(30)附子
「勘違いするな、麗華嬢。俺たちはアンタを連れ戻しに来たんだ。こんな阿呆なことしてないで、さっさと暁斗のところに戻れ」
「暁斗さんのところですって? お断りしますわ」
「なんだと?」
善の要求にぷいっとそっぽを向く麗華。
ピリッとした静電気のような怒りが善から漏れ出るが、麗華はそれに気づいていないのか、満面の笑顔だった。
「だってこちらの世界の方がずーっと楽しいんですもの!
欠片も優しくしてくれない現実の殿方なんてつまりませんし、ここにいればみんながわたくしの恋人ですわ!」
歌劇のようにくるくると踊り出しそうな麗華。
その振る舞いは、しつけのなっていない子供のように傍若無人だ。
「暁斗さんはわたくし好みの可愛い男性だし、わたくしにも丁寧に接してくださったけれど、いかんせん小言が多いの。
今のは言い過ぎだとか、私にも落ち度があったとか……いえ、それならまだわたくしも目を瞑っておりましたけども」
一度言葉を切って、麗華は再び私を睨んでくる。
「彼は先日、婚約者であるわたくしを差し置いて、珠希を気遣った。
いくら寛大なわたくしであろうとも、それだけは我慢なりませんの。
わたくしよりも下賎な女を優先するなんてありえない、婚約者として失格ですわ。
だから鏡の中に閉じこもって、捨ててあげたの」
善はぎりっと音が聞こえるほど、奥歯を噛みしめている。
私もあまりに身勝手な麗華の言い分に、二の句が継げなかった。
「ああでも、鏡を買ってくれたのは彼だし、それだけは感謝しなければね! 夢が叶って最高の気分ですわ!」
「……ふざけんじゃないわよ」
怒髪天を衝かれた私は、あらん限りの憤怒を込めて、麗華を睨んだ。
「アンタ、暁斗さんがどんなに心配してるか想像できないの?
スーツを着たまま走り回って、私を探しに来て、土下座してまでアンタを助けてくれってお願いしに来たのよ。
ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと――」
「うるさいわよ、珠希」
麗華は邪魔なハエを手で払うかのように私の話を遮り、忌々しげにため息をつく。
「親を失ったお前を家に迎えて保護してやったのは誰?
わたくしたちでしょう? みなしごの分際でお説教なんて許されると思って?」
――保護なんて冗談じゃない。
――嫌がる私を無理やり閉じ込めて、散々こき下ろして虐げてくれたくせに。
私は叫び返したい気持ちでいっぱいだったが、口を噤んだ。
ハエ同然の私の怒りなど、この女に響くわけがない。
「お父様とお母様からあんなに怒られたのに、お前はなに一つ学習していないのね。
敬意を払うこともせず、使用人としても役に立たない、恩を仇で返すようなろくでなしだとどうして自覚できないの?」
理不尽な言い分に頭がおかしくなりそうだ。
麗華はさらに追い打ちをかけるように、私を嘲りながら青年たちに言う。
「ご覧なさい、貴方たち。あれがわたくしに楯突いた馬鹿な女の末路よ。
遊郭に売られた時点で、潔く命を絶つべきだったのに……純潔を捨て、下賎な男に媚びを売って、まったく穢らわしいったらない。
男の手垢だらけになった女を掴まされた百丸様が不憫だと思わない?」
ぐさり、と私の胸に突き刺さる言葉。
私はそれを否定しようとなにか叫ぼうとして……
「……いい加減にしろ、ブス」
……叫ぼうとした寸前で、先に善がプッツリ切れた。
嘲笑していた麗華の表情が、瞬く間に凍りつく。
「え?」
「聞こえなかったか? いい加減にしろ、ブス って言ったんだよ」
私の脳裏に一瞬だけ、柿本と対峙したときの善の姿がよぎる――あの時の気迫に近いものを、善から感じたからだろう。
けれど、今の善の怒りは明らかにそれの比ではなかった。
爆発寸前の、まぎれもない殺気だ。
「お前……今の言葉を取り消すんだ!」
「すぐに麗華様に謝罪しろ!」
青年たちがすかさず善を非難する。
すると善は懐から煙管を取り出すなり、ふっと彼らに魔法の煙を吹きかける。
「煙々術――爆火」
善が小声で唱えた途端、彼らの周囲を取り巻いた煙がバンバン!! と大きな音を立てて爆ぜた。
火花が直撃した青年たちは情けない悲鳴を上げると、煙を上げてどろんと消えてしまう。
「まやかし風情は黙ってな」
「な……なにをするの! 危ないじゃない!」
金切り声で猛抗議する麗華。
善は煙管を口にくわえつつ、彼女をじっと見据えて言った。
「お前さん、現実じゃここにいる誰にも相手にされなかったんだろう?
