(19)ラピスラズリの誓い
その言葉が、崩壊の合図となった。
私の心の奥底でせき止めていたものが、どんどん喉を這い上がってくる。
「……ごめんなさい。まだ本調子じゃないみたい。林檎は後で食べるから」
まずい、早く逃げなければ。
こんな情けない顔なんて、見られたくない。
私は、善の主人なのに。
「珠希」
善の脇を通り抜けようとした瞬間、逆に腕を掴まれる。
引き戻されて、近くの壁に押しつけられる。
善にしてはかなり乱暴だった。
「善っ、離して!」
私は逃げ道を探すけれど、善が壁に手をついているせいで、どこにも逃れようがなかった。
私は咄嗟に顔を手で覆い隠す。
「珠希、大丈夫だ。目だけチラッと出して」
無理だ、目だけでも見せるのが怖い。
けれど、目だけ見せれば満足して解放してくれるだろうか。
なら、ほんの少しだけ頑張ってみようか。
――私はそう考えて、指の隙間から片目だけを覗かせた。
「ほら、見てな」
善が私の目の前でパチンと指を鳴らす。
すると次の瞬間――善の指には、輪っかのようなものが摘まれていた。
「……! それ……」
「カカ、吃驚したか?」
善はニヤッと悪戯っ子のような笑顔を見せる。
彼の指に摘まれていたのは、アンティークショップで私が釘付けになっていた、ラピスラズリの指輪だった。
「どうして……? 私、ただ見てただけって言ったのに……」
「今の珠希に必要な物なんじゃねェかと思ってさ。アンタも遠慮した感じだったし」
ああ、まただ――善の優しさが、胸にちくりと刺さるようだ。
きっと、私が化粧を直している間に購入していたのだろう――私がドジを踏んでばかりな一方で、善は私を元気づけようと立ち回っていたのだ。
「こんなに綺麗に輝いてんだ、身につけてやれよ。こいつもそう望んでるに違いねェ」
善は温かくも真剣な眼差しで語りかけてくる。
橙色に染まった空間の中、ラピスラズリの青が鮮烈に輝いている。
……道端で出会った猫のように、私のことをじっと見つめている。
けれど――私は首を横に振って、それを拒んだ。
私の反応が予想外だったのか、善はきょとんと目を瞬かせた。
「……それは、嫌ってことか?」
嫌なわけがない。
善からの贈り物が嬉しくないわけがない。
ましてその指輪は私が欲しがったものだし、指輪も私を選んでくれているのなら、ぜひ付けてあげたい。
……でも。
「違うの。……そんな綺麗な石、受け取れない」
この指が少しでも触れようものなら、綺麗な青色が濁ってしまう。
そんな気がしてならないのだ。
「すまねェ、よく理解できねェんだが……これを受け取れないってのァどうしてだィ?」
善は穏やかな声音で問いかける。
その目は至って冷静で、私を責めているわけでも、悲しんでいるわけでもない。
おそらく――彼は私の心の内を、分かろうとしてくれているのだ。
逃げてはいけないような気がして、私は少しずつ思いを吐き出した。
「……私は、そんなものを贈られるような生き方をしてないから。
善だって、私がどんな人間か知ってるでしょう?
今だって、貴方を利用している状態なのに……」
そもそも、私たちは利害関係だったはずだ。
最初は恋の夢と金銭をやり取りして、そこからお互いの目的が重なったから、手を取り合っただけ。
「玉樟花魁と恋愛ごっこをしたくて貢ぐのは、理解できる。
でも、貴方が“私”に求めているのは、きっとそれじゃないでしょう?」
私は遊女として、下心を隠した男たちを何人も相手取ってきた。
だからこそ、分かる――善の優しさは、まるっきり下心のない、見返りを求めない愛だ。
私には、それが理解できなかった。
「分からないのよ。私、こんなに優しくされるような人間じゃないのに、どうして……」
そこから先は、声に出せなかった。
喉の奥に詰め物をされたようで苦しい。
なにも話せなくなった私の代わりに、今度は善が、ゆっくりと口を開いた。
「……アレだな、人間ってのァとかく面倒な生き物だよなァ。付喪神の俺にゃァよく分からん感覚だ」
善はふー……と長く息を吐くと、私に確認を取るように聞いた。
「ひとつ言っとくがな、珠希。俺ァ多分、お前さんが思うほど複雑にできてねェぞ」
「……え?」
「俺はいつだって、俺のしたいことをしているだけ。そう言ってんだ」
善の言葉に、私は殴られたような気がした。
乱暴な言葉選びでもなければ、乱暴な声音でもないのに――頭にガツンと拳骨を食らった気分だ。
「俺がアンタに色々やってるのは、それが俺にとって一番“気分がいい”行動だからだ」
「……気分が、いい?」
「ああ。俺が好きか嫌いか、俺の気分がいいか悪いか。俺にとっちゃァそれだけだよ」
