第9話: 六文字の肩書
「薬師」の二文字が、書面のどこにもなかった。
ベルナールが手渡した羊皮紙を、セラフィムは殿下の枕元の灯りに翳した。薄い紙だった。
指の腹に羊皮の乾いた手触りが残る。墨が薄い——急ぎの書面だ。医務室長の署名。公爵家執務官の受理印。記された肩書は「臨時解毒担当」。
三年間の専属契約が、六文字に置き換わっている。
「専属薬師の肩書は使えん。解除された契約の上に処方権は載せられない」
ベルナールの声に私情はなかった。一晩中起きていたはずだが、声は明瞭だった。
「承知しています」
「殿下の解毒と容態管理のみ許可する。殿下以外への処方は禁止だ」
「はい」
「公爵閣下にはどのようにお伝えくださいましたか」
「殿下の解毒に不可欠な人材だと。嘘は言っていない」
「調合室はリュカの管轄にある。使えない」
あの部屋。薬材の配置を自分の手で決めた場所だ。引き出しの一番上に殿下の体質記録を入れ、リンデンの基剤を種類ごとに並べた。
一度だけ殿下がふらりと薬を取りに来たことがあった。棚の瓶を一つ持ち上げて——これは何だ、と訊いた声が、まだ耳の奥にある。
もう自分のものではない。
「医務棟に空き部屋を用意させた。薬材も揃えてある」
「ありがとうございます」
「それと——」
ベルナールがわずかに声を落とした。
「宮廷への通達は今朝出した。殿下の治療に臨時の解毒担当を充てると。名前は伏せていない」
名前を伏せていない。
契約を解かれた薬師の名が、宮廷中に知れ渡る。
「覚悟はしています」
書面を畳み、懐に入れた。
傍らでフランツが立ち上がった。
「セラフィム殿。殿下のお傍は私が」
「お願いします。すぐ戻ります」
殿下の顔を見た。
呼吸は穏やかだ。先刻取った脈は明け方より少しだけ力を取り戻していた。
応急の解毒剤は効いている。だが中和できたのは表層だけだ。奥にはまだ翡翠水が残っている。
今日も投薬を続けなければならない。
ベルナールの半歩後ろを歩いた。
朝の廊下は冷えていた。石の壁が夜の寒さを残している。
白衣の裾が石畳を擦る。
すれ違う者たちの目が、変わっていた。
女中が足を止めた。セラフィムを見て、隣の者の袖を引いた。
目を逸らされた。
会釈はなかった。
三年間この廊下を歩くたびに声をかけられた。咳の薬を頼まれ、子供の湿疹を相談された。名前を呼ばれた。
今は目を逸らされる。
角を曲がったとき、背後から声が落ちた。低い声だった。衣擦れの音が重い——女中ではない。
「——解かれた薬師が、なぜ戻っている」
「殿下の解毒にはあの者しかいないらしい」
「三年も傍にいて毒に気づけなかった薬師が、今さら解毒?」
「まさか——毒を盛った本人が戻ったのでは」
「声が大きい」
声が止んだ。
セラフィムは足を止めなかった。
聞こえていた。すべて。
——三年も傍にいて気づけなかった。それは事実だ。
顔には出さなかった。
「ベルナール殿」
「何だ」
「お気遣いなく。想定の範囲です」
「想定していたのか」
「契約を解かれた薬師が宮廷に戻れば、こうなります」
ベルナールが前を向き直した。
「だが聞き捨てならんこともある。私の権限で——」
「噂は止めないでください」
ベルナールの足が止まった。
「僕が疑われることは構いません。犯人は殿下のお傍にいた人間です。僕が戻ったことで何かが動くかもしれない」
長い沈黙があった。
「……毒と薬の両方に精通する家は、つくづく厄介だな」
褒めたのか呆れたのか、判断のつかない声だった。
医務棟の入り口で衛兵に呼び止められた。
「止まれ。身分を確認する」
「臨時解毒担当のセラフィムです」
書面を見せた。衛兵が目を通し、名前のところで視線が止まった。
「殿下の契約を解かれた薬師か。昨夜から王宮は厳戒態勢だ」
「存じています」
「いつまでだ」
「殿下の毒が消えるまでです」
