(34)夜明けの来訪者
鏡の世界から戻ってきた時には、すでに夜が明けていた。
体感としてはせいぜい一時間程度の滞在だったと思うけれど、現実の世界では十時間も経っていたらしく――
そのせいか、私たちは帰ってきた途端にぐったりと疲れてしまった。
……だというのに。
「ちきしょう、あのジジイ! なんて時間に人を呼びつけやがる……!」
善は家の郵便受けに届いていた電報を見るなり、血相を変えて外出の準備を始めた。
なんでも、彼にとって大事な取引先である瀬戸物屋さんが、『重要な用事だからすぐに来い』と呼び出してきたのだそうだ。
「善、せめて何か食べていったほうが……」
「いや、あのジジイの呼び出しにァ、できるだけ早く行かにゃ。これ以上待たせて機嫌損ねるとめんどくせェ」
そうは言っても、彼も肉体労働をして疲れているはずだ。
なのに、睡眠も栄養も摂らないでまた出て行くなんて、大丈夫だろうか。
私なんて今も眠気を必死にこらえているし、壱丸に至っては帰ってきた途端、電球が切れるような速さで寝落ちしてしまった。
「心配すんなィ、俺ァこの程度の働きで潰れたりしねェさ。
それよりも、珠希。お前さん、しばらくは家から出ねェどきな」
善は外套をバサッと羽織りつつ、子供に言い聞かせるように口を酸っぱくして言った。
「俺がここにいない時は徹底して居留守を使え。
窓や扉も全部閉め切って、庭先に出るときも必ず壱丸を側につけるようにしな」
「? 家を出るなってのは分かるけど……そこまで警戒しなきゃいけないのかしら?」
善が危惧しているのはおそらく、私が叔父たちに接触されることだろう。
確かに、私が錦花郷に戻ってきていることは、麗華を通して叔父たちにも伝わったに違いない。
けれど、彼らは今、その大事な麗華のことで手一杯なはずだ。
そんな状況で、わざわざ向こうから私に接触してくるだろうか。
しかも、なにもかも謎な善の自宅を特定するという面倒を押してまで……。
「あの映像を見る限り、相手はずいぶん凶悪な奴らみてェだからな。用心するに越したこたァねェよ」
「……それもそうね。気をつけるわ」
ここまで言うのだ、きっと私には分からない危険まで、善は予測しているのだろう。
正直、大袈裟すぎる気はしなくもないけれど、ここは大人しく彼に従うことにした。
「ちゃちゃっと終わらせて帰ってくるからよ。なにも心配しないで、待っててくれな」
「? ええ。そっちも気をつけてね」
いつも通りに見送ろうとする私の頬を、善の指先がそっと撫でる。
まるで壊れ物を愛おしむような、少し惜しむような手つき。
私は、彼が向けた微笑みの奥に、妙な真剣みを感じた。
「そんじゃ、ちょっくら行ってくる」
善は私からパッと離れると、すぐさま玄関の戸を開け放って出て行った。
(相変わらず、忙しい人。朝早くから出て行って、そのままお仕事だなんて……)
大企業の社長に、休日なんてあってないようなもの――と善は言っていたけれど、さすがにここまで多忙だと心配になる。
帰ってくる頃には、善も疲労困憊になっているだろうし、せめて夕飯は善の好物を用意してねぎらってあげよう。
「珠希さま……お守りしますぅ……すぅ……」
座布団で寝言を呟いている壱丸を運んであげつつ、私もひと眠りしようかと考えていたとき。
「すみません! 善一さん、いますか? 千代沢暁斗です」
と、玄関の扉の向こうから声がしてくる。
(暁斗さん? なんで彼までこんな早朝に……)
人様の家に訪問するにしては、あまりに非常識な時間だ。
まったく何を考えているのだろう……と不快感を覚えたところで、一旦いやいやと思い直す。
――彼も、自身の会社の命運を背負っている身だ。
麗華がどうなったのかも気になるだろうし、いてもたってもいられなくて、訪ねて来たのかもしれない。
(善には徹底して居留守を使えって言われたけど……暁斗さんなら会話してもいいわよね)
私は壱丸を寝室に運んでから、扉の磨り硝子越しに「はあい、どうしました?」と返事をした。
すると、暁斗さんの影がぴくりと身動きする。
「珠希さん? 善一さんはいないんですか?」
「あいにく、仕事に出ておりまして。お手数ですが、時間を置いてから来ていただけますか?」
「ええっ! 困ったな……急ぎの用事だったのですが」
「大変申し訳ありません。伝言でしたら、この場でお預かりできますが」
「いえ、重要な仕事の話ですので、それは……」
「でしたら、主人の事務所の住所をお伝えしましょうか? そこにいる秘書の方に話を通しておけば、問題ないかと」
「いえ、それも……うーん、困ったな……」
善がいない場で私と話しても意味がないだろうに、暁斗さんは「困ったな」を連呼するばかりだ。
私があの手この手で引き返すよう促しても、なかなか帰ってくれなかった。
「では、荷物だけでも受け取ってくれませんか? どうしても彼に渡していただきたいものがあって……」
「すみませんが、暁斗さん。主人からは外に出ないよう言われています。荷物でしたら外に置いて――」
いい加減、鬱陶しいなと思いながら、少し強い口調で返した、その時だった。
――カチッ。
と、なぜか、《《触れてもいない鍵が開く音がした》》。
ガラリ、と扉が開け放たれたとき、私は呼吸が止まった。
扉の向こうにいたのは、暁斗さんではなく――黒いスーツを着た、全く面識のない男だった。
(まずい。これは)
心臓が早鐘を打ち始めるのと同時に、私は玄関の扉を急いで閉めようとした。
けれど、男はそれよりも先に足をねじ込んで阻んだ。
わずかに開いた隙間から男の腕が伸びてきて、私の手首を強く掴む。
「っ、離しなさ――!?」
あっという間に外に引きずり出された私は、声を上げて抵抗を試みた。
けれど、それすら許さないとばかりに、男が私の喉元にぴたりと何かをあてがう。
冷たい金属の感触と、視界の端でちらつく反射光。
本能で、私は凶器を向けられたのだと悟った。
「お静かに。できるだけ傷をつけないよう運べ、と言われていますので」
「っ、まさか貴方、叔父様の……」
声を絞り出しながら問い詰める私に、男は何も答えない。
ただ、私を連れて、じりじりと家から引き剥がそうとするのみだ。
「ワン!! ワンワンッ!!」
凍りついた空気を打ち破るように、家の奥から鋭い吠え声が聞こえる。
壱丸の声だ。
私の危機を察して飛び起きてきたのだ。
「なんだ、犬か?」
「かまうな、連れて行け!」
後方に控えていたのか、男の仲間たちの声がする。
私は必死に拘束を振りほどこうとするが、直後、頭に重い衝撃が走った。
男にどこかを打たれたのか――脳が激しく揺さぶられる感覚と共に、視界に白い火花が弾ける。
壱丸の吠え声が、どんどん遠のいていく。
わけが分からないまま、私はどこかに放り込まれて、そのまま意識を失った。




