(17)麗華と婚約者
「一人でブツブツ話すクセは相変わらず? 本当、暗くて湿っぽい子ですこと」
麗華が周囲に聞こえない声量で悪口を言ってくる。
小さい頃の私を散々馬鹿にし、たくさんの嫌がらせをしてきた、大嫌いな女。
私は小刻みに震えだした手を、テーブルの下でグッと握りしめた。
「遊郭に身売りされたお前が、どうしてこんなところにいるの?
男に媚びを売り続けて助けてもらったとか? ああ、なんていやらしい」
心臓の音が不快でうるさい。
呼吸が浅くなっていく。
――駄目だ、取り乱すな私。
――こんな言葉、怒ってやる価値もないじゃないか。
――ここで変な行動を起こしたら、この女の思うつぼだ。
落ち着け、落ち着け、落ち着け――と私は繰り返し自分に言い聞かせる。
「あら、お料理が二人分あるのね? 愛人の方とご一緒だったの。
……もしかして、捨てられたところだったのかしら?」
お可哀想に、と小さく嘲笑する麗華。
もちろん、そんなことはないと頭では分かっている。
なのに、言葉がいやに突き刺さる。
「寂しいですわねえ、珠希。やっぱり、お前はどこに行っても愛されないのね。
身の回りの物しか友達のいない女なんて、あまりに不憫で泣けてきますわあ」
うるさい。うるさい。黙れ、馬鹿女……!
私は麗華に叫び返して、黙らせたい気持ちでいっぱいだった。
――その時だった。
突然、座席のテーブルクロスが独りでに動き、ずるりと落ちた。
さらに、その上に置かれていたサンドウイッチのお皿も落ちて、ガシャーン! とけたたましい音を立てて割れた。
「きゃあっ!?」
周囲の視線が一気に集まったのと同時に、麗華が大きく悲鳴を上げた。
予想外の出来事に、私は呆気にとられた。
「な、なんてこと……っ、わたくしのお洋服が……!」
麗華の形のいい唇が、ぶるぶると震えていた。
彼女の淡い桜色のスカートには、茶色のシミがくっきりとついている。
テーブルクロスが落ちた際、一緒に落ちた飲みかけの珈琲が触れてしまったのだろう。
ある程度冷めていたおかげで、麗華が火傷をせずに済んだのが幸いだった。
「この根暗女、よくもわたくしのお気に入りを!」
「お客様、どうか落ち着いて!」
麗華が私に食ってかかる。
それを、近くにいたウエイターが止めに入る。
お気に入りの洋服を台無しにされて業腹なのか、麗華の顔は真っ赤だった。
「……貴方がテーブルクロスを踏んだせいでしょう。言いがかりをつけるのはやめてくださいませんか」
私はこの状況を利用して、さらっと嘘をついた。
――おそらく、真犯人は壱丸だ。
私の危険を察知した壱丸がテーブルの下に潜り込み、機を見てクロスの端を引っ張ったのだろう。
私は席に座ってじっとしていたし、テーブルのすぐそばで動いたのは麗華だけ――周囲の客も、まさか店内に子犬がいたとは思わないはず。
ウエイターを振り切ろうとする麗華をじっと睨んでいると、
「麗華さん!」
と、麗華の背後から慌ててやってくる男性がいた。
「落ち着いてください。ご婦人や皆さんにご迷惑がかかります!」
「暁斗さんっ!」
私は麗華と男性――暁斗さんの様子を伺う。
暁斗さんは穏やかな声音と口調で、麗華をなだめていた。
「服なら私がまた新しいものを買いますから。それよりご婦人、お怪我はありませんか?」
「なによ! 婚約者よりも他人を心配するの!?」
……婚約者ぁ!?
と、口から飛び出そうになった台詞を、私はぐっと喉の奥に引っ込める。
危ない、危ない、遊郭で身についた煽り癖で、うっかり大笑いしてしまうところだった。
(こ、この女、今年で二十八歳よね?
十五歳からお見合いしてたのに、今までずっと未婚だったってこと……?)