気づけば、ぽかんと口が開いてしまっていた。
善の口から出てきたのは、大人っぽい見た目に全くそぐわない、子供のようにシンプルな言葉だ。
「お前さんは頭がいいから、色々考え込んだり、心配になったりするんだろう。
けど、俺についてはそこまで難しく考えるこたァねェよ」
困ったことに、私は善の言っていることが今ひとつ理解できない。
間抜けな顔をしているであろう私に、善はなんでもないように笑いかける。
「アンタと一緒にいると、俺も気分がよくなる。アンタが楽しそうに笑えば、俺も嬉しくなる。
アンタを傷つける奴は、俺もムカつくからぶん殴る。ほれ、難しいことなんざァ何もねェだろ?」
……私は善について、思い違いをしていたのかもしれない。
彼は人間のフリをするのが上手すぎるから、つい人間の物差しを当てて、解釈しようとしてしまったのかもしれない。
けれど、実際は――喧嘩煙管に過ぎない善の思考は、驚くほど単純だった。
「だからよ、珠希。俺にも分かるよう、端的に教えてくれ。俺と一緒にいるのは好きか?」
善が改めて、問いかけてくる。
……答えなど決まっている。
「……私、善といるのが、好き」
一緒に出かけるのは、楽しい。
贈り物をされると、嬉しい。
褒められるのは、好きだ。
善はいつも私を笑顔にしてくれる、心地いい存在だ。
……でも、それがなくなるとしたら。
もし、善が……私のそばを離れる理由があるとしたら。
「……善。私、善と一緒にいたい。お金とか、贈り物とかがなくても、いい。善がいれば、何もいらない……」
ああ、そうか――私が色々ぐちゃぐちゃ考えていた理由が分かった。
「私を、一人にしないで……こんな幸せ、二度と失いたくない……」
私は怖かったのだ。
私を満たす幸福が、再び失われてしまうのが。
善がいつか、私のなにかに幻滅して、他の人たちと同じように離れていってしまうのが。
だから、どうにか彼を繋ぎ止めようとして、彼の好意の理由を探そうとした。
「そんな縋るような目なんかしなさんな。道具は手前の主人から離れたりしねェからよ」
善は私の右手を取ると、薬指にラピスラズリの指輪をはめた。
ひやりとした指輪の感触は、驚くほどすぐに馴染んだ。
はめた感触も、重みも、初めてつけたとは思えないほどしっくりくる。
「俺ァ、か弱い女に縋られるよりも、強ェ女にこき使われるほうが好きなんだ。だから、安心して胸張ってな」
灰色の瞳が、朱色を帯びている。
火鉢の中の埋み火が息を吹き返すように、善の瞳が熱く語りかけてくる。
「……呆れた」
あれこれ考えて不安になっていたのが、馬鹿みたいだ。
複雑すぎる女と、単純すぎる男――あまりにも両極端で、正反対だ。
「アンタって、本当に道具なのね」
「おうとも、お前さんだけの逸品だぜ?」
善は私にニッと笑い返すと、指輪をはめた私の手の甲に口づけを落とした。
まるでごっこ遊びのような求愛に、思わず笑いがこぼれてくる。
次いで、善の顔がゆっくり近づいてくる。
次の展開を予想して、私は大人しく目を閉じる。
「しゃちょ〜? 珠希さまぁ〜?」
お互いの唇が触れようとした寸前で、突然、壱丸の無邪気な呼び声が廊下に響き渡った。
私が吃驚して目を開けるのと同時に、善もパッと私から離れる。
「も〜お二人ともどこですかぁ? かくれんぼしてぼくをからかってるんですかぁ〜?」
なんとも心細そうな壱丸の声。
廊下のあちこちをぽてぽて歩き回る足音。
私と善は廊下のほうに注意を向けつつ、「どうしよう?」とお互いに目線を送り合っていた。
そうこうしているうちに、壱丸の声がだんだんと切なげになってくる。
「まさか、ぼくを置いて二人きりでデエトとか……!? 内緒で豪華なディナーとか……!?
うわーん、ひどいです〜っ! お昼寝中に置いてけぼりなんてあんまりですよぉ〜!
ぼくもお腹空いてるのにぃ〜!」
きゅんきゅん泣いている壱丸には申し訳ないけれど、私も善も堪えきれず、とうとう噴き出してしまった。
勝手に落ち込んで、勝手に泣き出して、壱丸ったら可愛すぎる。
「ああ〜っ! やっぱり二人してかくれんぼしてたんですね! もうひどいですよう〜!」
私たちの笑い声に反応して、ぷりぷり怒った様子の壱丸が走り寄ってくる。
私はお詫びに壱丸を抱き上げ、思い切りもふもふ撫でてあげた。
「ごめんね、壱丸。お腹が空いて心細かったのね」
「ちょうどいいや。ほれ、林檎でも食いな」
「うわあ……しゃちょー、本当に包丁が下手っぴですねぇ……」
「るせェやい!」
朱色に染まる台所に、壱丸の無邪気な声と、善の笑い声が響く。
涙は流れることもないまま、私の中で乾き切っていた。
二章「骨董姫と瑠璃色の指輪」・了




