(5)赤鬼と痛客
百丸様に賭けを持ちかけられてから数日後。
難航するかと思われた私の身請け話は、ことのほかあっさりと進んだ。
私を身請けさせることを渋りまくっていた楼主を、一体どうやって説得したのか――気になった私は百丸様に聞いてみたけれど、
「なァに、金の力と貿易商の交渉術のなせる技さ」
としか教えてくれなかった。
私の身請け金は相場の数倍の額だったらしいので、それも間違いではないのだろう。
しかし、交渉の場から半泣きで出てきた楼主を見るに、明らかにそれ以外の力も働いていたように思われる。
もちろん、私はその先をあえて詮索しなかった。
そして、身請け当日の夕方ーー花街が夜の顔を見せる頃。
客が来る前の私室では、ヨネとフクが私の身支度を手伝っていた。
豪奢な着物に身を包み、唇には笹紅を引き、髪は鼈甲の簪で飾る。
姿見に映る花魁・玉樟の最後の晴れ姿は、今までで最も華やかだった。
「玉樟姐さん、いよいよですね」
「ええ。いよいよだわ」
大広間からは酒の香りが漂い、盃と徳利がひっきりなしに音を立てている。
身請けの瞬間が近づいてきているのだと、ようやく実感が湧いてきた。
「……そんな顔しないで。アンタたちなら、しっかりやっていけるわ。私が教えた子たちだもの」
目を潤ませている二人の頬を撫で、微笑みかける。
すると、二人とも我慢の限界に達したのか、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「姐さん……今まで、お世話になりました」
「どうか、百丸様とお幸せに」
「ええ。アンタたちも、追いかけてきなさいね」
私は二人を抱きしめながら返した。
私と同様に身売りされてきた彼女たちを、ここに置いていかなければならないのが、とても心苦しい。
けれど、もう行かなければ。
さあ、と彼女たちを促したーーその時だった。
「! 今、外から叫び声が聞こえた気が……」
ヨネの言葉を皮切りに、通りを行く人々が騒ぎはじめる。
酔っ払いの喧嘩……にしては、少し様子がおかしい。
「二人とも、下がってなさいな」
剣呑な雰囲気に怯える二人を部屋の奥にやって、私は窓の外の様子を伺う。
外にはいつの間にか人だかりができている。
その中心に目をこらせば、なにやら蠢く炎のような赤い物体が見えた。
(ボヤ騒ぎ? ……違う、あれは)
街の灯りに照らされたそれは、よく見ると人の背中のように見える。
人々が遠巻きに見守る中、赤い背中は通りをうろうろしている。
首を左右に動かし、「うぅ~」と唸る姿は、迷子の子供のように頼りなかった。
ふと振り向いたその頭部に、二本の角が見えたとき、
「――え? 鬼……!?」
と、私はつい声に出してしまった。
すると、鬼が顔を上げ、私のほうを見た。
パチッと目が合い、私はほとんど反射的に(あ、まずい)と思った。
瞬間――赤鬼は渾身の力で跳躍し、人だかりを跳び越え、屋根瓦の上を走ってくる。
まるで子供が飛び石を軽く飛んでいくように、あっという間に私のいる場所まで迫ってくる。
「え、ちょっ……」
一連の動作が速すぎて、恐怖を抱くいとまさえなかった。
赤鬼は障子の外から両手を伸ばすと、私の体を魚のつかみ取りのように捕まえた。
「きゃーっ!」
「姐さぁんっ!!」
ヨネとフクの悲鳴が、瞬く間に遠ざかっていく。
私の体が、どんどん建物から引き離されていく。
赤鬼は私を両手で捕まえたまま、どこかに向かって駆けていた。
「貴方……!」
なにをするの、と声を上げようとして、すぐにやめた。
赤鬼の表情が、なんだか困っているように見えたから、怒鳴るのを躊躇ってしまったのだ。
赤鬼は眉尻を下げた表情のまま、花街の外まで駆け続け、とある橋の上に来たところでようやく停止した。
「よくやったぞ、赤鬼!」
と、聞き覚えのある声が赤鬼を褒める。
声がしたほうを見て、私は「げ」と声を上げた。
「久しぶりだなあ、玉樟! 無事でなによりだ」
声の主は、柿本虎次その人だった。
薄汚れた着物に、伸びきった無精髭、風に乗って漂ってくる、脂ぎった汗の臭い。
金を振り撒き、幅を利かせていたかつての姿は、今や見る影もない。
ただ、私を見る気持ちの悪い目つきだけが健在だった。
「アンタ……そこでなにしているの?」
「お前を待っていたんだよ。俺がその赤鬼に、お前を助け出すように命令したんだ」
赤鬼は柿本のそばに行くと、両手で捕らえていた私をその場にそうっと下ろした。
そこを柿本がすかさず抱きついてこようとしたので、私はひょいと横に避けた。
「触らないで。大事なお着物が汚れるわ」
「照れるなよぉ、玉樟。女は素直が一番だぞ?」
「これが素直な反応よ。見て分からない?」
「相変わらずツンケンしてるなぁ。そんなところもたまらんが……」
だめだ、この男。
完全に玉樟花魁の夢で中毒を起こしている。
妄想癖も相まって、現実の私との会話がまったく成立していない。
「私、アンタに『助けてほしい』なんてひと言も言ってないけど?」
「言わなくても分かるさ! だから、身請けされる前に俺が助けに来たんだ。さあ、俺と一緒に逃げて、一緒に暮らそう!」
……そういう台詞はせめて自分で助けに来たときに言え。
汚れ役をすべて赤鬼に押しつけておいて、何を威張っているのだ、この頓珍漢は。
あまりにも醜い言い分で、笑えてきてしまう。
「アンタ、それで正義の味方になったつもり? 料金を踏み倒した大馬鹿野郎に、私が惚れてると本気で思っているの?」
「ああ、そうだとも! 俺たちはもう愛し合っているんだ! だから逢うのに金なんて必要ない!