「契約もなしにか」
「書面がございます」
衛兵が鼻を鳴らした。
「この者は私が呼んだ。通せ」
ベルナールの一言で衛兵が退いた。
書面を返す手が、わずかにぎこちなかった。
医務棟の端。階段を半階降りた先に、部屋はあった。
天井が低い。窓は掌ほどの大きさで、外の光がほとんど届かない。壁の向こうから薬品の匂いが微かに漂っている。
「元は保管室だ。荷を片づけさせた」
ベルナールが先に入った。セラフィムは敷居を跨いだ。
調合台が一つ。椅子が一つ。壁の棚に最低限の薬材が並んでいる。
乳鉢と天秤。水差し。壁に蝋燭台。
以前の調合室は東翼の最上階にあった。大きな窓から陽が射し込み、三面の壁を薬材棚が埋めていた。
リンデンの基剤だけで十二種。殿下の体調に合わせて瞬時に選べるよう、自分の手で配置を決めた。
ここには棚が一つ。
リンデンの基剤は一種のみだった。
「足りなければ申告しろ。薬品庫から出す許可は出す」
「ベルナール殿。中和剤の粒度が粗いようです。上等のものは薬品庫にありますか」
「あるはずだ。管理番に言え」
「煎剤の原料も乾燥が進んでいます。新しいものがあれば」
「必要なものを書き出せ。揃えさせる」
「苦い粉末もお願いできますか。脂溶性の成分を引き出すのに要ります」
「書き出せと言っただろう。全部出す」
「ありがとうございます」
「昨夜から一度も寝ていないだろう」
「少し——」
「嘘をつくな。薬師は嘘をつかないんじゃなかったか」
言葉に詰まった。
殿下の脈から指を離せなかった。呼吸の変化を一つも見逃したくなかった。
「……取れませんでした」
「今日の投薬は午後にしろ。午前は準備と休息に充てろ」
「ですが殿下の——」
「午前の容態は私の薬師が診る。午後に解毒剤を持って来い。それまでに眠れ」
命令だった。
医務室長としてではなく、医者としての命令だった。
「……承知しました」
ベルナールが出ていった。
扉が閉まると部屋に静寂が落ちた。
小さな窓から細い光が差している。
セラフィムは棚の前に立ち、薬材を一つずつ手に取った。
蓋を開け、匂いを嗅ぐ。瓶を傾けて色を見る。三年分の薬草で染まった指先で粒度を確かめる。
鉱物系の中和剤は粒が粗い。このままでは溶けきらず殿下の喉に引っかかる。
植物性の煎剤の原料は乾燥が進んでいる。煎じる時間を通常の三割増しにしなければ成分が出ない。
苦い粉末は在庫が心もとない。脂溶性の毒を引き剥がすのに欠かせない成分だ。
だが使えないわけではない。
手間をかければ精度は出せる。
白衣の袖を捲った。
鞄から帳面を取り出し、調合台の隅に置いた。殿下の体質記録。三年分の処方が記された五冊のうちの一冊だ。
乳鉢を洗い、天秤の零点を合わせ、布巾で台を拭いた。
薬師の仕事は準備から始まる。道具を清め、手を清め、頭を清める。
三年前の着任初日と変わらない。
場所が変わっただけだ。
——眠れ、とベルナールは言った。
椅子に座り、目を閉じた。
閉じた瞬間に殿下の蒼白な顔が浮かんだ。罅割れた唇。無意識に動いた指。脈の乱れを指先が覚えている。
三十分で諦めた。
扉が叩かれた。
「薬品庫からの届け物です」
若い薬師が木箱を抱えて立っていた。モンテーニュ家の紋章がついた白衣を着ている。
「ありがとうございます。中に置いてください」
木箱を開けた。中和剤の上等品。新鮮な煎剤の原料。苦い粉末が二種。
ベルナールが手配してくれたのだろう。
「ベルナール殿のご指示で急ぎ揃えました」
「助かります。これで殿下に合わせた配合ができます」
若い薬師がセラフィムの手元を見た。白い薬材に映える緑色の指先。
「……解毒がうまくいくことを祈っています」
小さな声だった。言い終える前に目を伏せ、背を向けた。
足音が廊下に消えた。
冷たい視線ばかりではない。
