか。
全部、書いてあるので。
◇
見送るのは、慣れていた。
三年間、勇者の一行を、村の入口で、山の途中で、何度も見送ってきた。
でも、もう、見送らない。
俺は、山の案内人だ。
一緒に登って、一緒に下りる。石を数えて、正午には引き返す。
そして、全員を、連れて帰る。
俺は、ピッケルを握り直して、次の石のほうへ、一歩、踏み出した。
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