(3)身の上話
「……そうね。名前だけなら、明かしてもいいかしら」
「名前?」
「ええ。私の本当の名前は――三倉珠希」
百丸様の灰色の瞳がほんの一瞬揺れた。
そして、息を飲む音が静かに座敷に落ちた。
「……三倉って、財閥の三倉かィ?」
「そのとおり。けれど、私にはもう何の関わりもないわ」
私は目を伏せつつ、自虐的に笑う。
「……現当主の名は三倉統二郎だったか。あれァ、アンタの親父さんか?」
「いいえ。叔父よ」
「叔父、か」
「ええ。もともと当主になるはずだったのは、私の父だったの。
でも、親戚の葬儀に向かう途中の別荘で火事が起きて、母と共に亡くなってね。
気づいたときには、すべてが叔父たちのものになっていたわ」
百丸様は何も言わず、ただ眉間に皺を寄せた。
細められたまなじりは、まるで鋭い刃物のようだ。
そんな彼に、私は他人事のように語る。
「お金も、家も、家財も、みんな叔父夫婦の“所有物”になったわ。――私も、その一部として扱われたの」
「……それで、アンタは売られたってことかィ」
「そう。けれど、悪いことばかりじゃなかったわ。
あの家で飼われていた頃よりも、ここはずっと自由だし……軟弱だった心身を鍛えるにもいい機会だった」
百丸様は眉間の皺をふっと緩め、小さく笑った。
「カカ、気骨のあるこった。なにもかもを奪われて、それでも笑える女はそうそういねェ。実にイイ」
「笑ってないと、やってられないのよ。そうでなければ、叔父たちに売り払われたあの子たちを、取り戻せないから」
細い煙が私たちの間を漂う。
その向こうで、百丸様の瞳が私をじっと見据えている。
「あの子たち、ね」
「ええ。幼い日の私を育んだ、骨董棚の友人よ」
すると、百丸様は何かを思案するように黙り込んだあと、再び煙管を手に取った。
手の中でくるりと回して、彼は言った。
「なら、アンタのその運命、一つ俺に賭けてみねェか」
不意に落とされた言葉に、私は三味線を爪弾く手を止めた。
「……賭ける? というのは?」
「俺にアンタを身請けさせてくれ、って言ってんだよ」
――夢にまで見た言葉だった。
回りくどい彼の言葉にしては、いつになく直球だ。
声はいつもの軽さを帯びたままなのに、真剣味だけが増している。
「……百丸様、本気で仰っているの?」
「本気も本気よ。俺の懐と心、どっちもアンタの望みのために空けとくつもりだ」
「またそうやって軽々しく言うのね」
「重々しく言ってるつもりなンだがな、これでも」
私は左手の中で三味線の撥を転がしつつ、次の言葉を探す。
この男の真意を引き出すべく、的確な言葉を探す。
「どこを掘っても秘密だらけの男に、この身を賭けろと言うの?」
「おうとも」
百丸様はにやりと笑い、煙が立ちのぼる火皿で私を指す。
「もちろん、タダでとは言わねェ。身請けに応じてくれんなら、アンタにだけ俺の秘密を差し出してもいい」
「それは、私が得する秘密なのかしら?」
「もちろん。俺もアンタも得をする」
「ふうん。どんな秘密?」
「そうさね、俺の素性に関わる秘密さ。そっから先は、身請けした後のお楽しみ」
百丸様は口角を吊り上げ、灰色の瞳でこちらを見た。
その目の奥に、ふと炎のような朱色が見えた気がした。
「焦らすのが上手いのね。意地悪な人」
「アンタほどじゃねェさ、玉樟」
私の胸の奥で、鼓動がひとつ強く鳴った。
身請けしたい、なんて幾度も聞いてきた口説き文句だけど――なぜか、彼の言葉だけは違って聞こえた。
「夢を売って生きている遊女に、身請けの夢を見させる覚悟――きちんとあって?」
「あァ。アンタと運命を共にできるなら、俺ァすべてを賭けられる。後悔はさせねェさ」
私は少しだけ迷ってから、手にしていた三味線を傍らに置き、百丸様のほうへ静かに身を寄せる。
「……その賭け、受けてもいいわ。貴方といれば、地獄に堕ちても笑っていられそうだもの」
「カカカッ、まったくお前さんらしい理由だよ」
「だから」
私はあえて言葉を切って、彼の胸へとしなだれかかった。
百丸様の体がほんの少し、ピクリと動いた。
「もう少しだけ、溺れさせて。もう少しだけ、貴方の夢に浸りたいの」
「……あいよ、分かったさ」




