(16)ランチのひととき
その後も追加の買い物をしつつ、ついに最上階までやってきた。
エレベーターを降りた途端、洋食のスパイスやコンソメなどが混ざった匂いが、鼻をくすぐってくる。
どうやらここは、飲食店が集まるフロアのようだ。
「美味しそうな匂いですねぇ~……」
という、うっとりした声とともに、バッグの中からヒクヒクと壱丸の鼻先が出てくる。
その様子が可笑しくて、私はつい噴き出してしまった。
「善、そろそろお腹が空いたから、ここで休んでいかない?」
私がそう提案すると、善もすぐに頷いた。
「だな。このままだと、アンタの手元のバッグが一人で歩き出しちまう」
「本当にね」
そわそわしている壱丸を宥めつつ、私たちはいい匂いを漂わせているその食堂に入った。
席について、注文をして、しばらく待っていると、お待ちかねの料理がやってくる。
私は運ばれてきたサンドウイッチを適当な大きさにちぎり、バッグから顔を出した壱丸とこっそり分け合った。
「それにしても、錦花郷も洋食屋さんが増えてきたわね。見たことない名前のお料理もたくさんあったし……」
「最近は錦花郷独自の食べ物を作ろうって動きもあるらしいぜ。
桜花郷の真似事ばかりじゃ面白くねェからってんで、どこも気合いが入ってるみてェだ」
そう言いつつ、善はカレーライスを口に運ぶ。
この不思議な香りのするカレーも、錦花郷が生み出した西洋風の料理らしい。
「確かに最近はお料理やお洋服も、錦花郷発祥のものが増えているみたいね。いいことだと思うわ」
「カカ、桜花郷が帝都の座であぐらをかいていられるのも、今のうちかもなァ?」
善は笑いながら、真っ黒な珈琲を啜る。
それに合わせて、私もミルクと砂糖たっぷりの甘い珈琲を啜った。
「しかしまあ、珠希はあの場所でよく頑張ってたなァ。
錦花郷の人間なんて、桜花郷じゃ当てつけの的にされちまうだろ」
いわく、善は貿易商として、桜花郷に出張することも多いのだという。
しかし、そんな時は決まって、錦花郷の奴だと馬鹿にされて嫌な思いをするそうだ。
「まあ、最初は散々だったわね。
『よそ者が桜花郷の食べ物を口にするな』って、他の子からご飯を取り上げられたりとかもしたし」
「マジかよ、酷ェ話だなァ」
「でも、その子たちのお客さん、後でみんな私がもらっちゃったけどねえ」
「ふはっ! そりゃいい気味だ、向こうもさぞ痛かっただろうよ」
叔父と叔母は、私が冷遇されることを見越した上で、あえて遠方の桜花郷の遊郭に行くように仕組んだのだろう。
悔しさも涙も全部バネにしようと思わなければ、やってられなかった。
あんな汚い奴らの思惑通りになってたまるか、と歯を食いしばって、私は必死に働いていたのだ。
「やっぱり珠希は強ェなァ。さすが俺の惚れ込んだ女だ」
「ふふふ、ありがとう」
お互い微笑み合ったところで、私たちの席のすぐそばを、親子三人のお客さんが通り抜けていく。
その直後、善は床を見て「あっ」と小さく声を上げた。
私もつられて床を見ると、可愛いうさぎのぬいぐるみが落ちていた――先ほど通り過ぎていったご家族の、お嬢さんの物だろう。
「珠希、ちょいと待っててくれ」
善はぬいぐるみを素早く拾うと、さっと汚れを払って、通り過ぎていった親子を追いかけた。
私が善の背中を見送っていると、バッグの中から「ふふふっ」と壱丸の小さい笑い声が聞こえた。
「しゃちょーってば、やっぱり庶民派ですねえ」
「ウエイターを呼ばなかったから?」
「はい。まあ、ここは大衆食堂ですから、テーブルマナーはあんまり気にしなくていいと思いますけどね。
あっ、悪く言ってるつもりはないですよ!」
「分かってるわ。私もそう思っていたところよ」
壱丸も三倉家の生活をよく見ていたのだろう。
テーブルマナーを厳しく躾られた華族なら、こういう時はウエイターを呼んで託すし、わざわざ自分の足で追いかけていくようなことはしない。
でも、善は急がないと親子を見失ってしまうと焦ったのだろう。
ウエイターは近くにいなかったし、自分の足で追いかけた方が確実に届けられると判断したのかもしれない。
「善って偉い人なのに偉い人っぽくないわよね」
「しゃちょーは人情家ですからねぇ〜」
善は大企業の社長というわりに粗野なところも多いけれど、変に気取ったところもないからこそ、魅力的なのだと思う。
飾らずありのままに振る舞える彼だから、私は惹かれたのかもしれない。
「あら、食堂なのにカビ臭いわあと思っていたら、道理で」
と、不意に背後から女性の声がする。
まるで背中を氷柱で刺されたようだった。
さっきまで温かかった胸の中心が、一瞬にして凍りつく。
「なんてお名前だったかしら? ……そうそう、思い出しましたわ!」
振り向いた私は、一瞬呼吸を忘れた。
絹のように滑らかな黒髪、濃い薔薇色のルージュ。
完璧に計算された装いの真ん中で、細い顎が傲慢に持ち上げられていた。
「お久しぶりですわね、珠希」
――三倉麗華。
汚い錆のように私の記憶にこびりついている、この世で一番大嫌いな女だった。