暁斗よりも前の見合い話はすべて破談で終わっていたみたいだからな」
「な……っ!? どうして、それを……」
「三倉財閥のご令嬢のことなんざァ調べりゃすぐに分かる。業界にいるだけでも噂が聞こえてくるくらいだしな」
ここに来てやっと善を警戒した麗華だったが、もう遅い。
動揺を見せた麗華を、善は容赦なく追撃する。
「こいつらは全員、お前さんと見合いして破談になったやつらだ。
お前さんは手に入れられなかった男たちの虚像を作り出して侍らせ、現実をなかったことにしようとした。
受け止めきれない現実からまんまと逃げたってわけだ」
「ち、ちが……」
「違わねェだろ」
善の声がさらに凄みを増す。
目に見えない圧力を前に、麗華は無様なほどたじろいでいた。
「暁斗が小言を言っていたのは、てめェにきちんと向き合おうとしていたからだ。
今まで誰も指摘してこなかったてめェの欠点をはっきり指摘した、ただそれだけのことだ」
善の言葉と、それに拒否反応を示す麗華を見て、私は意外に思った。
麗華は自分の過ちに気づくことのできない、正真正銘の馬鹿だと思っていたから。
親に甘やかされ続けたせいで過ちに気づくことができなくなった、可哀想な人だと思っていたから。
彼女が薄々ながら自覚していたことに、私は心底驚いた。
「てめェは暁斗を捨てたんじゃない。暁斗から逃げたんだよ」
暁斗さんのほうが逃げられない立場であったことも大きかっただろうけれど――暁斗さんが人一倍真面目な性格をしていたのも大きかった。
彼はお馬鹿な麗華を見放すのではなく、きちんと指摘して正そうとした。
しかし、麗華は向き合えなかったのだ。
――お見合いがことごとく失敗した要因は、ひょっとして自分にあるのではないか?
と、薄々勘づいていたにもかかわらず――その事実を受け止められなかった。
「違う、違う……! 暁斗さんがいけないのよ! わたくしよりも珠希を優先するから! こんな下賤な女なんかを庇うから――」
「黙れ!! 珠希をこれ以上貶すならブッ飛ばすぞ!!」
喧嘩腰の善の怒声を真正面から浴びて、麗華は「ひっ」と縮こまる。
「珠希はてめェよりもずっと気高い女だ!
クズどもに虐げられてボコボコにされても、それまで大事にしてきたモンを壊されても、
その痛みにずっと耐えながら生きてきたクソ強ェ女なんだよ!!
いつまでもぬるま湯に浸かったまま自分を甘やかし続けたてめェとは勝負になってさえいねェ!!
人を見下すのも大概にしやがれ、ドブスが!!」
貶されたのは私なのに、善は私以上に本気で怒っていた。
いつもゆったりと余裕のある表情を浮かべている善が激怒しているのを、私はこれまで一度も目にしたことがない。
私のために怒ってくれたことが嬉しくて、うっかり泣きそうになってしまう。
「貴様、麗華様を愚弄するな!」
一人の青年が善に殴りかかるのと同時に、私の体は驚くほど俊敏に動き出す。
善と青年の間に素早く割って入り、ある一点を目がけて思い切り足を振り上げる。
「――ホギャアアアアッッッ!?」
振り上げた私の足は青年の足の間を通り抜け、狙い通り──彼の股間のど真ん中に吸い込まれるように命中した。
それはもう、自分でも惚れ惚れしてしまうほど綺麗な当たり方だった。
どろんと消えた青年を見て、ほんの一瞬だけ爽快感を覚える。
「あら、ごめんなさい。ちょうど蹴りやすいところに来てくれたものだから、つい」
すると、私の背後にいた善が手を叩きながら豪快に笑い出した。
「っぶ、はははははははっ!! いきなり金的食らわすたァ、容赦ねェな!!
あっはははは!! 本ッ当に最高だぜ、珠希は!」
先ほどまでの鋭い殺気はどこへやら、善はお腹を押さえ、膝をバンバン叩き、大爆笑している。
「お下品すぎたかしら」
「かまわねェさ、ここでお上品に振る舞う必要はねェよ」
善はひいひい苦しそうにしながらも、すぐにしゃんと姿勢を正した。
「な、なんて下品なの……! 信じられない!」
ご令嬢の麗華にとって、金的の光景はなかなか刺激が強かったようだ。
他の青年たちも、一様に顔を青ざめさせている。
「まあ、この際、品なんてどうでもいいわよね」
「おうとも、喧嘩にそんなモンはいらねェよ。思い切りやっちまおうぜ」
善が私に向かって手を差し出す。
そこへ私が手を乗せた途端、私が来ていたお仕着せがみるみる姿を変えていく。
つややかなサテン生地に、薔薇の花飾り――
レースがあしらわれたデコルテに、腿まで切込みが入ったスカート――
肌をほどよく露出した、艶やかなワインレッドのドレスが、私の体を包んでいた。
「あら。まるで悪役って感じのドレスね」
「いいじゃねェか。お似合いだぜ、珠希」
「ふふふっ、ありがとうね」
ここは麗華の理想郷。
彼女が賞賛され、愛される世界。
この状況に酔いしれている限り、麗華はここを出ようとは思わない。
ならば――ここから出たくなるような、真逆の状況を作り出せばいい。
「善、命令よ。──この世界を、めちゃくちゃに壊してあげなさい」
「あいよ、承知」
善はにいっと口角を上げ、朱色に染まった瞳を爛々と輝かせる。
「煙々術――爆火繚乱!」
煙管から漂う煙が瞬く間に充満したかと思うと、次の瞬間──周囲一帯がバチバチと激しい音を立て、火花があちらこちらで乱発した。




