第24話 低い光
王は、しばらく俺を見ていた。
それから、壇の脇に控えていた侍従に、小さくうなずいた。
広間の窓に、厚い布が引かれた。高い天井の燭台が、一つずつ消されていく。広間が、夕方のように暗くなった。
残ったのは、王の前の机の、手燭が一つだけだった。
「記録官殿」と俺は言った。「持ってください。紙の横から。机と同じくらいの高さで」
クロニカが、壇に上がった。王の許しを得て、手燭を取った。
炎を、ゆっくりと下げていく。机の面すれすれまで。手記の、六千五百の段の、横から。
光が、紙の上を、這うように走った。
◇
はじめは、何も見えなかった。
石墨の字が、黒く並んでいるだけだった。その間の余白は、ただの白。
クロニカが、手燭を、指一本ぶん下げた。
余白の白の中に、影が出た。
細い、浅い、筋の影。石墨は削り取られて、紙には何も残っていない。でも、書いた手が押しつけた跡だけは、紙の繊維の中に、溝になって残っていた。
低い光が、その溝に、影を落としていた。
朝の雪原で、割れ目が浮かび上がるのと、同じだった。
クロニカの唇が、動いた。
「同じ夜。記録係が、俺の天幕に来て言う」
声が、震えていた。でも、一字も迷わなかった。
「ここで引き返せば、シュルントの死は無駄になる。勇者の名は記録に残らない、と」
顧問の一人が、身を乗り出した。王が、自分で机の上をのぞき込んだ。
クロニカは、手燭を、次の余白へ動かした。
「記録係の名を、ここに書いておく」
影の字が、一つずつ、浮かび上がっていく。
「記録院の、若い書記」
クロニカは、そこで一度、息を吸った。
「パリム」
◇
広間の誰も、しばらく、声を出さなかった。
クロニカは、手燭を動かし続けた。五千の段。遅い、と記録係が言う。七千四百の段。記録係が、夜のうちに一人で外へ出て、下ろうとした。七千六百の段。記録係には、この帳面を置く場所を言っておく。アンカーが迎えに戻ったら、あいつに伝えろ、と。あいつは記録係だ。書くのが仕事だ。
どの溝も、写しの字と、一つ残らず同じだった。
七千六百で、クロニカが一晩かけて写した字と。
「……写しは、書き足したものではない」と王が言った。
低い声だった。
「削ったのは、原本のほうだ」
クロニカが、手燭を机に置いた。
「先生は、削ると思っていました」と、小さな声で言った。「燃やせない人ですから。燃やせないなら、削るしかない」
王が、顔を上げた。
パリムは、エルンストの後ろに立ったまま、動かなかった。
表情は、変わらなかった。ただ、長衣の袖の中で、右手の指が、ゆっくりと握られていくのが見えた。
「パリム」とエルンストが言った。
かすれた声だった。
「この手記は、三日前から、書庫の鍵のかかる棚にあった。鍵を持つのは、わしと、お前だけだ」
パリムは、答えなかった。
「お前の部屋の、灯りが」
エルンストは、そこで言葉を止めた。
「……一晩中、消えなかったと、聞いた」
◇
エルンストは、立ち上がった。
「陛下。書記長の部屋の、棚を開けさせていただきたい。院長の鍵で、記録院のどの棚も開けられます」
王が、うなずいた。
「騎士ガルド、院長に付き添え」
ガルドが、エルンストと一緒に、広間を出ていった。
待つあいだ、誰も口をきかなかった。
パリムは、まっすぐ前を見ていた。クロニカは、手燭を机に戻して、壇の脇に立っていた。パリムのほうを、一度も見なかった。
半時間ほどして、二人が戻ってきた。
ガルドが、木の箱を一つ、抱えていた。
エルンストが、箱の蓋を開けた。
中には、紙の束が、いくつも入っていた。
一番上に、パン屑と、小さな刃物と、石墨の粉がついた布。
「鍵は、かかっていなかった」とガルドが言った。「棚の扉は、半分、開いていた」
隠しても、いなかったのだ。
その下に、綴じ糸の切れた、古い紙の束。
「記録院の、山行記録の用紙だ」とエルンストが言った。紙をめくる指が、震えていた。「二十年前の、グロリオス様の隊の記録係の帳面の……七千から上の頁だ。書庫の原本から、切り取られていた頁」
エルンストは、その下の束を取り出した。
封の切られた、手紙だった。三通。
宛名の字を見て、俺は息を止めた。
親父の字だった。
「記録院長殿」。「グラート殿のご家族へ。記録院気付け」。「記録院長殿、重ねて」。
リブラ所長が、腰掛けの端で、目を閉じた。
エルンストは、一通目を開いて、読んだ。黙って。最後まで。
手紙を机に置いて、両手で顔を覆った。
「……わしに、宛てたものだ」とエルンストは言った。「七千六百で何があったか。グロリオス様が、何と命じたか。記録係が何をしたか。全部、書いてある」
エルンストは、手紙を見下ろしたまま、続けた。
「討伐隊に記録係を出したのは、前の院長だ。わしが院長になったとき、手元に届いていたのは、ラクナという筆名だけだった。山の件の手紙は、その記録係に回して報告と照らし合わせよ、と決まっていた。取り次ぎを引き受けたのが、若い書記のパリムだった。……わしは、一度も、確かめなかった」
エルンストは、顔を上げた。
「わしも、読まなかった者の一人です、陛下」
◇
王が、壇の脇の侍従を呼んだ。
「わしの口述の控え帳を、持ってまいれ。二通目の書状の、前の日のところだ」