なのに、あのクソ楼主……俺たちの逢瀬を邪魔しやがって……!」
「……あのね、柿本さん?」
私は笑みを完全に消し、まっすぐに彼を睨みつけた。
玉樟花魁ではなく、一人の女として――明確な忌避と嫌悪を示しながら。
「私、何度も言ったわよね。『これは商売。客と遊女の取引だ』って。
私が愛を売ってあげたのは、アンタが金を払ったから。でも、金が払えないなら、その時点で取引は成立しないの」
「そんなの、本物の愛があれば――」
「愛を語る前にツケを払えって言ってんのよ、豚野郎」
最も強い語気で柿本を罵倒する。
壮大な恋愛劇場を遮られて、ようやく柿本の顔が引きつった。
「アンタは勝手に恋に溺れて、勝手に堕ちたのよ。どうして私が一緒に堕ちてやらなきゃならないの?」
私の中で、沸騰した怒りが一気に噴き出したのを感じた。
それは、この男に対するものだけではない――今まで蓄積されてきた様々な恨みも混ざった、濁々とした怒りだった。
「私はもう百丸様に賭けると決めたの。消えるならアンタ一人で消えて」
そう言い放った途端、固まっていた柿本の顔が、化け物のように醜く歪んだ。
「お前、なんて生意気な口をっ……! あんなに貢いでやったのに……!!」
「だから何? 私が売ったのは恋の夢だけ。心を売った覚えはないわ」
唇をぶるぶる震わせていた柿本が、ついに声を上げて激昂し、私の胸ぐらを掴み上げた。
橋の欄干に押しつけられ、硬い木材の角が背中にゴリゴリと刺さる。
獣のような酷い臭いが、鼻をかすめる。
「てめぇ! 男に媚びを売らなきゃ生きていけない分際で、生意気言ってんじゃねぇ! いいから来いって言ってんだよ!!」
「嫌よ。クソ豚野郎と一緒になるくらいなら、死んだほうが百倍マシだわ」
「ッ、この売女がああッ!!」
柿本の両手が、とうとう私の首にかけられる。
上半身が、欄干の外側へはみ出す。
私はとっさに髪に挿していた簪を引き抜き、それを柿本の腕に突き刺した。
「うぎゃあああっ!?」
という柿本の悲鳴と同時に、私の体が後ろへぐらりと傾く。
刺された柿本が手を緩めたせいで、私は支えを失ったのだ。
(しまった、どこにも掴まれない――)
ひっくり返った視界が、夜空を映す。
橋の上から、私一人だけが引き離されるように落ちていく。
いつもより早い川の流れが、私を飲み込もうと待ち構えていた。
(え、うそ? 私、死ぬの?)
虚しく空を切る手。
遠のく橋。
迫る水音。
(嫌、あとちょっとだったのに――まだ死にたくな……)
視界にうっすらと涙がにじんだ、その時――どこからともなく白い煙が舞い上がった。
同時に、私の手首を、誰かがガシッ! と掴む。
この無骨な感触を、私は知っていた。
「カカッ、いいねェアンタ! 最高だ!」
低くしゃがれた、少しクセのある響き――独特な笑い声。
私は戸惑いながらも、その名を口にする。
「百丸様……?」
すると、私の声に応えるように、白い煙が瞬く間に人の形を取った。
浅黒い肌、灰色の髪――煙管をくわえながら、不敵に笑う口。
まごうことなき、百丸様の姿だった。
百丸様が、私を抱きかかえていた。




