「こっちはいつ婚約破棄してもいいんだぜ?」と何度も言ってくるので、そうさせてもらいます
王都の大通り沿いにある宝石店のホールでのこと。
店の制服を着用した子爵令嬢の私――エルナ・リヴィラルは、大勢のお客様に見守られる中、目の前の人物から目を逸らしていた。
「エルナ、お前またやったのか? 今朝は大事な取引があると言っておいただろ!」
強い口調で叱責するのは、私の婚約者、ヒース・ルネスト男爵令息。
私の父が投資に失敗して作った借金を返済する代わりに、子爵家の交友関係で商売しようと考えた政略結婚の相手だ。
あまりにも高額な借金を肩代わりしてもらったこともあり、うちの方が爵位は高いものの、頭が上がらない。
そのことを逆手に取ったヒース様は、ストレス発散と言わんばかりに理不尽なことで叱責してばかりだった。
それは今日も同じで、ミスを誘っているかのように昨日と言っていることが違うのである。
「お言葉ですが、本日は夜まで勤務しますので、昼から出勤するように指示を受けたと思います」
「嘘を吐くな! 今朝は大事な取引があるから早く来いと言っておいただろ! だいたいお前は、いつも言い訳ばかりで……」
ガヤガヤと公開説教が始まってしまったが、嘘を吐いたつもりはない。
なぜか私に対する連絡事項だけが、間違って伝えられることが多いのだ。
明日の予定と聞いていたのに、来週の予定だったり。
資料を持ってこなくてもいいと言われたのに、それが必要だったり。
ラフな服装で参加予定する催しが、ドレス着用のイベントだったり。
事前に何度確認しておいても、現場では違うことで、大勢の方に迷惑をかけている。
赤っ恥を掻くだけならまだしも、こうしてヒース様に叱責されるところまでがセットなので、いい加減にうんざりしていた。
おまけに最後は決まって――、
「こっちはいつ婚約破棄してもいいんだぜ? 困るのは、いったいどっちなんだろうな!」
と、脅しをかけてくる始末である。
仮に婚約破棄したら、ルネスト男爵家に肩代わりしてもらった借金を返済する必要が出てくるので、歯向かうことはできなかった。
「申し訳ありませんでした」
「そうだよな? お前が悪いんだよな? お前が取引に参加しなかったから、俺が代わりにやっておいてやったんだぜ?」
「……ありがとうございました。そして、ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
「いい加減に勘弁してくれよな。あーあ、出来損ないの婚約者をもらうなんて、困ったもんだぜ。こんな女をフォローしてやれる人間は、この世に俺くらいだろう」
とにかく婚約者である私を見下して、自分がすごいという風に仕立て上げるのが、ヒース様のやり口である。
お前は俺がいないと何もできない人間だと、洗脳を受けているのかと思わせるほどだった。
無論、こんな対応されることはおかしいと思い、お父様はルネスト男爵に抗議している。
しかし、ルネスト男爵は貴族のコネクションづくりに忙しいのか、この問題に真剣に向き合う様子は見られない。
逆に、我がリヴィラル家のことを悪く言っているという話が聞こえてくるくらいだ。
うちと関係の深い貴族を紹介しているので、悪口が筒抜けなのは、当たり前のことである。
王都に大きな宝石店を出せるほど商才がある家系なのに、親子そろって天狗になり、馬鹿なことをしていると気づかないとは……。
「本当に情けない話ですね」
「そうだな。お前はほんっとうに情けない。ようやく理解できたのか」
こんな男の言うことにヘコヘコと従っているのだから、確かに私も情けない人間の一人だ。
でも、それももうすぐ終わりを告げる。
どうして私がわざわざ不特定多数の人の前で叱責され、何度も何度も名誉を傷つけられるような道を選んでいるのか、ヒース様は知らないのだから。
もしヒース様に情が残っていれば、私はこう警告することだろう。
