(6)彼の正体
「痺れたぜ。男相手に簪ブッ刺すたァ、なかなかやるじゃねェか」
唇の隙間から白い煙を零しつつ、百丸様は私を抱え、ひらりと橋の上に舞い戻った。
「……私、夢でも見てるのかしら……」
まるで、雲の上に乗って帰ってきた気分だ。
今の私は多分、相当間抜けな顔をしている。
「ところがどっこい。現実なんだなァ、これが」
百丸様は私を橋の上に下ろすと、私の頬を指でつついた。
少し硬い指先の感触と、内側のほのかな熱が伝わってくる。
私に、これは現実に起きていることだ、と教えてくる。
すると、それを見ていた柿本が、悲鳴を上げるように叫んだ。
「てめえぇっ……! 玉樟に気安く触るんじゃねえ!」
「あン? てめェこそ汚ェ手で玉樟に触んな」
百丸様は柿本に言い返しながら、自分が着ていた羽織を私の肩にサッと着せた。
いつの間に冷えていたのか――たった一枚の羽織が、驚くほど温かい。
「うるせぇ! そいつは俺の女だぞ!」
「おーおー、そいつァめでてェ妄想だ。冗談言うんなら鏡見てからにしな」
百丸様は哀れとでも言わんばかりに眉尻を下げ、肩をすくめた。
「てめェみたいな素寒貧のド三一がよ、玉樟に指一本触れようってのが、そもそもの間違いなんだよ」
「俺は! 俺は玉樟を愛しているんだ!」
「結構、結構。で、愛ってのは女の首を絞めることかィ? 随分お行儀の悪ィ愛だなァ、ええ?」
「俺は悪くねぇ! その女が俺を受け入れねぇのが――!」
「抜かすなよ、豚野郎」
唾を飛ばしながら筋違いな怒りをぶちまける柿本。
それを静かに、けれどビリビリ響くような低い声で牽制する百丸様。
「てめェが愛してんのァ自分だけだろうが。
散々女を傷つけたくせして『愛してる』なんざァ、虫がよすぎんだよ、ドブカスが」
最後の彼の罵声は、地鳴りのように重く鳴り響いた。
それは、まさしく殺気だった――柿本は、目の前の男の気迫に、完全に圧されていた。
「ぐぎ、ぎ……ッ! おい、赤鬼! さっさとこの野郎を殺せ!!」
柿本は歯ぎしりをしながら、先ほどから後ろで棒立ちになっている赤鬼に命令した。
しかし、赤鬼は大きな目を丸くして、「えっ!?」とでも言うようにうろたえた。
「な、何してやがる! 早く動け!」
「む、うう……?」
赤鬼は情けない声を漏らしながら、どうしていいのか分からず困惑している。
その仕草が、かえって痛々しかった。
彼は人を傷つけるような存在ではない――そのことが、見ているだけで分かる。
「ふざけんな、この役立たずがあっ!」
柿本は怒りに任せて赤鬼の脛を思いきり蹴りつけた。
「ぎゃんっ!?」
赤鬼が高い声を上げて、その場にうずくまる。
両手で脛を押さえ呻き、涙をぽろぽろとこぼしている。
その姿は、鬼というより怯えた子供だ。
「てめえ、泣く暇があったら働けッ!」
柿本はなおも罵声を浴びせ、転がる赤鬼の頭をさらに蹴り上げた。
乾いた音が響く。陶器を蹴ったような鈍い衝撃音だった。
「やめなさい! 痛がってるでしょう!」
私が叫んでも、柿本は止まらなかった。
足を振り上げ、何度も何度も赤鬼を蹴り続け――
「――やめろって言ってんだろがァ!!」
とうとう激怒した百丸様が声を上げ、柿本を片手で突き飛ばした。
巨大なゴム鞠のような体つきの柿本は、まるで棍棒でぶん殴られたかのように後ろへ吹っ飛ぶ。
欄干に頭をぶつけたのか、柿本はほんの少し呻いたきり、動かなくなった。
「大丈夫かィ、坊主?」
百丸様はしゃがみこみ、泣きじゃくる赤鬼の頭を優しく撫でた。
うつむいている赤鬼の目には、大粒の涙が浮かんでいる。
「よしよし。ったく……人間ってのァ、どうしてこう雑なんだろうな……ん?」
なにかに気づいた百丸様が、赤鬼の頭を覗き込む。
そして、すぐさま「ああ!?」と声を上げた。
「なんてこったィ! お前さん、ひび入ってるじゃねェか!」
「……ひび?」
どういうことだ、何が起きているのだ、と私も近づいて覗いてみる。
すると、赤鬼の頭の上に、朱塗りの盃が乗っているのに気づいた。
伏せられた格好のそれには、よく見ると小さなひびが入っている。
「貴方……どうして盃なんて持っているの?」
「お? 玉樟は初めて見たかィ? こいつァな、盃の付喪神だよ」
「付喪神……って、作られて百年経った道具に宿っているとかいう、あの?」
「おうよ」
私は呆気にとられた。