まさか、私を虐めていた女が、こんな立派な行かず後家になっていたなんて。
しかも麗華は、婚約者の暁斗さんにも味方してもらえないことに苛立っているのか、泣きそうな顔になっている。
きっと幼稚すぎて、ずっと嫁の貰い手がいなかったのだろう。
こんな子供女を必死に宥めている暁斗さんも、可哀想なものだ。
「珠希、大丈夫か!?」
笑いを必死にこらえていたところで、親子を追いかけていた善が戻ってきた。
私は何食わぬ顔で、スッと席から立ち上がる。
「ええ、大丈夫。“人違い”で絡まれただけよ」
「とぼけないで、珠希! 貴方の左目の下のほくろ、わたくしはしっかり覚えていましてよ!」
…………このクソ脳無し女。
大勢の注目を浴びているこの状況が、どれだけ恥ずかしいのか分からないのか。
お互い穏便に済ませられるよう、わざわざ助け舟を出してやっているのに、阿呆なんだろうか。
私は猛烈に舌打ちをしたくなった。
「あ! 善一さ――百丸社長じゃないですか!」
どうしてやろうかこの状況、と私が考えていると、暁斗さんが善に気づくなり声を上げた。
「百丸社長、お久しぶりです! 覚えていらっしゃいますか?」
「ん? ……ああ! 誰かと思えば、千代沢社長のせがれじゃねェか!」
「はい、千代沢暁斗です! お会いできて光栄です!」
……善もそうだけど、暁斗さんもなかなか声が通る。
有名企業の社長の名前を聞いた周囲の客が、「百丸社長!?」「千代沢産業の御曹司か!?」といった感じでざわつきだした。
挙げ句の果てには、騒ぎを見て見ぬフリをしていた人たちまで、こちらを注目し始める始末。
「はは、こいつァ驚いた! 少し見ねェ間に立派になって……」
「百丸社長こそ、何ひとつお変わりなく!」
そりゃそうよ、だってその人、付喪神だもの……。
私は心の中で、暁斗さんにどうでもいいツッコミを入れた。
麗華に絡まれるわ、必要以上に騒がれるわ、助け舟を出しても馬鹿すぎて救えないわ、周りには大注目されるわ……。
さっきから災難続きで、どうでもいいことをして現実逃避をしないとやってられない。
「まあ、あの有名な社長さん! 初めまして、三倉麗華と申します」
男二人が握手しながら話しているところに、目の色を変えた麗華が割り込むようにして名乗る。
先ほどまでの般若顔はどこに行ったのだ、と言わんばかりの満面の笑み。
私はその分厚い横っ面を、思い切り引っぱたいてやりたかった。
「れ、麗華さん……! 申し訳ございません! 私の婚約者がそちらのご婦人にご迷惑を……」
会話から察するに、暁斗さんは善のことを慕っているのだろう。
その連れである私に迷惑をかけた麗華にも、早く謝罪をさせたくてたまらないらしい。
何も悪くないのに頭を下げる暁斗さんが哀れでならないので、私は笑顔を浮かべて返した。
「私のことでしたら心配いりませんわ、千代沢様。お騒がせして申し訳ございませんでした」
善を前に猫を被っていた麗華の顔が、一気に仏頂面になる。
彼女がまたなにかを叫ぼうとしたところで、今度は善が素早く割り込んだ。
「三倉財閥の麗華嬢、ですね? お怪我はありませんでしたか? 差し支えなければ当方がクリーニング代を」
「いえ、それには及びません! お気持ちだけで結構です」
これ以上長引かせるのは厄介だと判断したのか、善と暁斗さんは阿吽の呼吸で儀礼的なやりとりを繰り広げる。
麗華に割り込む隙を与えないよう、最低限の会話で上手いこと切り上げると、
「皆様、大変申し訳ございませんでした。それでは失礼いたします!」
と、暁斗さんがまだなにか言いたそうな麗華を引きずるようにして出ていく。
ああ、嵐が通り過ぎた……と私はそのまま脱力して椅子に座り込んだ。
「お客様、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」
ウエイターが気を遣って声をかけてくれる。
緊張状態から解放された反動なのか、手が小刻みに震えていた。
当然、気分だって買い物どころではなくなっている。
食堂の空気も、あの麗華のせいで最悪だった。
俯いている私に、善が膝を折って小さく声をかけてくる。
「珠希、今日はもう帰るか?」
「ええ……そうさせて」
「分かった。じゃあ、あと少しだけ待っててくれ」
善はがっくりと落ちた私の肩を軽く叩いて立ち上がると、
「店員さん、これを」
と、財布からお札を多めに取り出し、ウエイターに手渡した。
そして、持ち前のよく通る声で、周囲に向かって言った。
「皆様、大変お騒がせいたしました。ご気分を害してしまい、面目次第もございません。せめてものお詫びとして、ささやかながら皆様に珈琲を奢らせてください」
善の仰天発言に、私とウエイターが「えっ!?」と同時に目を丸くする。
周囲の客も顔を見合わせながらざわつきだした。
「代わりに、本日この場で起きたことについては、どうかご内密にお願い申し上げます。
千代沢殿とご婦人のためにも、そして私の妻のためにも、なにとぞご協力を賜りたく存じます」
私の妻のためにも――
という善の言葉が、私の頭の中で何度も反響した。
目の奥から、じわっと熱いものが染み出てくるような感覚がする。
店内はしばらく沈黙に包まれていたが、ふと、どこからかぱらぱらと拍手が起こった。
(すごい……一瞬で空気を変えた……)
瞬く間に善への拍手と賞賛で満たされる店内。
冷えきったスープのように澱んでいたお店の空気が、それまでの和やかな温度を取り戻したのだ。
善はもう一度丁寧に頭を下げると、私に手を差し伸べた。
「ほら、珠希。タクシー乗り場まで行こう。あと少しだけ頑張れるか?」
「あ……うん……」
私は少しぼうっとしながら、善の手を借りて立ち上がる。
私たちがお店の出入口へ歩き出すと、
「百丸様、お待ちください!」
と、なぜかウエイターが善を引き止めた。
「これでは金額が大きすぎます。今すぐお釣りを――」
「あァ、かまいません。余った分は新しい食器代と迷惑料として、どうかお納めを。では皆様、ごきげんよう」
――大企業を率いる社長の財力と機転、恐るべし。
善は私の肩を抱くと、颯爽と食堂を後にした。