だがそれは殿下のためであって、自分のためではない。
午後の解毒剤にかかった。
昨夜の応急処置は三成分の中和を同時に行った。今日からは違う。
殿下の体が一晩かけて毒をどう代謝したかを推定し、残存する毒の比率に合わせて配合を組み直す。
帳面を開いた。殿下の体重。基礎代謝。過去三年の服薬履歴。すべてが配合に影響する。
届いたばかりの中和剤を乳鉢に入れた。上等品は粒が細かく、軽く砕くだけで均一になる。
新鮮な煎剤の原料を火にかけた。乾きのない葉は成分の出が早い。
苦い粉末を天秤に載せた。二種あれば殿下の代謝に合わせた加減ができる。
薬材が変われば精度が上がる。
殿下の体を知っている限り、正確な解毒剤は組める。
杯に注いだ液体を窓の光に翳した。色を見る。濁りはないか。
匂いを嗅いだ。
舌はまだ痺れている。昨日の翡翠水の名残だ。味見はできない。
だが鼻で分かる。三つの成分が鼻腔の奥で均衡している。配合は間違っていない。
殿下の部屋の扉を叩いた。
「どうぞ」
フランツの声だった。
遮光布の下りた暗い部屋。枕元の燭台が一つ灯っている。
殿下は変わらず眠っていた。
「容態はいかがでしたか」
「ベルナール殿の薬師が午前に一度診てくださいました。脈と体温に大きな変化はないとのことです」
「分かりました」
「フランツさんはお休みになれましたか」
「少しだけ。殿下のお傍では眠れぬものでございます」
寝台の傍に膝をついた。
殿下の手首を取り、脈を診る。
昨夜より確かに強くなっている。
だがまだ足りない。健康なときの殿下はもっと安定した脈を打っていた。
額に手を当てた。まだ熱い。昨夜の灼けるような温度ではないが、平熱には遠い。
「フランツさん。お願いします」
「はい」
フランツが枕元に回り、殿下の後頭部を支えた。
杯を唇に当てた。
数滴ずつ。呼吸を読みながら。
殿下の喉が動いた。
飲んでいる。昨夜と同じだ。意識がないのに体が薬を受け入れる。
唇に残った薬液を、指先で拭った。三年間続けてきた仕草だった。
この手から薬を受け取ってきた体が、覚えているのだろうか。
——お前の薬など三年間一度も効いたことがない。
あの言葉が蘇った。
効かなかったのなら、なぜ体が覚えている。
問い返す相手は目を閉じたまま動かない。
「……飲めました」
杯を下ろした。フランツが殿下の頭を枕に戻す。
「浸透を待ちます。一刻ほどかかります」
「セラフィム殿」
「はい」
「午前中に一つだけ気になることがございました」
「何ですか」
「殿下のお指が動いたように見えました。ほんの一瞬でしたが……右のお手でございます」
フランツの声が震えていた。両手を膝の上で握っている。
「どのように動きましたか」
「握るように。寝返りかもしれませんが、意識のないお方が……」
「ほかに変化は。声を上げる、瞼が動く。そういったことは」
「いいえ。お指だけでございました。すぐにお伝えしたかったのですが、セラフィム殿がお休みになられていると聞いておりましたので」
「体が回復に向かっている兆候です。解毒剤に反応して神経の機能が戻り始めている」
「殿下のお体が、薬に応えてくださっているのですね」
「ええ。殿下は強い方です」
フランツの目がわずかに潤んだ。
「では、殿下は——」
「まだ楽観はできません。脂溶性の毒は奥に残っています。ですが体が戦ってくださっている」
一刻が過ぎた。
殿下の脈がわずかに整ってきた。体温も下がり始めている。
今日の投薬も成功だ。
フランツが白湯を持ってきてくれた。
「お飲みください。朝から何も召し上がっていないでしょう」
「……ありがとうございます」
白湯を受け取ろうとした指先が微かに震えた。
一口含んだ。舌の痺れに温度が染みた。
「お舌の痺れは大丈夫でございますか。昨日、殿下のお肌から毒を舐め取られたとき……」
「微量です。時間が経てば消えます」
