(18)林檎と見栄っ張り
『あいつ、きっと幽霊に呪われてるんだ! 花瓶や掛け軸と話すなんておかしいもん!』
暗闇の中で、子供の声が聞こえた。
はっきりと覚えている――私を貶す、かつての同級生の声。
『馬鹿言うなよ、あんなのかっこつけだって。不思議な女はかっこいいって思ってるんだよ』
『きっと病気なんだよ。気持ち悪~……』
休み時間に、学校の物と話していたところを見られて、一気に噂が広まったんだっけ。
ああ、ほっといてくれればいいのに、好き勝手に言ってくれちゃって。
今思えば、本当につまらない奴らだった。
『あの子、またあそこに来てるよ。困ったなぁ、三倉家のお嬢様じゃ下手に追い返せないし……』
『三倉さんも何考えてんのかねぇ。早く病院に連れて行ってやればいいのに』
『放置されてるんじゃないか? 可哀想に……』
……うるさい。
何も知らない奴が、私の両親を侮辱するな。
ああ、お父様、お母様、こんな娘でごめんなさい……。
『遊女ってのは必死なんだなぁ。骨董姫なんて変な噂流してまで売れたいのかね』
『まあ、不思議な女が好きって男もいるだろうからね。酔狂なこった』
『影で怪しい商売してるんじゃないかって噂だよ。ああ、いやだいやだ、卑しいったらないねえ』
黙れ、黙れ、黙れ。
私は何も知らない。
誰かが勝手に流した噂だ。
そんなもので私を語るな。
嫌い、嫌い、嫌い。
人間の声なんて、大嫌い。
*
ふっと目を開ければ、天井の木目が視界に入った。
部屋の中は、西日の橙色に満たされている。
そのまま静かに布団で横になっていると、柱時計の振り子の音が耳に入ってきた。
……時計のモノダマには申し訳ないけど、妙に煩わしい音だった。
(ああ、そうだ……帰ってきて、疲れて寝ちゃったんだ……結構爆睡しちゃったな……)
私はこんなに貧弱だっただろうか。
新しい生活になかなか体が慣れないのだろうか。
――いや、違う。半分以上はきっとあの女に遭遇したせいだ。
善とのお出かけなんて、楽しい一日になるはずだったのに……本当に災難続きだった。
「ん〜……すぴすぴ……」
私が体を起こすと、傍に敷いてあった座布団の上で壱丸が身を捩る。
起こしてしまったかと思ったけれど、寝返りを打っただけらしい。
鼻をぷすぷす鳴らして、その後も気持ちよさそうに寝息を立てていた。
私は壱丸を起こさないよう、そっと部屋を出た。
(善、またお仕事に出たのかしら)
家の中がいやに静かだ。
私以外の誰かが動いている気配が感じられない。
モノダマたちも、自分たちの定位置について眠っているのだろうか。
彼らも一応、眠ったりするらしいから。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、
「いッてェ!」
と台所のほうから善の小さい叫び声が聞こえた。
「ちくしょう、またやっちまった……! 何やってんだか……」
台所に向かうと、そこにはたすき掛けをした善が、包丁を片手に立っていた。
善が左手の親指をぴっと舐めて振り返ったところで、私たちの「「あ」」という声が重なる。
「善、アンタ何して……?」
「あー……はは、見られたかァ」
善は乾いた笑い声を零しながら、なんとも気まずそうに眉尻を下げていた。
背後にチラリと目をやると、まな板の上にいびつな形になった林檎が置いてあるのが見えた。
「その林檎は?」
「ああ、珠希が寝ている間に来客があってな。
うちの社員が食べきれねえ量の林檎をもらったってんで、お裾分けしてもらったんだ。
せっかくだから一緒に食べようかと思って、珠希が起きる前にササッと……な?」
あとはお察しください、ということなのだろう。
善はなんともばつが悪そうに、へにゃっと笑った。
……かっこつけに失敗した善の笑顔とは、また珍しいものを見た気がする。
「無理して切らなくても、私を呼んでくれればいいのに」
「馬鹿言うなィ、疲れて寝てるご主人様を叩き起こす野郎がどこにいやがる。……でも確かに、慣れないことはするモンじゃねえなァ」
情けねェ……と呟きながら、善は切った指に絆創膏を巻いていた。
よく見ると、既に右手にも二枚ほど絆創膏が貼られているので、相当苦戦していたようだ。
「善にも苦手なことがあるのね」
「そりゃァそうさ。俺ァ喧嘩のための道具だから、そもそも料理にゃ向いてねェんだ。
火を使えばなぜか黒焦げになるし、何度包丁で手を切ったか分かりゃしねェ。
今ちゃんと指がくっついているのが奇跡だぜ」
……思った以上に壊滅的だ。
才能がないどころの話じゃないかもしれない。
(向いていないと分かっているのに、それでも私に気を遣ったのね)
林檎なんてすぐに傷むものじゃないし、食べたければ私が目を覚ました後で頼んでくれてもよかったはずだ。
それでも切ろうとしたのは、疲れて大爆睡した私に食べさせようと考えたからだろう。
(うーん、これはなかなか……)
私はすっかりぬるくなってしまった林檎を手に取って眺める。
この林檎も元々はふっくらとした豊満体型だっただろうに、皮を剥くどころか可食部まで大きく削られてしまったせいで、いまや百貨店のマネキンも吃驚のモデル体型になっていた。
私は残りの皮を手早く剥き、ところどころ茶色くなった林檎をくし切りにしていく。
「……ありがとう。善は本当に優しいのね」
「ん? あー……いや、俺もちょいと食べてみたかったしな。その林檎」
「ふふ、そうなの」
善がちょっと照れている。
誤魔化すように口笛を吹いているのがおかしくて、私は笑ってしまった。
「……善。一つ、聞いていい?」
「なんだィ?」
「善はどうして、そんなに優しいの?」
なにげなく聞いたつもりだった。
けれど、言った途端、胸がちくりと痛むのを感じた。
善は返答に困っているのか、なにも言ってこない。
柱時計の振り子の音だけが、規則正しく鳴り続けている。
「私……なにも、返せないのよ。そのくせ、貴方を利用しようとしているのよ」
何もかも奪われ、遊郭に堕とされた私は、生きるために男を利用してのし上がってきた。
善は、私がどれだけずるい人間か、よく知っているはず。
……なのに、どうして。
「私なんかに、ここまで優しくしなくたっていいのよ……?」
ずっと胸につかえていた思いが、私の口からポロッと零れた。




