(28)見送り
「麗華さんは今頃、自分の理想郷に夢中になっているはずよ。あの子には珠希のような強い意志がないから」
玄関で履物を履いた私に、お母様が言う。
薄々勘づいてはいたが、やはり麗華も私と同じく“自分の望んだ世界”にいるようだ。
一昨日からずっと鏡の中から出てこない状況から察するに、鏡の力に誘惑されるがまま、閉じこもっているのだろう。
婚約者の暁斗さんが大変な目に遭っているとも知らず悠長に遊んでいると思うと、私は麗華に対してむかむかと腹が立った。
「麗華さんの理想郷はどんなところなの?」
「そうね……あの子は人に褒められたりするのが大好きだし、少し我儘すぎるところもあるから、それらの欲望が叶う場所かもしれないわ」
お母様の予想を聞いて、私はとてつもなく嫌な予感というか、悪寒のようなものを感じた。
再会したときの麗華の振る舞いを鑑みても、麗華の欲望がろくでもないものであることは疑う余地もない。
私自身の精神衛生のためにも、さっさと用事を済ませてしまいたいところだ。
「では、麗華嬢をここから連れ出すために、我々は何をすればいいのでしょうか」
善が尋ねると、今度はお父様がいつになく真剣な表情で答えた。
「麗華に『この世界から出よう』と決心させることだ。
理想郷に留まろうとする意志が麗華にある限り、彼女を外に連れ出すことはできない。
誘惑に弱い彼女にそうさせるのは困難かもしれないが……とにかく彼女を甘やかさないことが肝要だ」
「分かりました。肝に銘じておきます」
善がお父様にお礼を言う。
ふと、お母様が私に近づいて、私の右手をそっと握った。
「素敵な指輪ね。善一さんからもらったの?」
「……はい」
「そう。貴方の大事な宝物なのね」
「はい」
お母様はしわの増えた両手で、私の手を温めるように包み込みつつ、指輪を眺めていた。
お母様の瞳に、ラピスラズリの美しい青が映り込んでいる。
「珠希が強く育ってくれてよかった。母として誇りに思いますよ」
「……はい」
お母様が温かい目で私を見つめながら微笑む。
私は泣きそうになるのをぐっとこらえ、下手くそな笑顔を作りながら頷いた。
「善一くん」
お父様が、善に向かって頭を下げる。
「うちの自慢の娘を選んでくれてありがとう。どうかこの先も末永くお願いします」
「……こちらこそ。娘さんを託していただいてありがとうございます」
善もお父様と同じくらい頭を下げて返す。
私もそれに倣い、両親にお辞儀した。
「いってらっしゃい、珠希」
「はい。行って参ります」
*
虚像の実家に別れを告げ、鏡の中の錦花郷をしばらく歩いて来たところで、
「二人とも、ありがとう。私を引き留めてくれて」
と善と壱丸にお礼を言う。
「礼には及ばねェよ。踏み留まれたのは珠希の意志だ」
「でも、珠希さまにつらい思いをさせてしまいました……」
「いいのよ。これで正しいの」
私はしょんぼりした様子の壱丸を撫でてあげる。
正直、気持ちはまだ少しだけつらい。
けれど、これで間違いなかったはずだ。
あそこで両親の温もりに身を預けていたら、私は木の根が張ったように動けなくなっていたことだろう。
善と壱丸がいなければ、本当に危なかったと思う。
「しかし、麗華嬢の理想郷ねェ……ほんのりと想像がついちまったんだが、嫌な予感しかしねェな」
「まったく同感よ……でも、ちゃんと腹を括らないとね」
暁斗さんは私よりももっとつらい状況にいるのだ。
彼を助けるためにも、ぐずぐずしている暇はない。
私は自分の頬をぱしぱし叩いて、へたりそうな気持ちに気合いを入れ直した。
「心の準備はできたかィ」
「もちろん。かかってこい、麗華!」
「カカ、いい覚悟だ」
善はニッと口の端を吊り上げると、私を鼓舞するように手を握ってくれた。
私はそれに大きく頷いて返し、壱丸に言う。
「壱丸、麗華のにおいは覚えてる? 香水と白粉のきつーいにおい」
「はいっ、もちろんです! 案内役はお任せください!」
「よろしく頼むわね」