あまり子爵家を舐めない方がいい、と。
――――――――――――――
大事な打ち合わせを午後に控えた日のこと。
私のシフトは昼からなので、従業員たちの状況を把握するべく、朝から宝石を加工する技工士の女性の元を訪れていた。
「ちょうど今からエメラルドの原石を加工するところね。この原石は……、カシーアス地方のものかしら」
「へえ~……。よくわかりましたね。加工を終えたエメラルドならまだしも、原石を見るだけで産地がわかるとは思いませんでした」
ヒース様に見下されることが多い影響か、こうした従業員のさりげない言葉が嬉しい。
「うちで取り扱っているエメラルドの産地は、四つしかないもの。原石の特徴を覚えているから、わかるだけよ」
「知識だけで目利きができるほど、あまくはありませんよ。この間も仕入れ担当がエルナ様のことを褒めてましたからね。エルナ様の目は誤魔化せない、と」
「それ、褒めてるのかしら」
「嘆いていた、とも言うかもしれませんね」
今でこそ笑い話で済む話なのだが……、あれは半年前のこと。
いつもと違う商人から仕入れをしようとした時、原石に違和感を覚えたことがあったのだ。
品質も悪くないし、値段も安い。ただ、僅かに重く感じる不思議な原石だった。
ちょうどヒース様が不在だったため、私が最終的な判断をすることになり、もったいないけどお断りさせてもらうことに。
仕入れ担当は残念がったものの……その翌月には、加工しても輝くことがない偽造原石だったと発覚して、多くの店が損害を受けたことがわかった。
それ以来、私も自分の目利きに自信を持つことができて、従業員たちからの信頼も高まっている。
もはや『ヒース様よりエルナ様の方がいいよね』なーんて言われるほどに。
実際問題として、私のネガティブキャンペーンをするヒース様は、今や店の評判を下げている。
取引先にも心配の声をかけられているし、この仕事も覚えたから、もうそろそろ……。
そんなことを考えていると、一人の従業員が血相を変えて近づいてきた。
「エルナ様。ちょっとよろしいでしょうか」
「どうしたの?」
「実は、午後の打ち合わせが早まったみたいでして……」
午後に打ち合わせをする予定だと聞かされていたけど、午前中にやる予定だったらしい。
せめて、従業員たちにはちゃんとした予定を聞かせてあげて欲しいものだ。
「そう、わかったわ。すぐに向かうわね」
取引相手を待たせてはいけないので、急ぎ足で商談室に向かう。
すると、そこにはお得意様のランバレル伯爵と共に、商業ギルドの職員、ジーク・フレーデン侯爵令息がいらしていた。
「お待たせしました。遅れてしまい、申し訳ありません」
「いや、構わない」
「僕も問題ないよ」
お二方が大人の対応をしてくださる中、ヒース様は呆れたように大きなため息を吐いていた。
「おいおいおい。まーた遅刻かよ。何度言ったら時間を守れるようになるんだ?」
「失礼ながら、本日は昼からの打ち合わせと聞いております」
「出たよ、虚言癖が。今日は朝から打ち合わせすると言っておいただろ!」
ヒース様の口からは、一言も聞いておりませんよ。
「本当にエルナは役に立たないなー。この際、商業ギルドの職員がいるから言わせてもらうけどさ、お前はもっと誠実であるべきだ。時間を守るなんて、社会では当たり前のルールだぞ?」
「……まあ、そうですね」
「わかってないから言ってるんだろ! お前のせいで、どれだけ俺が恥をかいてきたと思ってるんだ!」
商業ギルドに対して、自身の有用性を訴えたい思惑があるのかもしれないが、完全に逆効果である。
自社の人間を叱責する姿を見せるなんて、店の評判を落とす行為以外の何者でもない。
ましてや、社員教育ができていない自分が悪いと言っているようなものだった。
「時間も守れなければ、仕事もできない。エルナと婚約する前は、俺一人でもゆとりを持って仕事をしていたぞ」