付喪神なんて、昔話や伝承の中だけのものだと思っていた。
物に心があることは理解していたけれど、まさか、本当に……
「付喪神って、本当にいたんだ……」
「いたのさ。アンタの周りにだって、たくさん」
呆然と突っ立った私のほうへ、百丸様がちらりと視線を寄越した。
「アンタが今まで話していた“道具たち”――あれァみんな、付喪神の子供みてェなモンだ」
それを聞いて、私はすとんと腑に落ちた。
私が今まで触れてきた者たちの正体。
初めて遭遇した赤鬼に対して、不安や恐怖を一切感じなかった理由。
――長らく探していた答えの一つに出会えたような、奇妙な安堵。
「人と同じで、物にも心がある。
丹精込めて作られた物、長く使い込まれた物、丁寧に手入れされた物――
人の愛着を受ければ受けるほど、物の心は磨かれ、魂に昇華する。
それが、俺たち付喪神だ」
私は彼の言葉を黙って聞いていた、けれど。
「待って。今、俺たちって言った?」
「言った」
百丸様はふわぁっと煙を吐きつつ、片目を瞑ってみせた。
まさか、そんな、でも、けれど――
「百丸様……貴方、まさか――」
「おい! なにイチャついてんだ、てめぇら!!」
私が肝心なことを聞く前に、意識を取り戻した柿本が怒鳴り声をあげた。
百丸様の艶っぽい微笑みが、「チッ」という舌打ちと共に仏頂面に変わる。
「てンめェ……今いいところだったろうがよォ……!!」
いい雰囲気を台無しにされ、百丸様のこめかみには青筋が浮かんでいた。
「お前もだ! なんでそいつに懐いてやがる!」
柿本は赤鬼にも人差し指を向けながら喚く。
赤鬼はすでに泣き止み、百丸様のすぐそばで小さく座っていた。
頭の上の盃を撫でられながら、どこか安心しきった表情をしている。
「お前は俺の蔵から出てきたんだ! 最初に見つけたのは俺なんだから、俺が主人だろうが!」
赤鬼を威圧するように怒鳴る柿本だが、赤鬼はすでに百丸様にべったりだ。
自分を蹴った柿本のことは、完全に敵と認識したらしい。
百丸様にしがみついたまま、ぶんぶん首を横に振って拒絶している。
「ち、ちくしょう……! どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって……!」
孤立無援のこの状況で、柿本は怒りのぶつけどころも分からず地団駄を踏んでいた。
そんな柿本に、百丸様がさらに追い討ちをかける。
「まだ分からねェか? てめェは男としても人間としても下の下だって言ってんだよ」
百丸様の『下の下』という物言いは、特に効いたらしい。
柿本はとうとう限界を超えたのか、
「上等じゃねぇか……てめぇらまとめてブッ殺してやる!」
と懐に隠していたらしい小刀を引き抜き、その切っ先をこちらに向ける。
刃物という明確な凶器を前に、私は戦慄した。
しかし、百丸様はそれでも平静を保っている。
「――三倉珠希」
百丸様が、私の名を口にする。
花魁としての名ではなく、私の真の名を。
「約束だ。俺の秘密を教えてやる」
「……今、この状況で?」
「今だからだ。まァ見てな」
修羅場に不似合いな笑みを浮かべる彼に、刃を構えた柿本など眼中にない。
それが柿本の怒りをさらに煽った。
「無視するなアアアア!!」
激昂し、小刀を握りしめて迫ってくる柿本。
しかし、柿本の小刀が彼に触れようとしたとき、百丸様の身に信じられないことが起こった。
小刀の先が到達したかと思った瞬間――百丸様の姿が、ふわっと消えたのだ。
空中をぷかぷか漂っていた煙が、一陣の風でたちどころにかき消されたかのように――百丸様の形は一瞬で消えてしまった。
「なッ……ふんぎゃ!」
柿本はなにもない空間に前傾姿勢のまま突っ込み、そのまま顔面から転倒した。
「野郎、どこいきやが――ッ!?」
「ここだよォ」
体を起こした柿本は、背後に突然現れた百丸様に耳打ちされ、「ひぃっ!?」と後ずさった。
やはり、何度見ても見間違いではない――百丸様は自由自在に、自分の体を煙へと変えている。
奇術師のような立ち回りに圧倒されている私に、彼は笑いかける。
「俺ァ付喪神――刃を持たない民草のために生まれた、喧嘩煙管の付喪神だ」
百丸様は口に咥えていた煙管を高く掲げた。
月明かりで柔く輝く、銀の胴体。
無骨で、目を引く装飾はないけれど――それでも、紛れもない時代物だった。