壱丸は「わん!」と一つ景気のいい吠え声をあげると、一直線にある方向へ駆けだした。
先導する壱丸の背中を追っているうちに、私たちはいつの間にか見慣れた街並みから遠ざかり、紅葉が降り積もる森の中に足を踏み入れていた。
野放しにされた獣道ではなく、人の手で切り拓かれた痕跡のある道が、森の奥に向かってどこまでも続いている。
「妙だな。市街地からはさほど離れてねェはずなんだが……空気がまったく別物だ」
「そういえば、なんだか湿っぽい感じがするかも……」
先ほどまでは市街地を囲む工場の排気のにおいがしていたのに、今は土のにおいをふんだんに含んだ空気があたりに満ちている。
まるで、田舎の山道にやって来てしまったようだった。
「麗華の理想郷が近づいているってことかしら……きゃ!」
警戒を強めていると、突然、強い風が私たちの間を通り抜ける。
突風に吹き飛ばされた壱丸が「きゃん!」と吠えながら、後方に転がった。
「ひええ……びっくりしましたぁ」
「壱丸、大丈夫? 怪我はしてない?」
壱丸に向かって手を伸ばした時、視界に映った自分の袖を見て、私はぎょっとした。
私は確かに着物を着ていたはずなのに──視界に映った袖は、明らかに洋服のものだった。
「え、ちょ……なによ、これ!?」
私は自分の胸元からつま先までを見て、思わず声を上げた。
私が着ていた紫色の着物が、西洋の侍女のようなお仕着せに変わっているのだ。
全身煤まみれで汚いし、生地もところどころつぎはぎになっていて、一言で言えばみすぼらしい格好だった。
「おーおー、エラい格好になっちまったなァ珠希ィ。壱丸は……ぶっは! お前、なんだその首輪っ……ふっ、はははははは!!」
「しゃちょー! 笑わないでくださぁい!」
大爆笑の善に対し、きゅんきゅん切なそうな声を上げて抗議する壱丸。
その首には、肖像画に描かれた西洋の貴族がつけていそうな、立派な襞襟が巻かれていた。
真っ赤な丸いお鼻がついているのも、サーカスの道化師のようでとても愛らしい。
「こいつァいいや! このまま写真屋に行きたいくらいだぜ、あっははははは!」
「善、大笑いしてるところなんだけどね。アンタもなかなかすごいことになってるわよ」
「は? ……なんじゃこりゃァアア!?」
善もようやく自分の惨状に気づいたらしい――自分の服装を見るなり、彼は悲鳴のような声を上げた。
「うわあああ……なんだこの性に合わなすぎる服ッ……! こいつァあれか? 異国の王子様かなにかか!?」
善の服装は、西洋のおとぎ話の本に出てくる王子様のような軍服に変わっていた。
白と赤が基調のかなり派手なデザインで、普段の彼が着ている渋い色の着物に比べると、あまりに印象の差が激しい。
「こんなの俺じゃねェ! 今すぐ脱ぎてェ! 脱いでいいか? いいよなァ!?」
「駄目に決まってるでしょ。こんなところで裸になったら毛虫に刺されるわよ?」
「これなら褌一丁で毛虫の餌食になる方がまだマシだァ!!」
古風で粋な装いを愛する善には、ギラギラした西洋の衣装は耐えられないのだろう。
実際、この衣装はまったくと言っていいほど彼に似合っていなかった。
頭の上におまけと言わんばかりに乗っている王冠でさえ、乗る頭を間違えていないかと言いたくなるくらいだ。
子供の悪戯の被害に遭った着せ替え人形のようにちぐはぐな格好で、見ているうちにだんだん面白くなってきた。
「……んふふふっ、これはこれで傑作かもね。かっこ悪い善もなかなかお目にかかれないし。……く、ふふふふふっ、んふふふふっ!」
「おい、笑いを我慢しきれてねェぞ、珠希ィ!」
「ぷ、ふふふ、あっははははは!」
さっきまで壱丸を指さして爆笑していた男が情けない声で抗議するので、私はついに堪えきれなくなった。
これぞまさに噴飯物と言うべき光景だ。
「ちくしょォオ! こんな野暮用さっさと終わらせたらァ!」
「はいはい、じゃあ行きましょうか」
私に涙が出るまで笑われた善は、ド派手な衣装で憤慨しながらズンズン歩き出した。