王の言葉は、清書の前に、侍従がその場で控え帳に書き留める。書記長の手を通らない、ただ一つの記録だった。
侍従が戻ってきて、控え帳の一頁を、王の前に開いた。
王が、それを読んだ。
王の顔が、ゆっくりと変わっていった。
「元勇者ラッシュは、村にとどめ、王都からの迎えを待たせよ」
王は、控え帳を閉じた。
「わしは、そう言った。書記長が清書した書状を、書記長が読み上げるのを聞いて、わしは封をした。二十年、そうしてきた。……読み上げたものと、書いたものが、違っていたのだな」
ハーケンが、杖を握りしめていた。
読み上げたものと、書いてあるものが違う。
二十年前、谷の小屋で、字の読めない荷運びにしたのと、同じことを。
この人は、王にもしたのだ。
◇
「パリム」と王が言った。「申し開きはあるか」
パリムは、しばらく何も言わなかった。
それから、静かに、一歩前に出た。左の足を、少しだけかばって。
「ございません」
穏やかな声だった。最後まで。
「六千五百で、勇者様に、行けと言ったのは私です。勇者の名が残らなければ、記録係の名も残らない。私は、若かった。自分の書いた記録が、勇者の名と一緒に、記録院の棚に並ぶのを見たかった」
パリムは、自分の長い指を見下ろした。
「七千四百で、怖くなって、逃げました。足をくじいて、動けなくなって、アンカー殿に背負われました。……あの人の背中は、温かかった」
広間が、静まり返っていた。
「七千六百で、勇者様は、私にだけ、手記の置き場所を言いました。アンカーが迎えに戻ったら、あいつに伝えろ、と。それから、言いました。記録係、お前が書け、と」
パリムの声は、変わらなかった。
「村に着いた次の朝、アンカー殿は、もう山へ戻る支度をしていました。私は、宿の窓から、それを見ていました。足が痛いふりをして、寝台から出ませんでした。……言えば、アンカー殿は手記を掘り出す。手記には、私のことが書いてある。それを、知っていましたから」
パリムは、少しだけ笑った。
「書けませんでした。本当のことを書けば、私の名が残る。勇者を死なせた記録係の名として。だから、書かなかった。代わりに、別のことを書いた。案内人が逃げた、と。勇者様が言ったとおり、書くのが私の仕事でしたから」
「なぜ、燃やさなかった」と王が言った。
「燃やせませんでした」とパリムは言った。「記録院の書記は、最初に、書いたものは燃やすなと教わります。どんな記録でも、いつか誰かの役に立つから、と。……私は、それだけは、守りました」
クロニカの肩が、小さく震えた。
「勇者様の手記も、燃やせなかった。取りに行くこともできなかった。私の足では、七千六百には立てません。案内人を雇えば、案内人に見られる。だから、山の上に埋まったままにしておきたかった。二十年、勇者はあの山に来なかった。来なければ、それでよかった。……それなのに、今度の勇者の案内人は、アンカー殿の息子だった。埋めたままには、もうしておけなかった。案内人より先に、加護のある勇者に掘らせて、王都の宿で、私の手に戻す。……そのつもりでした」
「削った跡が残ることは、知っていたのか」と王が言った。
「知っておりました」とパリムは言った。「石墨は、押して書くものですから。ですが、灯りを低くして紙を見る者が、陛下の広間にいるとは思いませんでした。記録院では、誰も、そんな見方はいたしません」
パリムは、少しだけ俺のほうへ目を動かした。
「雪の上で、割れ目を探す者でなければ」
パリムは、俺を見た。
初めて、まっすぐに。
「お父上に、よく似ておられる。背負子の担ぎ方が」
俺は、立ったまま、パリムを見ていた。
聞きたいことは、たくさんあった。親父の手紙を読んで、何を思ったのか。エコーに、何を言ったのか。俺のザイルが切られたと聞いて、どう思ったのか。
でも、口から出たのは、一つだけだった。
「親父は、あなたを背負って、何と言いましたか」
パリムの目が、わずかに揺れた。
長い沈黙のあとで、パリムは答えた。
「……重くない、と」
それきり、パリムは何も言わなかった。
◇
衛兵が、パリムの両脇に立った。
パリムは、自分から歩き出した。広間の扉のほうへ。
クロニカの前を、通り過ぎようとしたときだった。
「先生」
クロニカが、言った。
パリムが、足を止めた。
「どうして、私を、今度の記録官に推したんですか」
パリムは、振り返らなかった。長いこと、黙っていた。
「……お前なら、何を見ても、書くと思った」とパリムは言った。「書いてほしかったのか、書かないでほしかったのか。二十年たっても、私には、わからなかった」
クロニカは、唇を噛んだ。もう一つ聞いた。
「どうして、私に、七を跳ねないように教えたんですか」
「……私の癖が、お前に移らないように」
少しだけ間を置いて、言った。
「字のことだけでは、なかった」
パリムは、扉の向こうへ歩いていった。
左の足を、少しかばいながら。
クロニカは、その背中を、最後まで見送っていた。手燭の小さな炎が、机の上で、まだ揺れていた。
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