「……ご自身のお体もどうかお大事に」
「フランツさんこそお休みください」
「セラフィム殿も同じでございましょう」
「……お互い様ですね」
フランツが微かに笑った。疲れ切った顔だったが、目元に安堵が滲んでいた。
「少しだけ失礼いたします。夜番への引き継ぎがございますので」
「お願いします」
「セラフィム殿」
扉の前でフランツが振り返った。
「殿下は——きっと目を覚まされます。この三年間のお薬が、殿下のお体を支えてまいりました」
「ええ。目を覚ましていただきます」
フランツが小さく頷いて出ていった。
部屋にセラフィムと殿下だけが残った。
遮光布の隙間から、夕焼けの色が壁を伝っていた。
静かだった。
殿下の呼吸の音だけが部屋を満たしている。
昨夜とは違う呼吸だ。あのときは浅く不安定だった。
今は深い。ゆっくりと規則正しく繰り返される。
この呼吸を三年間聴いてきた。
不眠が続く夜に安眠剤を届けた。翌朝の殿下の顔色を見れば前夜の眠りの深さが分かった。効き過ぎれば深すぎる眠りになり、足りなければ浅い眠りが続く。
今のこの呼吸は、安眠剤が正しく効いた夜に似ている。
毒に侵された体が、解毒剤で束の間安らいでいる。
「……殿下」
声にならなかった。
返事はない。当たり前だ。
だが三年間、この呼びかけに返事がなかったことは一度もない。
膝の上の帳面に目を落とした。
昨夜開いたままの頁。「処方第一番。鎮痛剤。殿下。頭痛。」
三年前の着任初日。殿下はひどい頭痛を抱えていた。何も言わなかった。顔色だけでセラフィムが気づいた。
鎮痛剤を差し出したとき、殿下は少しだけ目を見開いた。
——面白いことを言う。
あの声を、まだ覚えている。
頁をめくった。
処方第二番。鎮静剤。不安。
処方第三番。消化剤。食欲不振。
処方第四番。鎮痛剤。頭痛。再発。
一行一行が殿下の体の記録であり、自分が殿下の傍にいた証だった。
この記録を辿ることは殿下の体を辿り直すこと。毒を盛った者の手がかりを探すことは、殿下に触れ続けた自分の三年を掘り返すこと。
帳面を閉じた。
両手でその重さを抱えた。
夕焼けが消え、部屋が暗くなっていく。蝋燭の灯りだけが殿下の横顔を照らしている。
眠っているだけのように見える。
だがこの人は眠っているのではない。毒と戦っている。
目を覚ましてください、殿下。
声にはしなかった。
扉の向こうで足音がした。
硬い靴底だ。歩幅が狭い——立ち止まったのは扉から三歩手前。
そのまま通り過ぎた。
帳面を持つ手が止まった。
——犯人は殿下のお傍にいた人間だ。
あの歩幅を、明日フランツに確かめよう。
明日の朝、三度目の解毒剤を調合する。殿下の脈を読み、体温を測り、帳面と照合して配合を決める。
毒が消えるまで。殿下が目を覚ますまで。
帳面の背表紙に指を置いた。
三百十二の処方が、今はたった一つの解毒に向かっている。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
Arc2「三百十二の処方箋」が始まりました。第九話の主役は「臨時薬師」という肩書そのものです。「薬師」でも「専属」でもない、ただの「臨時解毒担当」。三年間の献身がこの六文字に収まる理不尽を、セラフィムは正面から受け止めます。
裏設定をひとつ。セラフィムが噂を止めないでほしいとベルナールに頼む場面がありますが、これは覚悟の表明だけではありません。毒と薬の両方を知るラヴェール家は、情報も毒も薬も等価だと考えます。自分への疑惑という「毒」を犯人を炙り出す「薬」に変える——セラフィムはすでにそう動いています。
次回、第十話「意識のない主」。解毒を続ける中で、セラフィムは眠り続ける殿下に語りかけ始めます。
☆ブクマ・評価・感想をいただけると次話の励みになります!