「……」
正確にいえば、ヒース様は一人だけ、ゆとりを持って仕事をしたにすぎない。
私が従業員に聞いた話だと、ヒース様が現場の声を無視し続けた影響で、休日出勤して無理やりノルマをこなす者が多数いたのだから。
作業ミスしたら、給料から天引きするという仕組みも、褒められたものではない。
宝石という高価なものを扱う以上、過剰なプレッシャーを与えているだけだった。
「近年、店の売り上げが増えてきたのも、どう考えても俺の経営手腕によるものだ」
「……」
そんなことを思っているのは、この店でヒース様だけである。
なぜなら、従業員たちと何度も話し合いを重ね、働き方改革を行なったのは、私なのだから。
ノルマ制度を廃止して、歩合制にしたことで、個々のペースで作業できる環境を整えている。
収入に不安がある者のみ、休日出勤や残業を許可することで、目立った混乱は見られていない。
逆に、体調を崩す者が少なくなった影響で、生産性が向上して、売り上げが増加していた。
「商業ギルドが開催した宝石を加工するコンテストでも、うちは賞を取った。他の宝石店からも一目を置かれ、加工技術を学びたいと言われるほどだ。これもすべて……」
従業員たちが頑張った結果によるものだ。
コンテストの賞金を全額自分の懐にしまい込んだヒース様は知らないと思うが、コッソリそれを拝借して、従業員たちとお祝いパーティーを開いたのは、良い思い出である。
どんな暴言を吐かれようとも、私が婚約者という身近な存在である以上、へそくりの場所くらいはわかるものだ。
仮に婚約者のことがまったくわからないようであれば、政略結婚を舐めすぎている。
そう。たとえば、優越感に浸るためだけに侮辱を続け、取引先がいる前でバンッ! と机を叩く彼のような方、とか。
「おいっ、エルナ! 話を聞いているのか! こっちはいつ婚約破棄してもいいんだぜ?」
「では、そうさせてもらいます」
「そうしてくれると助か……はっ?」
突然、今まで散々使ってきた自分の決め台詞を肯定され、呆気に取られたヒース様は口が大きく開いていた。
「な、何言ってるんだよ。お前、俺と婚約破棄したら、どうなるかわかってるのか?」
「はい、存じております。ですから、婚約破棄いたしましょう」
「ま、ままま、待てよ。いったん落ち着け。冗談は顔だけにしておけ」
「冗談ではありません。両者ともに婚約破棄で合意しましたので、その話を進めましょう。まさかとは思いますが、ご自身でおっしゃられていたことが嘘だったわけではありませんよね?」
「も、もちろんだ。お、俺は婚約破棄してやってもいいし、やらなくてもいいと思っている」
「いい加減にうんざりしておりましたので、婚約破棄します」
私が冷静に対処している影響か、突然のことに戸惑いを隠せないのかはわからない。
ただ、明らかにヒース様は動揺しているみたいで、手が震え始めていた。
「い、いいのか? お前の家の借金は、うちが肩代わりしてやったんだぞ? 婚約破棄したら、その分を請求するぞ!」
「問題ないと思います。これまでの発言を踏まえた上で婚約破棄しますので、それなりの慰謝料が得られるかと」
「は、はあ? い、慰謝料……だと!?」
「当然のことでしょう。婚約者だからといって、暴言を吐き続けてもいい理由にはなりません。二人だけの空間ならまだしも、不特定多数の方がいる場所で罵倒を繰り返せば、名誉棄損になりますね」
ちょうどこの場にも、名誉を重んじる貴族の方が偶然にも二人もいらっしゃいますし、大勢の従業員たちが証言してくれることでしょう。
数週間前に行なった取引先に対するアンケートも証拠になるかもしれないわね。
逃げ道なんて一つも残らないように、すべて潰しておいたのだから。
「ば、ばばば、馬鹿馬鹿しい! じゃあ、今すぐに肩代わりしてやってる金を払え! そうしたら、婚約破棄してやる!」
