(27)虚像の父母
「いいのですか。珠希……さんはともかく、俺が上座に座ったりして」
「ははは、気にすることはないさ! うちの床はどこもかしこも平らだから、上も下もないんだ」
お父様は愛想笑いを浮かべる善の肩を軽く叩く。
洒落を言って場を和ませようとするのも、私の記憶どおりだ。
その傍らに、お母様もそっと腰を下ろす。
「けれど吃驚しましたねえ。人見知りの珠希が、まさか善一さんとこんなに仲良くなっていたなんて」
「なにか仲良くなったきっかけでもあったのかい? よければ教えてほしいなあ」
「……えっと」
どうしよう、と私は善と顔を見合わせる。
この世界の私は遊女になっているわけがないし、まさか遊郭で出会って親しくなった、といういかがわしい事実を正直に伝えるわけにはいかない。
というか、愛する娘が本当は遊郭に売られて、遊女に身をやつしていたなんて事実を知ったら、目の前の両親が卒倒してしまう。
私たちが上手い言い訳が思いつかずに困っていると
「ぼくが珠希さまと離れて迷子になっていたのを、しゃちょーが助けてくれたんです! そこから仲良しさんになりました!」
と、善の膝の上にいた壱丸がちょうどいい嘘をついてくれる。
「まあ、そうだったの。壱丸が二人の縁を結んでくれたのね、ありがとう」
お母様はにっこりと微笑んで、壱丸の頭を撫でた。
壱丸は一瞬だけ体を縮こませるも、お母様の手が気持ちがよかったのか、次第に尻尾を振り始めた。
ほんのしばらく談笑して、折よく入ってきた使用人の女性がお茶とお菓子を並べていく。
お父様は眼鏡の奥で得意げに目を細めながら、私に言った。
「出張先で買ってきたんだ。珠希が毎年楽しみにしている栗最中だよ」
菓子皿にのせられた栗最中を見て、私は思い出した。
昔、お父様が出張先のお菓子屋で買ってきた栗最中がすごく美味しくて、私はいたく感動したことがあったのだ。
最中の皮を見ると確かに、私が大好きだったお菓子屋さんの焼き印が入っている。
「覚えて、いたのね……」
「当然だろう。珠希があんなに目を輝かせているのを見たら、何度でも買ってこようって思うさ」
私が美味しい栗最中にはしゃいでいたのは五歳かそこらの頃だったと思うけれど、今の私はもう二十二歳だ。
この世界のお父様は、私が五歳の時からずっと、大好きな栗最中を買ってきてくれているらしい。
「他にもまだお土産があるんだ。素敵な骨董品もあるから、あとで開けて話しかけてみなさい」
「もう、一度に買いすぎではないですか? 管理はきちんとしてあげてくださいね」
「ははは、分かっているよ。責任は持つさ」
母の小言も、笑って謝る父も、記憶の中とまったく同じだ。
何も変わらず、ただ歳だけとった両親の姿に――現実には存在し得ない平和な光景に、涙が浮かんでくる。
(懐かしいな、この栗最中。餡子が甘すぎなくて、皮と一緒に食べるとちょうどいいのよね。栗の形をしているのも可愛いし……)
私は次々に浮かんでくる優しい記憶に浸りつつ、栗最中に添えられた爪楊枝に手を伸ばしかけて――サッと引っ込める。
(いやいや、お父様が手をつけていないのに、私が先に食べたら駄目じゃない。子供じゃあるまいし……)
危ない危ない、ついお行儀の悪いことをやらかしてしまうところだった。
子供の頃、お母様にもたくさん叱られたのに、大人にもなって何をしているんだか……。
そんな私の様子を見ていたお父様が、「ははは!」と声を立てて笑う。
「いいんだよ、珠希。私のことは気にせず、先に食べなさい」
「い、いいの?」
「もちろん。早く食べたいって顔に書いてあるよ」
「うっ……」
しまった……食べたい気持ちがまるっきり顔に出ていた。
お父様に笑われて、私は少し恥ずかしくなってくる。
「もう、また貴方は珠希を甘やかして……」
「いいじゃないか。大好物が目の前にあるのに、我慢させては可哀想だろう」
「はあ、仕方ありませんねえ。今日だけですよ」
「……ありがとう。お父様、お母様」
私は両親にお礼を言って、改めて爪楊枝を手に取る。
切り分けようとしたところで――右手にはめたラピスラズリの青色が、私の視界に飛び込んできた。
(……いや、違う。そうじゃなくて)
ラピスラズリの強烈な青が、優しい空気に酔った私を叩き起こす。
――そうだ、私はここでお茶なんか飲んでいる場合じゃない。
暁斗さんを助けるためにも、明朝までに麗華を連れ戻す手がかりを掴まなければならないのだ。
(……ああ、これが普通の夢なら、もう少し浸っていられたのにな)
本当は両親とお茶を楽しみたい。
両親と他愛ない話がしたい。
過酷さとは無縁な温かいこの世界にいたい。
でも、忘れてはならない――私の両親はもうこの世にはいないのだ。
今は優しい夢に甘えるわけにはいかないのだ。
私はラピスラズリを見つめて、必死に誘惑に耐える。
「大丈夫ですか、珠希?」
「もしかして、具合が悪いのかい?」
お母様が、私の肩をさする。
お父様も心配そうな顔で、私の顔を覗き込む。
(ああ、二人とも本当に優しいな……私、本当に愛されてたんだ)
ここから離れないといけないのに、両親の優しさが胸に突き刺さって動けない。
両親の優しさを振り切らなければならないのが、すごくつらい。
まだ少しだけ、ここで甘えたい。
このままお母様に寄りかかれば、少しだけ楽になれるだろうか……
「珠希さまっ! しっかりしてください!」
私がお母様に体を預けようとしたところで、見かねた壱丸が私の傍で吠え声を上げた。
目の醒めるような大きな吠え声が、傾きかけていた私の意識をハッと引き戻す。
同時に、善がお母様から引き離すように、私の肩をぐっと抱き寄せた。
「踏ん張れ、珠希。迷うな」
「善……」
善の灰色の瞳が、射貫くように私を見つめる。
彼の瞳に反射した弱々しい自分の顔を見て、私はぐっと歯を食いしばった。
「お父様、お母様、ごめんなさい。私、今すぐ行かなきゃいけないところがあるの。ここにはいられないの」
えいっ、と口に出し、崩れかけた姿勢を正して、両親に向き直る。
私の唐突な発言に戸惑った様子のお父様が、
「行くって……どこへ行くんだい?」
と聞いてくる。
私ははっきりと口を動かすようにして答えた。
「麗華……麗華さんのところよ。あの人をここから連れ出さないといけないの」
「そんな、どうしても行かなければいけない用事なの? もう少しゆっくりしていっても……」
お母様が寂しそうな目で私を見つめる。
一瞬だけ心が負けそうになるけれど、私は両親に向かって深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。……優しくしてくれて、ありがとうございました」
たとえ“虚飾の鏡”が作り出した虚像だったとしても――両親の温もりにもう一度触れられて、嬉しかった。
もう二度と触れられないのだと、諦めていたから。
「そうか、仕方ない。……行くんだね、珠希」
お父様が重々しい表情で、私を正面から見つめる。
お母様もとても寂しそうな顔で俯く。
たとえここが現実ではないとしても、両親にそんな顔はさせたくなかった。
大きく膨らんだ罪悪感が、私の胸を圧迫する。
「……では、せめてお見送りをしましょう」
「そうだね。親ならば娘を送り出さなくては」
私はふっと息を吐いて立ち上がり、我が家の玄関へと向かった。