それくらいの無茶苦茶な要求をされることくらい、ヒース様と婚約していた私が考慮していないはずがない。
フーフーと息を荒くするヒース様から視線を外した私は、ジーク・フレーデン侯爵令息に目を向けた。
すると、懐から小さな小切手を取り出し、差し出してくれる。
「エルナくん、これで足りるかい?」
「はい、ありがとうございます。では、ヒース様。こちらで返済しますので、婚約破棄の話を進めましょう」
「えっ? ……えっ!?」
小切手を受け取ったヒース様は、もはや何が起きているのか理解できていない。
挙動不審な動きをするだけで、目の前のランバレル伯爵とジーク様に冷たい眼差しを送られていることに気づいていなかった。
「こちらのランバレル商会から、商業ギルドにタレコミがあってね。この店で契約の話をしようとすると、いつも不快な思いをすると聞いたんだ。そうでしたよね?」
「うむ。なぜかわからぬが、いつも連絡に不備が生じているみたいで、エルナさんが怒られてばかりいるんだ。さすがに連絡体制に問題があるのではないかなーと思いながらも、他店のことに口を挟むわけにはいかない。そこで、商業ギルドに報告していたんだよ」
当然、私はそのことで商業ギルドに呼び出されて、いろいろと事情を聴かれた。
店の従業員にも何人か声がかかり、私の言い分が正しいことだと証明されている。
よって、この場に商業ギルドの職員が立ち会っているのは、取引に関することが目的ではない。
商業ギルドに所属する人間が不当な行為を働いていないか、確認に来ているのだ。
「すでに商業ギルドで調査を終えて、現状を把握しているつもりだ。僕も間近で見させてもらったけど、予想以上だね。商業ギルドの間でも、君の言動は度を越えていると問題になっているよ。何度かルネスト男爵にも声をかけたんだが、改善する見込みが見られないから、こうして動くことになったんだ」
「い、いや。でも、これはルネスト男爵家とリヴィラル子爵家との問題で……」
「そのリヴィラル家が訴えても、君は態度を変えなかったそうだね。婚約者に対して、もっと敬意を払うべきなんじゃないかなあ。ましてや、相手側の爵位の方が上であれば、なおさらね」
「それは……、商業ギルドの人間が関与するべき問題じゃない。ましてや、どこの馬の骨かわからない商業ギルドの職員が口出しするのは、明らかにおかしいだろ」
目の前にいるジーク様がフリーデン侯爵家の人間だと知らないのか、ヒース様はとんでもない暴言を吐いてしまう。
しかし、不敵な笑みを浮かべるジーク様は、気にした様子を見せなかった。
「君の言う通り、基本的に商業ギルドも個人間の問題に関わることはない。でもね、例外は存在するんだよ」
足元に置いていた鞄から一つの書類を取り出したジーク様は、そっと机の上に置いた。
それは、この店の賃貸契約に関する書類である。
「地主側の判断によって、この店舗の契約は、来月末を目途に解約させてもらうことになった。これは決定事項だ」
「はっ? 何を言って……」
「君に断る権利はない。この店舗の賃貸契約にも、問題を確認した場合、地主側の意向でいつでも解約できると記載されている。詳しいことは、実際に契約した君のお父様が知っているんじゃないかな。後で話し合うといい」
さすがのヒース様も、商業ギルドの職員が嘘を吐くはずないと思ったみたいで、呆然とすることしかできなかった。
借金で首が回らなくなったうちが言うのもなんだけど、お金に溺れた者の末路は悲しいわね。
まあ、私がいろいろと手を回していた結果なので、本当に私が言うべきことではないけど。
良い気味だわ、と優越感に浸っていると、ジーク様がまた別の書類を取り出した。
「ついでと言っては何だが、エルナくん。こちらはこの店舗の新しい契約書だ。今月中に商業ギルドに提出してくれ」
「はい。わかりました」
何気ない顔で契約書を受け取った私は、ジーク様も悪いことを考えるお方だと思った。
先ほどから不敵な笑みを浮かべたままなので、『どこの馬の骨かわからない』と言われたことに対して、腹を立てているに違いない。
その結果、ヒース様を完膚なきまで叩きのめす必要があると判断して、このような行動を取ったのだ。
当然、大混乱中のヒース様は罠にかかるしかないが。
「どうしてお前がこの店舗を契約しようとしているんだ?」
「どうしてと言われましても……。仕事の内容は覚えましたし、この仕事に需要があることは知っていますからね。ちょうど解雇されそうな従業員さんもたくさんいるので、大きな店舗で事業を始めてみようかと思いまして」
当然、再三にわたって名誉を傷つけられた私には、それを回復させる権利がある。
何度も恥をかかされていたので、彼の地位を奪うくらいことはしなければならなかった。
リヴィラル家の令嬢はただ者ではない、そう思わせなければならないのだから。
おまけに婚約破棄して経歴も傷つくことになるので、この機会を逃すはずがない。
「ふ、ふざけるな! こんなの店の乗っ取りだ!」
「商家の方が何を言っているんですか? 根回しは立派な仕事のうちの一つだと、私はこの店で学びましたけどね」
「言いがかりはよせ! 最初から婚約破棄して、この店を乗っ取ることが目的だったんだろ!」
「そちらこそ変な言いがかりはやめてください。今回の件については、こちらの地主様の提案を受け入れた結果です」
私は不敵な笑みを浮かべるジーク様に向けて、スーッと片手を差し出した。
「ああー……、君とこういう仕事の話をするのは、初めてだったね。僕はこの店舗の権利書を持っているフリーデン侯爵家の息子さ。今は商業ギルドに在籍して、勉強させてもらっているよ」
血の気がサーッと引いたヒース様は、急に顔が青くなっている。
もはや、後戻りすることはできない。
商業ギルドに反論するだけならまだしも、地主様を侮辱してしまったのだから。
「どこの馬の骨かわかってもらえたみたいだね」
「……」
今頃になって、ヒース様は自分の発言を後悔しているのかもしれない。
ただ、一度言った言葉を取り消すことはできないので、ヒース様はバツの悪そうな顔をすることしかできなかった。
「商業ギルドの登録についても考え直す予定だから、ルネスト男爵に足を運ぶように伝えてほしい」
「な、何もそこまでしなくても……」
「それを考えるのは、商業ギルドの仕事だ。君は自分のことを心配するべきじゃないかな」
「……」
「じゃあ、エルナさん。商業ギルドに足を運んでもらってもいいかな。今回の一件の詳しい報告書を書くために協力してもらいたんだ」
「わかりました。商業ギルドに協力することは、店側の義務になりますので、お付き合いさせていただきます」
絶望的な表情を浮かべるヒース様を置いて、私たちは商談室を後にするのだった。
―――――――――――――
数か月後。
無事に私たちの婚約は破棄され、多額の慰謝料を得ることに成功した。
といっても、無理な金額は請求していない。
今回、ジーク様に立て替えてもらった借金を返済してもらう形で話がついた。
仮にさらに高額な慰謝料を請求したとしても、支払われる見込みがないからである。
商業ギルドに在籍するルネスト家は、その名誉を傷つけたことにもお叱りを受け、ギルド資格がはく奪されそうになっていた。
そのため、多額の寄付金を納めることで難を逃れたと聞いているので、ない袖は振れない状況なのだ。
無論、王都で店を開くような資金は残っていない。
他の地域で再スタートを切るとのことで、あの日以降ヒース様の姿を見ることはなかった。
あれだけ毎日理不尽な罵倒をされていたため、彼に同情することはない。
従業員たちも納得してくれていて、前向きに再スタートしようと、私の背中を押してくれるほど頼もしかった。
そんなこんなで従業員たちが頑張ってくれているおかげもあり、新しく店主に就任した私は、とても忙しい。
普通なら婚約破棄などという悪いニュースが流れ、経営に悪影響を与えるはずなのだが……。
なぜかマダムたちの評価を得て、異常なほど宝石が売れるようになっていた。
「なかなか素敵な宝石ね。商売に魂を売った令嬢が営んでいるというのは、本当だったのね」
「やっぱり商売をするのであれば、身内を蹴落とすくらいがちょうどいいと思うわ」
「信念の強い女性ほど、宝石に負けない輝きを放つものよ。女の幸せを捨ててまで店をやるなんて、素敵な生き様ね」
お褒めいただき光栄だが、私は決して、生涯独身を貫こうと考えているわけではない。
一度婚約破棄した傷物令嬢なので、素敵な縁談話が来ることはないと思っているけど、変な男の元に嫁ぐつもりもない。
ただ、ヒース様の一件があって、まるっきり男運がない……ということもないような気がしている。
その証拠と言わんばかりに、割と定期的に会いに来てくださる方が、今日も店に顔を出してくれていた。
「随分と繁盛しているみたいだね」
商業ギルドで親身になって対応してくれ、借金の肩代わりまで申し出てくれたジーク様である。
あれは彼の人柄によるものだったのか、それとも、個人的な感情でも持ち合わせてくれていたのか……。
ハッキリとした答えがわからないので、私はいつもと同じように対応する。
「おかげさまで。フリーデン家が後ろ盾になった店という噂も流れているみたいで、いろいろな方にお声がけいただいております」
「そうだったのかー。僕は全然そんなつもりなかったんだけどなー」
絶対に意図的に流してくれていると思う。
何度も足を運んでくれているのも、その噂に信憑性を出し、店の収益を上げるためかもしれない。
地主様の息子なら、やっぱりうちの店の売り上げが気になるはずだから。
もしくは、個人的な別の理由があるのかもしれないけど。
「ところで、本日のご用件はなんですか?」
「おや、客として来てはいけなかったかい?」
「フリーデン侯爵家に贔屓していただくのはありがたいですが、商業ギルドもそれほど暇ではないと思いますから」
苦笑いを浮かべたジーク様は、鞄から一枚の紙を取り出した。
「前回のこともあるから、商業ギルドは気にしていてね。この店の従業員に聞き取り調査を行ない、現状を把握することになったんだ。それも、抜き打ちでね」
「まあ。抜き打ちだなんて、怖い話ですね」
「心にもないことを言ってるようにしか聞こえないね。それとも、何かやましいことでもあるのかい?」
「さあ、どうでしょうか。残ってくれた従業員の給料をあげたばかりですので、口止め料と疑われないか心配しているくらいです」
「おっと、それは重要な話を聞いてしまった。もっと詳しい話を聞く必要があるから、今晩、一緒に食事でもしながら話すのはどうだい?」
こうしてジーク様は、何かしら理由をつけて食事に誘ってくれることが多い。
かといって、私たちの関係性は発展していないので、複雑な思いでいっぱいだった。
しかし、もうそろそろハッキリさせたいところである。
侯爵家に相応しい令嬢とは言わないが、それなりに経営手腕があることは証明されているのだから。
後は……女性としての価値を判断されるくらいだろうか。
「北区にある魚が有名なお店であれば、首を縦に振るかもしれませんね」
「その話、乗った。あの店の白身魚には、白ワインが堪らないんだ」
「いいですね。明日は店が休みですので、そちらもお付き合いしましょう」
「おっ、珍しいね。君がお酒を飲むなんて」
「弱いですけどね。でも、たまにお酒が飲みたくなる時もあるんですよ」
そう。たとえば……少しくらいは甘えてみようかなと考えている時なんかは、ね。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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